39.檻 (2)

 荒い息を整えながら、イコは崩れそうな両膝に力を籠め、垂れ下がった拳を固く握り締める。無闇に叫び出しそうになるのを堪え下唇を噛み締めると、いつの間にか俯いていた顔を持ち上げた。
 イコは改めて周囲を見回した。
 そこは正しく宙に浮いた場所だった。空は遠く、海もまた遠い。比較的近くにあるのは切り立った崖だが、それとて手を伸ばして届くような距離にはない。悠然と聳える崖こそは霧のお城の一部なのだろう。
 イコが立っていたのは吊るされた大きな檻の上だったのだ。その大きさたるや、詰め込むだけならば何十人という人を収容することも可能だろう。
 イコが床だと思っていたのは檻の天井だった。いくら子どもとは言え、イコが横になっていても余りがあるほどの半径を持つ円板の天井と床を、頑丈そうな鉄格子が繋いでいる。床部分のことは良くわらないが、天井は木板を張り合わせ、縁などを鉄で補強していた。イコが鉄の床だと思っていたのは、この補強された鉄板部分だったらしい。押しつぶした円柱のように円い檻は太い鎖で吊るされており、鎖を辿って視線を上げると、遠くに張り出した絶壁が見えた。
 檻は、どうやら正門下の崖に隠れて吊るされているようだ。それもひとつだけではない。見回すイコの周囲には片手では余るほどの数の折が吊るされ、轟々と唸る風の前にさしもの巨躯を揺らめかせている。
 落ちていく瞬間、どうあっても助からない、と予想と言うより確信を抱いていた。落ちていく先には何も――上からでは平にしか見えない海原しかないと思っていたが、上手い具合に風に流されたのか、落ちた先が檻の上だったおかげで助かったということらしい。
 もっとも、まったくの無事というわけでもなく今も身体中が痛むが、落ちてきた距離を考えればこの程度の怪我で済んだことは奇跡に近い。海に叩きつけられるより遥かにましとは言え、恐らく正門だろうと思われる場所は遥かな高みにあるのだ。そもそも、広大な空中という空間に比べればほんの僅かな面積でしかない、檻の上と言う空間に落ちることができただけでも運が良かった。
 運が良かった、その言葉が浮かんだ瞬間、突如湧きあがった疑問を胸の内から響く声が囁くように問いかける。
 ――それはほんとうに……偶然?
 イコの自らの中に問いかけるような疑問は、すぐに自ら否定をもって答えた。
 ――偶然のはずがない。
 ヨルダは知っていたのではないだろうか。否、正門の下に数多ある檻の存在を知っていたからこそ、あの時この手は放された。
 ――わずかでも、助かる可能性がある道を。
 そうやって、また、ヨルダに導かれたのだ。
「…………ッ」
 開きかけた口を閉ざし、奥歯に力を籠める。
 霧のお城を頂き厳然と聳える断崖絶壁を見据えるイコの瞳には、毅然とした光が宿っていた。
 視線をそのまま左に滑らせると、そこにもまた檻がある。その檻は、いくつも檻が吊るされた中で、イコが今立っている場所に一番近かった。檻と檻の間の空間は、助走をつけて跳べば充分届く距離のように見える。
 檻との距離を測りながら見ていると、蛇行するように檻を渡っていけば崖まで辿り着くことができそうだった。
 イコは濡れた天井に足元を取られないよう気をつけながら、助走をつけて隣の檻へ跳んだ。檻の上に着地するには跳躍の距離が足りなかったが、側面の格子を掴んでしがみつく。幸い、床の部分も縁が多少張り出していたので、そこを足場に天井の縁に手を掛け、天井上に上がった。着地の衝撃に、ガシャンッ、と甲高い音が立ったが、巨大な檻は子どもひとり程度の衝撃では大きく揺れることもない。それは側面から檻の上によじ登る時も同様で、しっかりと踏み締めることができ、体勢が崩れるほどの揺れもない、安定した足場の感触にイコは安堵の息を零した。
 イコの視線はすぐさま次の檻へと向けられた。先ほどと同じ要領で、慎重に距離を測り――中には他の檻より大きく揺れているものもあったため、檻が一番間近に迫るまで待つこともあった――ながら次々と檻を跳び、渡っていく。
 足を滑らせたり、跳ぶ距離を誤れば即座に死に繋がる道を、イコは恐れ気もなく進む。
 そうして進む内に、イコはようやく最後の檻に飛び乗った。遠かった絶壁がほんのひと跳びで届く距離にまで近付く。
 次に檻を跳んだ先にあるのは、鉄の床ではなく崖に刻まれた道だった。着地した足元が、ジャリ、とこれまでとは違った音を立てる。鉄よりは柔らかいだろうが、固く不動な地面の感触だ。
 崖道は左に続いていた。
 イコの歩みは止まらず、前へ前へと進み続ける。
 後ろは振り返らない――求めるものはこの先にしかないことを知っていたからだ。
 崖道を進み始めて間もなく、岩壁に大きく掘られた穴が現れた。短いトンネルにも見える、絶壁を穿つ巨大な穴を潜り抜けると、左手側は壁どころか道もなく崖の外へ開けており、荒れ狂う空と海を一望できる。反対に右手側は奥深い洞窟へと続いていた。
 イコがそのまま洞窟内へ足を踏み入れると、バシャン、と水がはねた。薄暗いため気付きにくかったが、洞窟内の半分以上が水に浸っていた。
 水に浸かっていない所まで上がってからよくよく見てみると、洞窟の奥から水が流れているようで、崖下へと大量に流れ落ちる水が滝となっている。先ほどイコが足を踏み入れた水場はただの水溜りではなく、流れる水が岩壁を削った結果生まれた、自然の作り出した水路部分だったらしい。あるいは、水路とするために、ある程度削られた地面を水流が更に削っていったのだろう。少なくとも人工的とは思いにくい程度には、陸地と水路の境目は自然だった。
 洞窟の奥に目を向けると、そこには柵が設けられていた。ただし柵が塞いでいるのは水路部分だけだ。右の端――陸路の部分が開いている。
 柵の更に奥は靄が掛かっていてよく見えなかった。
 この先に――柵の向こうにあるのは、これまで通ってきた道だ。去ろうとしていた世界だった。
 瞳に毅然とした光を宿したまま、イコは一歩を踏み出した。
 それは戻るための一歩ではなかった。
 彷徨いこんだ偶然ではなく、逃げるためではなく、戻るためですらなく。
 ――挑むために。
 イコは、世界へ足を踏み入れた。




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