27.水門 (2)

 部屋から出てすぐのところから梯子が外壁に取り付けるようにして掛けられていた。ほとんど下を見ず、飛び出す勢いで建物から出たイコは、梯子に気付かず勢い余って飛び降りてしまいそうになり、慌てて足を踏ん張り立ち止まった。
 周囲を見渡す暇すら惜しみ、すぐに梯子に手を掛け下り始めた。下りていく途中で、右手側の下方でゆっくりと回る水車と、渡り廊下で見た小川――よく見ればそれは幅広の水路だった――が視界の端に映る。
 梯子は地面までは続いておらず、途切れたところで飛び降りる。真下にあった、出てきた建物と回る水車を繋ぐように延びる四角い管の上に着地した。
 梯子から向かって左には、イコが出てきた建物から背後の中庭へ延びる階段があった。壁に沿って階段の正面に回ると、階段は固く閉ざされた扉から続いていた。扉は建物内で見かけていたもので、それが中庭からだと見上げる位置にある。どうやら建物内は一番下の床でも実際の地面よりずっと高い位置にあったようだ。
 まずは外から扉を開けるか試そうかと階段に足を踏み込みかけたイコは、階段を挟んで、梯子が掛けられていたのと反対側の、階段の傍近くの壁にレバーを見つけた。
 ――これだ!
 上りかけた階段をひらりと飛び降りたイコはレバーに猛然と飛びついた。
 力を籠めてレバーを動かす。
 ――ゴウン!
 大きな物音とともに下ろされていた扉が引き上げられ、開かれる。
「ヨルダ!」
 大声で呼びながら建物への階段を駆け上ると、同じく小走りに駆け寄ってくるヨルダとぶつかりそうになった。
 イコはヨルダの手を取り、中庭の真ん中へと出た。ようやく気持ちに余裕が生まれ、のんびり周囲を見渡す。
「ここにはなにがあるんだろうね」
 見渡しながら、視線は自然と気を惹かれる珍しいもの――水車に向かった。
 大きな水車の付近の水路脇は、心棒が通っている部分を除いて高い柵が立てられていた。まっすぐ伸びる水路は、建物の向かいにある中庭奥の城壁まで続き、壁に空けられた排水口から壁の外へと流れていた。
 水路の向こう岸は、こちら側と比べればずっと狭かった。障害物もほとんどないので、水路の手前からでも問題なく向こう岸の様子は窺えた。ただし水車の陰になっている、建物側の奥の方がどうなっているかはわからない。
 中庭を縦断する水路の半ばには、かつて橋の架けられていた跡だけが残っている。長い年月の間にここも崩れ落ちてしまったのだろうが、それぞれの岸から対岸へと向けられた橋の跡は石造りのしっかりしたもので、かつての在りし日には吊り橋などではない立派な橋が架けられていたのだろう。
 今や橋がないため、向こう岸へ行くためには水路を跳び越えていくしかなさそうだが、水路の幅は広く、イコですらかろうじて跳び越えることができるかどうかというところだ。それも、跳び越えるといっても水に浸かってしまうことになりそうだった。
 そうなると、距離が開いた虚空を飛び越えることとは勝手が違ってしまう。イコが先に跳んでヨルダに手を差し伸べても、水の中に落ちてしまうと水流の力が加わる分、空中にぶら下がっている状態を引き上げるより遥かに力が必要になる。いくらイコは大人顔負けの力があるとはいえ、その状態のヨルダを引き上げる自信はなかった。
 しかし水車の陰になって見えないが、水路の向こうに石像の門があったら――ヨルダも水路の向こうへ渡れるように、なにかいい道具はないかと中庭を見渡す。
 すると、中庭の片隅で木陰に隠れるように置かれている、取って付きの大きな木箱を見つけた。
 ――あ、もしかしたら!
