3.螺旋階段 (2)

 イコが下に辿り着いた時には、大きな鳥籠の揺れはほとんど収まっていた。
 息を切らせて駆け下りたイコは一瞬、呼吸も忘れて鳥籠中の少女に目を奪われる。
 ――白い、とてもきれいな人。
 それが少年が真っ先に感じたことだった。
 イコが今まで見たどんな人より白く美しい面に、艶やかな銀糸の髪が飾られている。短い銀糸は少女がほんの少し動いただけでもさらさらと煌き、身に着けている白い服、肩に掛かったケープやスカートの裾がふわりと揺れた。
 薄暗い闇の中で、その少女は確かに光を放っていた。比喩ではなく、本当に。少女の内から滲み出すような淡い、白い光。それは空から降り注ぐ光にどこか似ていて、絶望に黒く塗りつぶされてしまいそうだったイコの心を優しく照らした。けれど、その光はなぜかとても儚く、今にも消えてしまいそうで、透明な不安が今にも溢れてしまいそうだった。
 少女が動くと、キィ、という音を立てて鳥籠が微かに揺れた。
「あ……」
 イコの口から落胆のため息が漏れる。
 そう。鳥籠は、まだ中空に浮かんでいた。
 中の少女は静かに、どこか不思議そうに少年を見つめている。
 イコはしばらく悩むと、思い切って少女に声を掛けた。
「ねえ、君、そこから出られる?」
 地面に着いていないとはいえ、今鳥籠が吊るされている位置なら軽く飛べば手が届くだろう。もし鳥籠から出られるのなら下で自分が受け止められる、と考えたのだ。
 しかし相変わらず少女からの返答はない。すぐ近くまで近寄ってくるイコを静かに見つめるだけだった。
 言葉が通じないのか、中から扉を開くことはできないのか。その両方なのか。
 わからないままだったが、ひとつだけ確かなことがあった。
 ――この人を、このままにはしておけない。
 強く、そう思った。
 この鳥籠から解放するためには扉を開かなければいけない。しかし現状では鍵がかかっているのかすらよくわからない。頭上に佇む鳥籠によじ登ることができればよいのだが、まるで少女に近づく者全てを拒絶しているかのようないくつもの棘がそれを阻む。
 ――下がダメなら上とか……
 そう思って目線を動かし、気が付く。
 鳥籠が下りてきた先には、あの大きな受け皿のような台。正面には石像が並んでいる。
 ――石像の上からだったら、飛び乗ることができるかもしれない。
「もう少し待ってて!」
 少女に声を掛けると、イコは螺旋階段へ至る梯子の向かいにある、もうひとつの梯子へ向かって走った。崩れた足場の上を踏み外さないよう、それでもできる限りの速さで駆け抜け、石像の上に辿り着いた。
 距離を測るために、じっと目の前の大きな鳥籠を見据える。
 改めて、間近で目にしたそれは、鳥籠と言うよりむしろ檻に見えてくる。
 どちらにしろ、少女を閉じ込める存在であることに変わりはないのだけれど。
 今はそんなことを考えている場合ではない、と微かに頭を振って、イコは鳥籠――檻に向かって跳躍した。
 ――ガシャンッ
 少年が飛び乗った衝撃に檻が大きく揺れた。
 イコは振り落とされないよう、檻を吊るす鎖に手を伸ばす。しかしその手が鎖をしっかりと掴む間もなく。
 ブチリ、と何かが千切れる音が聞こえた気がした。
 次の瞬間、鎖の千切れた檻は残されたわずかな距離を落下した。
「うわあ!!」
 体勢を立て直す暇も与えられず、イコは檻から振り落とされ、背中から石床に叩きつけられる。檻の落ちた振動によって、松明として壁に掛けられていた一本の木の棒が傍らに落ちてきた。先端に火を灯したまま、カラカラと軽い音を立てて僅かに転がり、やがて止まった。
 かろうじて再び気を失うことだけは免れたイコは、痛みに顔をしかめながらゆっくりと上半身を起こし、耳慣れない足音に目を向け、その先にあった光景に息を呑み、動きを止めた。
 衝撃で扉が開いたのだろう。
 少女が檻の外から出ようとしていた。
 周囲の闇を駆逐するわけでもなく、ただその存在を浮かび上がらせる淡い光を纏った少女は、素足のまま、どこかぎこちなく頼りなげな歩みで檻の外へとその身を移す。そして少年に瞳を向けると、ふっくらとした優しげな唇が僅かに動いた。
「ESAD AHTN OKD AR ETI ON」
 優しく響く透き通った透明な音色が、聞きなれない不思議な旋律を紡いでゆく。
 ぼうっと聞き惚れていたイコは、自分が話しかけられていたのだと気付くと慌てて口を開いた。焦りの余り、とっさに口が回らずどもってしまう。
「ぼ、ぼく、イケニエなんだ。ツノがはえたから」
 少女が何を言っているのかまったくわからないし、自分の言葉が通じているのかどうかもわからない。けれどイコは急き立てられるようにして話し出した。
「ツノの、はえたこどもはここに連れてこられるんだ」
 少女がゆっくりと少年に近づいてゆく。
「きみもイケニエなの?」
 檻に閉じ込められていた、白い少女。
 光を纏う、ひと。
