46.Ending

 少年が去り、誰もいなくなった祭壇の間。
 残されたものは少女の石像とたくさんのカプセルだけ。つい先刻まで蠢いていたものの存在は微塵も感じられない。そこにあるのは、何もかも――空気どころか時間さえも――が滞り淀んでしまったかのような静寂に満たされた空間だ。
 異変は唐突だった。
 ――城が、震えた。
 重い地響きを立て、部屋が、空気が、世界が震えている。
 同時に、壁一面に並べられたカプセルが光り出した。それは瞬く間に輝きを増し、光は青白い稲光となって放たれた。
 カプセルから放たれたすべての稲光が、祭壇に祭られた少女の石像に降り注ぐ。それは少女の石像が、目も眩むほどの光の中に埋もれてしまうほどだった。
 ややあって、少女の石像に降り注ぐ光の奔流が止み――
 ――――――ガシャン。
 唐突に、まるで力尽きた人が倒れるように、誰かへと手を差し伸べたままの少女の石像は崩れ落ちる。
 ――そして、身体を起こすモノがあった。
 石像という殻の中にあったモノ。それは人の形をしたモノだった。しかし、殻から生まれたモノは人の形をしていたが、人の形をしていてもそれは人ではなかった。
 石像の殻から生まれたモノは、文字通り『影』と称されるモノだったのだ。
 強い陽射しに晒されて生まれる影よりも黒く、一切の光を遮断された闇よりなお黒く、決して周囲に溶け込むことのない、ありとあらゆる色と言う色を、光も、闇すらも呑み込んでしまいそうな漆黒の影。
 ほっそりとした輪郭の中身すべてを漆黒に埋め尽くされた姿の中、わかるのは頭や胴体、そして四肢の形だけ。表情が刻まれるべき場所は白い少女の面影さえ漆黒に塗りつぶされている。そこにあるのは、感情も、想いも、何もかもが黒に塗りつぶされた、顔の無い真っ黒なのっぺらぼうだった。細身の肢体に収まりきらないのか、溢れた漆黒が影に纏わり付くように影の周囲を踊っている。
 ゆっくりと上半身を起こした影は、変わり果てた己の手を見つめていた。かつて染みひとつない白ばかりであった腕は、僅かな濃淡さえ見られぬ漆黒に彩られている。それでも、指を開き、手を返し、思い通りに動く腕が、それは己の腕だと示していた。
 もっとも、影がそうしていたのはほんの僅かな時間だった。
 影はおもむろに立ち上がると背後を振り返った。少年が辿ってきた道筋を追うように、女王の間へと続く階段を見上げる。
 影はゆっくりと歩き出した。どこか不器用な歩き方で、けれど歩みに確かな力強さを秘めて迷わず進む。
 影が辿るのは少年が終に歩んだ道。女王の間へと続く道のり。
 少年の後を追いかけるその足取りは、かつての少女のままだった。



 城が震えている。
 震える城が奏でる重低音は静寂の代わりに霧のお城を満たし、水路のせせらぎも、そよぐ木々のざわめきも、回り続ける歯車の音さえも呑み込んでしまう。
 地面が、壁が、天井が、すべての通路が、すべての部屋が、すべての庭園が――霧のお城と呼ばれる世界が震えている。止むことのない鳴動が閉ざされた世界中に響き渡る。
 霧のお城が崩れていく。壊れていく。
 城の震えは収まるどころか徐々に激しさを増していった。ぱらぱらと、泣き出した空から落ちる雫のように天から降る破片は際限なく増え続けていく。小さな欠片に混じり、天井から、壁から、あるいは柱から、剥がれ崩れた大きな塊が石畳の地面に叩き付けられる。
 その中に、彼はいた。
 女王の間の、冷たい石畳の床の上に倒れ伏した、身体中傷だらけの少年。
 少年の側頭部から生えていた二本の角は見る影もなく根元近くから折れていた。両方の角が同時に折れたわけではないことを示すように、片方の角の近くにだけ、そこから流れ出たのだろうどす黒い液体が小さな水溜りを作っていた。
 女王の間に足を踏み入れた影は、降り注ぐ破片も、崩壊していく部屋も気にした様子もなく、真っ直ぐ少年の元へと向かった。
 少年はぴくりとも動かない。全身を揺らすうるさいほどの鳴動にも、一向に目覚める気配はない。影は昏々と倒れ伏したままの少年の傍らに膝をつき、漆黒に染まった手を伸ばした。そして、無残に折れた痕が痛々しい少年の角を癒やすように、労わるように、優しい手つきでそっと撫でる。
 それでも少年は気付かない。意識を深く沈めたまま、影の手を受け入れている。
 しばらくして影は撫でる手を止めると、意識が戻らないままの少年の身体を横に抱きかかえて立ち上がった。少年を抱えたまま、影は一度、巨大な玉座へと視線を巡らせた。
 女王たるモノが座するべき場所を、そこに突き刺さった剣を、そして影と少年以外誰も居ない部屋を見渡す。どんな言葉も紡がれることなく、感情も想いも漆黒の中に沈めたまま、ただじっと女王の間を見つめる。
 数呼吸にも満たない間を置いて、少年を抱きかかえた影は踵を返した。
 もう、足を止めることはなく、振り返ることもなく。
 影と少年は女王の間から去って行った。



