39.檻 (1)
世界を満たすのは闇だった。
すべてが暗闇に沈んでいた。
どれだけ目を凝らしても、見えるものはどこまでも続く漆黒の闇だけだった。
前も後ろも、右も左も、上も下も、何も見えない――何もわからない。
――わからない。
それが、最初に少年の意識に触れた言葉だった。
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。
反響し続ける音のように繰り返される言葉が、やがて少しずつ変わっていく。
わからない。わからない。わかりたくない。わかりたくないだけで――
――わかっている。
きっとこれが、最初からあった世界だったのだ。どこまでも広がり、それなのに押しつぶそうと迫ってくる闇にすべてが閉ざされる世界。進む道も戻る道も何ひとつ見えない世界。
そんな世界がいつしか変わっていたのは、光に出会ったからだ。
少年が出会った光は、世界を一変させた。
光はいつも暗闇を照らし、進むべき道へ導いてくれた。だから暗闇に惑うことはなかったし、道を見失うこともなかった。歩み続けることができた。
暗闇の先に、ほんの微かであっても、確かに未来が見えたのだ。
とても優しくて、とても温かくて、とても――儚い光。
それはかけがえのないものだった。何よりも守りたいものだった。
しかし守るどころか最後まで守られて――そうして、その光が消えてしまったから。
光を失ってしまったから。
だから、世界はこんなにも――
不意に、イコの意識が浮上した。
とは言っても、今は水面へとゆっくり浮かび上がる途中のようなもので、イコの思考は霧に覆われたようにぼやけ、感じられる世界はすべてがあやふやなままだ。
いまだ曖昧な世界の中、イコが真っ先に気が付いたのは音だった。
ザアザァと鳴り止む気配のない雑音に混じって、何かを固いものに叩きつけたような音が延々と耳朶を打ち続ける。そして時にはその音たちを掻き消す轟音が轟き響く。
――うるさい……。
咄嗟にそう思い、イコの眉間に皺が寄せられる。
次に、この音は何だろう、と考えた。もっとも、覚醒しきらない意識のままではすぐに答えに至るはずもなく、その答えを模索していく内に、イコは徐々に自分の身に起こっていること――音が冷たい衝撃となってイコの全身を打ち続けていること、そして全身が濡れそぼっていること――を自覚していった。
そして、ようやく。
――あ、め?
ひとつひとつ積み重なる事実に連想され、ひとつの単語が思い浮かぶ。無意識に導き出された単語は最初何の意味も成さず、徐々にその単語の連なりが表す意味を思い出していくにつれて、イコはよりはっきりと今の世界の在りようを自覚していった。
激しい雨が降り続け、その雨に打たれていること。
猛り狂ったような激しい音は、恐らく雷鳴が轟いているのだろう。
そして自分が硬い地面の上でうつ伏せになって倒れ、目を閉じているのだということ。
――ここ、は……?
呟いたつもりの疑問は、僅かに少年の唇を震わせただけだった。今のイコにとってはまぶたを開くことすら億劫で、だからと言って音を聞いているだけでは自分がどこにいるのかまったく見当がつかない。
雨に打たれているのだから、外にいるのは間違いないだろう。ザアザアと振り続ける雨音に混じって、轟々と唸る風音と遠くからさざなみの音が聞こえてくるから、海に近い所にいるのだろうか? どこかうつらうつらした意識の下、イコは得られる情報から少しでも現状を把握しようとするが、そもそもどうしてこんなことになっているのかがわからない。
重いまぶたをこじ開けると、そこに広がったのは灰色の世界だった。
記憶に残る澄みきった青はどんよりとした雲に覆われ、空を映す海もまた灰色に見えた。海原に広がる万華鏡のように変わり続ける白い模様は、天候不順のために波が荒れているからだろうか。
イコが居るのは天と地――海――の狭間だった。頬に感じる冷たく硬い鉄の感触がなければ、空に飛んでいるのかと勘違いしたことだろう。
そこまで考えて、イコは自分が鉄の床の上に倒れていることに気付き、
――どうして……?
そんなことがあるはずない、そう思った。
そう思いながら、同時に思い浮かぶ疑問。
――なぜ?
そんなこととはどんなことなのか、どうしてありえないと言えるのか。
――わからない?
イコの内側から聞こえた声はあまりにも静かで、問いかけと言うよりもイコの記憶を揺り起こそうとするようだった。
「――――ァ」
わからないよ、と呟こうとした唇は、意図したものとは違う言葉紡ごうとした。しかし、吐き出そうとした言葉は喉の奥につかえ、吐息さえ零れない。
そうしている間にも思考を覆う霧が少しずつ晴れていき、イコの意識は加速度的に醒めていく。
そして、醒めていく意識に呼応するように胸の奥から沸きあがる衝動があった。
――行かなきゃ。
そうだ、自分は行かなければいけない。
そのためには立たなければいけない。
強張った身体は少しも思う通りに動いてくれず、投げ出された手を引き寄せるだけのことがひどく難しかった。それでもイコはやっとの思いで手をつくと、まるで鉛と化したかのように重く動かない身体を少しずつ持ち上げていった。全身を襲う痛みに息を詰まらせるが、歯を食いしばりゆっくりと身体を起こして立ち上がる。
――はやく。はやく行かなきゃ。
気持ちだけが逸り、あてどもなく周囲を見渡した。しかし、彷徨う視線は周囲の景色を写しておらず、無意識の内に伸ばされた手が空を切り――
――行くって、どこに?
――どこに、なんて、決まってる。
イコは自分の手を呆然と見つめた。空っぽの手は何も掴んでいない。
――決まってるじゃないか――!
途端、弾けるように溢れ出した記憶が霧をすべて吹き飛ばした。
落ちて行く自分。
届かない手。
離れて行く温もり。
逆巻きに流れていく記憶の中、やがてひと際鮮明に浮かび上がったものは、
――ノノ……モリ……
風の隙間を通り抜けて届いた不思議な旋律と、光を失い灰色に覆われた――
「…………ヨル……ダ……?」
恐る恐る絞り出された声はみっともないくらいに震えていた。
何かの間違いだ、そう叫びたかった。性質の悪い夢を見たのだと、そう思いたかった。
「ヨルダ……ッ」
いくら視線をめぐらせても、そこにあるのは灰色に沈んだ世界ばかりだった。
当たり前だ。
あの漆黒の闇を纏った女王は、この霧のお城は、少女を放さなかった――放してしまったのは自分の方なのだから。
もちろん、放すつもりなんてなかった。しかし、放さないでいられるだけの力もなかったことは紛れもない事実。
イコは空を見上げた。
顔を打ち付ける水滴に目を細めつつも、見上げた先にあったはずの光を必死になって求めた。今はもう、そこにあるはずがないとわかっていても求めずにはいられなかったのだ。
やがて頬を伝い滴る水に熱いものが混じり出した頃、イコはわななく口許を開くと全身全霊の力を振り絞り、呼んだ。
叫ぶように、吼えるように、少女の名を呼んだ。
どうか答えて、と、思いのたけを籠めて呼んだ。
「――ヨルダァァァッ!」
けれど、少年の咆哮は雨風と雷鳴、そして潮騒に絡め取られ、城にすら届くことなく掻き消された。