3.螺旋階段 (3)

 気が付いたときには、影は倒れ、霞となって消えていった。闇の漏れ出る漆黒の穴も蒸発するように消えていった。先刻まで闇の穴が広がっていた辺りの石床は、そんな痕跡を何一つ残さず、少年が入ってきたばかりの時と変わらぬ姿を見せている。
 イコは荒い息をついたまま、その様子をじっと見つめていた。今になっても何が起こっているのか、完全に理解することはできない。しかし、少なくとも今現在において一つの脅威を撃退することができたのだという思いが実感として湧き上がってくると、急に膝から力が抜けて倒れそうになってしまった。それを何とか堪えて、背後の少女に振り返る。少女はあまり感情の見えない瞳で静かに少年を見つめていた。
 イコはいまだ膝をついたままの少女の傍まで行くと、
「今のなに? きみを狙ってた?」
 やはり、少女からの答えはない。
 しかしイコは気付いてしまった。まだ微かに震える細い肩に。
 それで十分だった。
「きみも、こんなところにいるとあぶないよ」
 少女に向かって左手を差し出す。
 迷いはなかった。
「とにかく、ここから出ようよ」
 自分に向かって真っ直ぐ差し伸べられた手に、少女は戸惑った様子だった。けれど、わずかな逡巡の後――
 躊躇いがちに伸ばされた白い手は、確かに少年の手に重ねられた。
 夢でも幻でもなく、間違いなく感じる手のひらの重みと暖かさ。
 イコはとても大切な宝物のように、そっと、そして力強く握り締めた。
 少女の手を、はなしてしまわないように。

 少女の手を取り、立ち上がるのを助けたところで、イコの意識はようやく現実に直面した。
 それは即ち根本的な問題であって。
 ――どうやってここから出よう。
 今更ながらにその問題を考える。
 上は確かに外と繋がっていたが、出口は無かった。神官達に連れてこられた最初の部屋に戻ろうにも、その部屋とこの塔を繋ぐ入り口――少年が通り抜けてきた窓は、思いっきり跳んだところで指先がかすることもない頭上にある。
「きみは別の入り口を知らない?」
 傍らの、手を繋いだ少女に問いかけるが、不思議そうな表情で見返されるばかりだった。
 やっぱり言葉が通じないのかな、と思いつつ、イコは少女の手を引いて石像に向かった。頼りなげな少女の歩みに合わせてゆっくりと歩く。
「神官様たちが使った剣があれば、きっとあの石像が動いて向こう側にいけると思うんだ」
 言葉が通じないことを確信しつつも、少女に自分の考えを説明する。
「剣は石像の前にきたらいきなり輝きだしたんだ。その光が石像にすいこまれていって、石像が動いたんだよ。……だからやっぱり、ほかに石像を動かす仕掛けがある、なんてことはないかな」
 あのレバーみたいに。
 最後の言葉は発することなく飲み込まれた。
 少女を連れて石像の前まで辿り着くと、同じことが起こったのだ。
 先ほどまで少年が口にしていたこと。
 突然溢れ出す青白い光の奔流。
「……え……?」
 光に押されるように、たたらを踏んでイコは数歩あとずさった。
 少女の前に、あの――神官達が掲げた剣と同じ光が現れる。
 それはあの時の再現のように、同じく幾筋もの光を石像に向かって放ち、そしてその光を受けてまぶしく輝きだした石像は重い地響きの音と共にゆっくりと左右へ動いた。
 そしてその先には光に霞む出入り口が見えた。
 道が、開かれたのだ。
 驚きと喜びに、イコは少女に駆け寄った。
「どうやったの?」
 イコの言葉に少女は首を傾げた。少年の言葉を理解しての事なのかはわからなかったが、少女自身、意識しておこなった事ではないのだろう、戸惑いと困惑の表情を見せていた。
 イコは漠然と、このせいで少女は檻に閉じ込められていたのだろうかと思った。
 誰もいないはずのお城で、檻に閉じ込められていた少女。
 その少女を狙う、不思議な影。
 そして少女の不思議な――イコはあの光が少女によってもたらされたものだと確信していた――力。
 一体これはどういうことなのだろうか。
 思案に深く沈みそうになったイコは、不安げに自分を見つめる少女に気が付いた。
 ――そうだ、今は自分の考えに耽っている場合じゃないんだ。
 もう、自分ひとりではないのだから。
 イコは再び少女の手をしっかりと握り、光の先を指差した。
「行こう」
 行動で意味が通じたのだろう。少女は小さく頷き、イコの手を握り返した。
 出入り口までの間には、かなりの高さの段差が続く足場になっていた。しかしイコにとって苦になるようなものでもなく、この位の高さならば少女も一人で越えることができる様だった。
 それでもイコはできる限り少女に向かって手を伸ばし、足場を乗り越えることを手伝った。
 それはどちらかというと、少女のためというより、少女の手を離していたくないという思いから来る行動だったのだけれど。

 少女とであった螺旋階段の続く塔を出る直前、イコは大事なことを思い出して少女に振り返った。
「そう言えば、まだ言ってなかったね」
 突然歩みを止めたイコを、少女は静かに見つめていた。
「ぼくは、イコ、っていうんだ」
 そう言って、満面の笑顔を見せるイコを、少女はどこか眩しそうに見つめていた。
 たぶん、通じていないんだろうな、と心の中で苦笑しつつ、イコは少女の手を引いて再び歩き出した。
 つないだその手の温かさを心地良く思いながら。
 そして小さな願いを思い浮かべる。

 ――いつか、この人の名前を知ることのできる時が来るといいな。

 その願いは、遠くない未来に叶えられることになる。




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