 角のない、ひと。
 ただわかるのは、目の前の少女が、自分とは違う存在なのだということだけだった。
 自分とは違うひと、異なる存在。
 そのことを意識したとたん、少年の胸に言い知れぬ不安が湧き上がった。それは、恐怖、と呼ばれる感情にも似ていた。
 白い少女に、夢で見た黒いヒトの姿がちらつく。
 空気が重い。息が苦しい。
 自分の目の前にいる存在がわからない。理解できないが故に恐ろしかった。
 身体を強張らせて動くことのできないイコの傍らまで近づいた少女は、身をかがめてその白い繊手を少年に向けてそっと伸ばした。
 思わず身をのけぞるようにして息を呑んだ少年の頬に、少女のたおやかな指が優しく触れる。
 しっとりとした感触のそれは、とても温かかった。
 ――あぁ……何だ……
 今にも体中を覆い尽くしてしまいそうだった恐怖が、あっという間に氷解していく。
 恐れ、怯えていた自分がばかばかしくなる。
 例えどれ程自分と違う存在であったとしても、今、目の前にいるのは自分と同じひとなのだと、頬に触れる温かさが教えてくれる。
 それに、少年を見つめるその瞳は、少年の身を案じて揺らめいていた。
 イコの自惚れでも何でもない。確かにその想いは伝わってくる。
 ――ぼくは、何を見ていたんだろう。
 こんな簡単なことに気が付かないなんて。こんな、確かなものを見落とすなんて。
 イコの視線が、改めて少女と絡み合う。
 自分が少女に何を言いたいのか漠然としたままで、それでも何か言おうと少年が唇を開きかけた、その時だった。
「…………!」
 小さな悲鳴を残して少女の姿が消える。
 いや、消えたわけではなかった。
 ソレは人の形をしていた。漆黒の影。それとも、光を暗い尽くす暗黒のけむりだろうか。
 突如現れたソレが、少年の目の前から少女を攫って行ったのだ。
 驚愕のあまり呆然としているイコの瞳に、連れ去られてゆく少女が映る。
 微かに強張った表情が。戸惑いと、何より恐れに揺れる瞳が。少年に向かって、わずかに伸ばされた、その白い腕が。そして。
 その華奢な腕が、途中で糸が切れたように力を失い垂れ下がる様が。
 その時少女の瞳に浮かんでいたものは、先刻とうって変わっていた。
 悲しみ、決意、それから――諦め。
 ――ダメ……
 イコの目の端に、小さな光の揺らめきがちらつく。それは、たとえほんの僅かといえど、確かに闇を打ち払う、炎の輝き。
 ――やめて……っ
 少女が遠ざかってゆく。
 苦しかった。まるで、魂が引き裂かれようとしているみたいで。
 怖かった。今まで感じたどんな恐怖より――あの暗い夢に感じたものよりもずっと。
 ほとんど無意識のうちに動いた身体は、未だ小さな明かりを灯し続ける松明の棒を掴み取っていた。
「その、ひとを……!」
 揺らめく影が向かう先には、闇の深淵。どんな光も通さぬような、あらゆるものを吸い込んでしまうような、それでいてそこに収まりきれない濃い闇が、影が、外に漏れ出る漆黒の穴だ。
 そこに連れて行こうとしているのだ。
 光溢れる、あの少女を。
「そのひとを、放せえぇぇぇぇっ!!」
 少女を担いだ影が闇に足を踏み入れるより数瞬早く、追いすがったイコの手に握られた、小さな煌きを宿す棒がその胴を薙いだ。
 まるで泥水をかき出す様な重い手ごたえに、イコは思わず目を見張った。それでも力を振り絞って棒を振りぬく。
 見事、命中した棒は、漆黒の煙を撒き散らし、影の胴体をすり抜けた。
 さすがに耐え切れなかったのだろうか、影は少女を振り落とすと、重々しい音を立てて石床に倒れこんだ。
 その隙に、イコは少女を背後に庇うようにして、影との間に割って入った。
 やがて起き上がってきた影は、イコを警戒する動きを見せつつ、それでも執拗に少女を狙っていた。
 少女に近づけまいとイコが棒を振る。影は大柄な見かけに意外な俊敏さを見せて、それをかわすと、大振りに体勢の崩れたイコに向かって丸太のような腕を振るった。
 先ほどの泥水のような形のない手ごたえと違い、今度は見た目通りの丸太や岩を思わせる硬い衝撃がイコを襲う。
「うぁっ」
「――!」
 イコのうめき声と、少女の小さな悲鳴が重なる。石床に叩きつけられたイコは、今にも薄れそうな意識を叱咤して必死の思いで少女に目を向けた。
 少年に向かって悲痛な眼差しを向ける無防備な少女に、影が迫る。
 その光景を目にした瞬間、イコの意識は一気に覚醒した。
 衝撃が抜け切らない身体を奮い立たせて、自分でも意味不明な雄叫びをあげて影に立ち向かう。
 何度倒されても、その度に立ち上がっては、とにかくがむしゃらに手にした唯一の武器を振るい続けた。
 ――いや。
 本当の、唯一にして絶対の武器は、少女を守る、その思いだったのかもしれない。




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