 霧のお城が崩れていく。壊れていく。
 少年と少女が駆け抜けた道が、ふたりで眺めた景色が、ふたりで過ごした場所が、霧のお城の何もかもが、崩れていく。壊れていく。
 少年を抱えた影が女王の間から祭壇の間へ行って戻ってくるまでのほんの数刻の内に、祭壇の間でも崩壊が始まっていた。
 細かな破片に混じって大きな瓦礫が降り注ぐ中を影は進む。
 祭壇を横切り、広間を通り抜け、船着場へと通じる昇降機へ向かう。
 広間から下りる階段近くまで辿り着いた時、影は一旦足を止めて祭壇の間を振り返った。
 ――そこは、少年にとって終わりであるはずだった場所。しかし思いもかけず、終わることなく新たな始まりの地となった場所。
 ――そこは、少女が終わる場所。そうして新たに始まるはずだった場所。しかし終わらず、始まらず、変わりはしたけれど今もこうして続いている影にとって、通り過ぎる道程のひとつとなった場所。
 影の視線の先で、柱が崩れ、天井が崩れ、女王の間へと続く道が埋もれていく。
 崩れ落ちていく始まりと終わりの場所を静かに見つめ、影は船着場へと通じる昇降機に向かって再び歩み始める。
 ――何もかもを、漆黒の中に沈めたまま。



 霧のお城が崩れていく。壊れていく。
 昇降機から降りた影は、真っ直ぐ船着場へ向かった。
 霧のお城の中で最も外の世界に近く、限りなく城の外に位置している場所のひとつでもある船着場。天然の洞窟内と大差ないその内部では、天井から降り注ぐのは砂礫や小石どころか大きな岩石になりつつある。常ならば外界の天候に左右されることなく穏やかなはずの、城と外の世界を繋いで延びる水路は、城の振動と降り注ぐ岩石によって水面がひどく波立っていた。
 それだけではなく、城の崩壊によってすでに地盤が沈下していたのか、船着場ではどこにも乾いた地面は見当たらず、一面が水に沈んでいた。
 当然、地面と水面との境目に設けられていたはずの桟橋の姿は無く、固い岩の地盤に乗り上げられていた小舟は水面に浮かんでいる。
 影は少年を抱えたまま、膝まで浸かりながら水の中を進んで行く。浮かぶ小舟に辿り着くと、抱えていた少年を小舟の上にそっと横たえた。
 ――少年は目覚めない。
 影も、少年を起こそうとはしなかった。
 影は静かに小舟の縁を掴むと洞窟の外へ――霧のお城の外へ向かって小舟を押し出した。
 それは決して強い力ではなかった。しかし、小舟はまるで導かれるように水面を滑らかに滑り、洞穴の水路を止まることなく進んでいく。天井や壁から降ってくる岩は不思議と小舟をかすりもしない。いよいよ激しさを増す霧のお城の崩落も、少年を乗せた小舟を避けているようだった。
 ――影は動かない。
 崩れ、壊れていく世界の中でひっそりと佇んでいる。
 遠退き、去って行く小舟を――少年を静かに見送る。
 そして、震えることのない喉を震わせ、漆黒に埋没した唇を開いた。
 万感の想いと、願いと、祈りとを込めるように。

 ――ARNOYS

 それは少年に手向ける最後の言葉。
 崩壊の音に満たされた世界に、たったひとつだけ交じり込んだ異なる旋律は、しかし瞬きほどの間もなく世界の終わりに呑み込まれていった。



 霧のお城が崩れていく。壊れていく。
 霧のお城は海に沈んでいく。
 ひとつの世界が終焉を迎えようとしている。
 その時、終わろうとしていた世界のあちらこちらで光が灯った。
 祭壇の間で、螺旋階段の塔で、暗い部屋で、墓地で、跳ね橋で、給水塔で――城中に置かれている角の生えた子どもの石像が白い光を放ち始める。
 刹那、光が崩壊する世界を白く埋め尽くし――――



 そうして、霧のお城は海へと消えて――――ひとつの世界が終わった。




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