 じっと木箱を凝視したイコは、ふと思いついて、木箱に駆け寄った。
 木箱はとても重く、そして大きい。水路の底は流れる水で歪んで見え、深さはよくわからないが、木箱を水路に落としたら上手くすれば木箱が飛び石のようになるかもしれない。
 飛び石があれば水の中に落ちることなく向こう岸へ渡れるはずだ。
 そう考えて木箱を水路に向かって動かした。ちょうど中庭から水路に向かって石畳の坂道ができている部分があったので、そこの坂道から木箱を水路へと押し出す。
 木箱は水しぶきを上げて水路へ落ち――
 ぷかりと浮かんで、流されていった。
「…………あれ?」
 動かす時は、持ち上げることなどできないため、引きずるか押し出すしかしようのない重い木箱は、それでも水に浮くくらいには軽かったらしい。また、水路も見た目よりずっと深かったということなのだろう。
 流されていった木箱は、呆然とイコが見送る中、排水口の向こうに消えていった。
「……えー……と……」
 思惑がまったく外れてしまったイコは、木箱が排水口の向こうに消えた後もしばらくの間呆けたように立ち尽くしてしまった。
 ――うん、まあ、向こう岸に何かいい仕掛けとか道具があるかもしれないし。
 イコはそう考えることで気持ちを鼓舞すると、ヨルダを待たせて一旦先に水路の向こうに渡ることにした。
 少しでも跳び越える距離を縮めるため、橋の跡の縁ぎりぎりから軽く助走をつけて跳ぶ。しかしそれでも飛距離が足りず、落ちながら向こう岸の端の跡に何とかしがみついた。
 ほっと息を吐きつつよじ登ろうとした、その手が滑った。
「――!」
 声を上げそうになった瞬間、ばしゃんっ、と大きな水音が耳を打つ。身体中に纏わりつく冷たい感触。大きく開けた口に水が流れ込み、空気を求めてイコはもがいた。その間もイコの身体はどんどん流されていく。
 水路の縁――せめて壁に掴まろうと手を伸ばすが、気が付けばすでに水路の中央に流されてしまっており、伸ばした手は宙を掻くばかりだった。
「ヨル――ッ!」
 ――ヨルダが、ひとりぼっちになってしまう。
 とっさに思ったのはそのことだった。水と水路の壁に邪魔され、中庭のヨルダは見えない。
 辛うじて見えていた水車に向かって必死に泳いでいたが、水流に逆らうことができず水車が徐々に遠ざかっていく。
 そして、排水口の向こうに流され――視界が引っ繰り返った。
 ――落ちている。
 落下する感覚に蒼褪め――次の瞬間、再び激しい水音と共に視界が水泡で埋め尽くされた。
 流れ落ちる水流にかき乱された水の中でイコの身体は翻弄され、縦横に飛び散る水泡が上下の感覚すらなくしてしまう。
 落下していることを察するや否や反射的に息を止めていたものの、すぐに息苦しくなる。
 空気を求めて身体を動かしたかったが落ちた衝撃のせいか身体は鉛のように重く、意図して身体を動かすことができない。しかしそれが結果的に幸いした。
 ある程度流されたところで身体が、ふわ、と浮かび上がっていった。すぐに頭の先が外気に触れる感触があった。その頃には何とか身体を動かせるようになり、立ち泳ぎの要領で頭を出す。
 ごつん、と頭に何かが当たり無我夢中でしがみつくとそれは先ほど落とした木箱だった。イコは取っ手に縋るようにして掴まり、ようやく一息ついてあたりを見渡した。
 そしてここがどこなのかを理解すると驚きに目を瞠った。
 そこは滝の流れ落ちる部屋だった。
 滝の正体は、水路から流れ落ちる水だったのだ。
 こんな風に繋がっていたのか、と頭上の排水口を見上げていたが、視線を下げたイコは「あ!」と思わず叫んでいた。
 滝の――霧のように辺りを覆う水しぶきの向こうに、似蹲る角の生えた子どもの石像があった。
 イコは泳いで近寄ろうとしたが、降り注ぐ滝と、叩きつけられるように注ぎ込まれる膨大な水流によって波打つ水面が邪魔で近付けない。
 ――この水を止めることができれば、あそこにいける。
 とにかくまずは水路の流れる中庭に戻ろう、とイコは水場から上がる為に猛然と泳ぎだした。



 再び長い通路を渡って倉庫のような建物内へ入る。
 扉が開かれたことでより光が差し込み、内部はずっと明るくなっていた。
 相変わらず歯車は回り続け柱は上下に動き続けていたが、扉を開いた今、わざわざ上から外に出る必要はない。
 扉が開いた後の大きな出入り口から階段を降りて中庭に出る。水路に顔を向けたままのヨルダは、背後から戻って来たイコに気付いていないようだった。「ヨルダ」と呼びかけられると、はっとした様子で振り向いた少女はまっすぐ少年に駆け寄ってきた。
「だいじょうぶだった?」
 そう声をかけるが、反対にヨルダに心配そうに覗き込まれる。思わず仰け反ったイコの黒髪から、水滴がポツリと落ちた。
 イコは今更ながらに自分がずぶぬれのことに気付き距離を取ろうとしたが、ヨルダはますます心配そうに近寄ってくる。
「あー! ぼくはだいじょうぶ! ヨルダがぬれちゃうから、ね?」
 ぶんぶんと腕を振りつつ言うと、飛んできた水しぶきに驚いたように一度手を引いたヨルダだったが、すぐにイコの肩をきゅっと掴んだ。引っ張るようにして何かを促す。
 ――服をかわかそうっていってるのかな……?
 確かに、身体は冷えていくし、濡れた感触は気持ちよいものではない。その上、水を含んだ衣服は重さを増して纏わりつくので動きにくいことこの上なかった。
 イコは大人しく服を脱いで――さすがにズボンはそのままだったが――固く絞って少しでも水気を切る。
 ヨルダの、髪についた水を拭おうとしてくれる動きがこそばゆい。
 濡れた服は木の枝に干し、乾くのを待つ間、イコは水路から落ちた先で見た光景のことを話していた。
「ヨルダ、あのね、滝がながれていたへやがあったよね。滝はここの水がながれこんでいたんだよ。それでね、滝のせいでわかりにくかったけど、あのへやに石像があったんだ! 水をとめることができれば、石像のところに行けるんだ!」
 だから何とかして水を止めないと、と意気込むイコを見つめるヨルダの視線は優しかった。どこか楽しそうに話すイコにつられるように、少女の口許に微笑が浮かぶ。
 ある程度服が乾いてから再び着込むと、イコは改めて水路を覗き込んだ。
 水がどこから流れているのかと見ると、水車の奥が水門になっている。開かれた水門から水が流れ出しているのだ。つまり、あの水門を閉じることができれば水は止まる。
 どうすれば閉じることができるかと水車近辺を見回すと、水門の上に滑車があることに気付いた。横に寝かせるように置かれた滑車は、側面から四本の棒が伸びており、その取っ手を掴んで回すもののようだ。ただし滑車はとても大きく、これを動かすためには取っ手を押して進むようにして回さなければならないだろう。
 ――あれかな?
 しかし水路のこちら側からそこに上る方法はなさそうだ。
 ならば、と今度は慎重に水路を飛び越える。やはり上手く着地することはできずしがみつく形になったが、今度は手を滑らせることなく渡りきることができた。
 そうして水車まで近付き辺りを見てみると、水車の陰になっていた奥の方に、上に登る梯子が掛けられていた――跡があった。そこの梯子もすでに半ばから朽ちてしまっていた。朽ちてなくなった梯子の先端は、下からではとても手が届かない。
 これでは登れない。
 どうやって滑車のところまで登ろうかと思案顔になったイコは、ひときわ大きく水車の回る音が聞こえた気がして、その目が自然と水車に向けられた。
 ちょうど真上まで回ってきた水受けの板が、更に回って下りていくところだった。
 大きく立派な水車は、水受けの板もイコが上に乗れてしまいそうなほどに大きい。
 ――もしかして、乗れるかも。
 水車の背後、水門の上の壁には取っ手のようなものが付いていた。そこに掴まることができれば更に上の滑車のところまで登れるかもしれない。
 心棒の出ている箱のような台に乗り、水受けの板が正面に来た瞬間を見計らって飛びつく。水車は動き続けるため、水受け板が水平な――足場にできそうな内に上り立ち、水門の壁に向かって跳ぼうとした。しかし、ぐ、と膝を溜めた瞬間とうとう乗っていた水受けの板が垂直になってしまい、水路の中へ滑り落ちてしまった。
 当然、ぼちゃんっ、と水しぶきがあがり排水口へと流されていく。
 イコは完全に流されてしまう前に水路の端まで泳ぐと、縁を掴んで岸に上がった。
「うーん、もうすこしだったんだけどなぁ……」
 再びびしょぬれになってしまったが、イコは気にした風もなくまっすぐ水車に向かった。
 もっと早く登って跳ばないと、水車に跳ぶのは板が上がって来るもう少し前でもいいかな、と呟きつつ理想の動きを脳内に思い浮かべる。
 それでもすぐに成功させることは難しく、何度目かの挑戦の末、ついに水門の壁の取っ手に掴まることができた。取っ手の横棒は太く、充分足場にできる。イコは取っ手の上に上がると更に上の滑車のある壁の上の縁に飛びついた。
 上によじ登ると、そこには大きな滑車がある。イコは手近な取っ手を掴むと、滑車を回すべく掴んだ棒を押し動かした。滑車は重く簡単には動かない。足を踏ん張り目一杯の力を籠めて押していく。
 やがて滑車が回っていく動きにあわせ水門が閉じられ、ようやく水が堰き止められた。
「やったぁ!」
 水気がなくなり、中庭に掘られた幅広の溝と化した水路の姿に歓声を上げる。
 滝が流れ落ちていた部屋では他に水源となるものはなかったし、これで滝も止まったはずだ。
 下りる時は、滑車台横手の梯子を下り、流される心配のなくなった水路を堂々と横断する。
 待たせていたヨルダの元へ駆け寄ると、さあ戻ろう、とばかりに手を差し出し、
「――くしゅんっ」
 くしゃみと一緒に水滴が飛び散る。
「――あはは。またびしょぬれになっちゃった」
 イコは、忘れてたよ、と照れくさそうな笑みを浮かべた。



 もう一度服を乾かしてから、来た道を戻らず水路の中を通って排水口を覗き込んだ。
 先ほどイコが実体験したとおり、排水口の向こうは滝の流れていた部屋だ。
 ここから直接滝の流れていた部屋に入れないかと見てみると、排水口のすぐ下に足場がある。
 六角形の穴の真下にあった足場だ。もちろん、そこから先は階段が延び、吊り橋の架かっている通路まで下ることができる。
 これならヨルダも下りられそうだと胸を撫で下ろす。
「ヨルダ、こっちから行こう」
 水路の下から少女を手招きして呼ぶと、排水口を通って滝の流れていた部屋へと入っていった。




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