23.東の反射鏡2 (2)
ロープから切り離し、降ろした橋を渡る。橋に手摺になるようなものは設けられていないので、できるだけ橋の真ん中を歩くようにする。
橋を渡り、扉もなく開かれたままの出入り口をくぐった先で聞こえてくるのは、轟々と唸る風の音だった。最初に入ってきた、剣を手にいれた、石畳の広間だった。出てきた先のバルコニーの半分以上は、日差しが強いゆえに色濃く落とされた建物の影によって暗く沈んでいる。外側の、壁に覆われていない部分は、代わりに手摺に覆われていた。ただ、ちょうど真ん中の辺りだけ、そこもまた出入り口であるように手摺が途切れている。
そのバルコニーからかなりの距離を開けた向こう側――未だ閉じたままの巨大な円形の扉の上方の壁にもバルコニーが取り付けられていた。今ふたりが立つ側のバルコニーとは比べ物にならないほど小さいが、壁から張り出した周囲には手摺が設けられ、本来入り口として手摺が途切れているはずの空間、真ん中真正面には、蹲る角の子どもの石像がふたつ並んで据え付けられていた。向かって右隅には小さな――よくてふたり乗りがやっとと思われる――昇降機のようなものも見える。
――でも、とイコは首を傾げた。
石像が向けられている方向は、何もない虚空だ。空を飛ぶことができないかぎり石造の前に立つことなどできるはずがない。
――それともむかしは、橋がかかっていたのかな?
ちょうど手摺の途切れている辺りと、石像のある場所は真っ直ぐ一直線に位置しており、手摺の途切れた幅とふたつの石像が並んだ横幅もほぼ同じくらいに思える。
まるでふたりが立つバルコニーと、石像のある小さなバルコニーを繋ぐ道があったかのようだ。
――もしかして。
そこまで考えて、イコはふと顔を上げた。まさか『見えない通路』でもあるのではないか、と思い付いたのだ。
これまでお城の中で見てきた様々な仕掛けを思い出すと、いくら突拍子のない思いつきとはいえ、それを馬鹿馬鹿しい、のひと言で振り払うことはできなかった。
ヨルダと繋いだ手はそのままに、手摺の途切れた辺りまで近付いた。
そして、イコが覗き込むようにして身を乗り出しかけた、その時――
――ヴ……ンッ!
大気、ではなく、空間を震わすような音が響く。その音はすぐに周囲に溶け込むようにして消えてしまったが、一瞬の出来事にイコは目を瞬かせた。
「……え?」
不思議な音が鳴り響いたと同時に、何もないはずの虚空にうっすら輝く四角い輪郭が現れたのだ。光の輪郭は音が溶けるように消えていくのと反比例して、より確かな質感を持ち始める。音の余韻すら消え去った後には透き通っていた輪郭の名残は消え失せ、代わりに、ふたりが立つバルコニーから彼方の石像に向かって延びる、不思議な文様の刻まれた足場が存在していた。
驚いたイコは、一度ヨルダの手を離して少女をバルコニーに残すと、恐る恐る不思議な足場の上に乗ってみた。揺れることもなく、硬い地面と変わらない感触のする足場だ。
しかし、それきり新たな足場が出てくる気配はない――
――否。
そうではない。
自分ひとりだから何も起こらないのだ、と直感する。
「――ヨルダ」
振り返り、手を伸ばせば、少女は恐れ気もなく足場に踏み入れ、少年の手を取った。
その瞬間――
――ヴ……ンッ!
再び先ほどと同じ音が響き、最初の足場に連なって新たな足場が現れる。
魔法じみたこの足場の仕掛けは、ヨルダがいなければ作動しないのだ。
道を塞ぐ石像が動かないように。
不思議なソファが輝かないように。
あたかもヨルダのために道が作られるように、魔法の足場が現れていく。
それはやがて一本の橋――あるいは道となって、ついに石像の前まで繋がった。
空中を繋ぐ最後の足場に足を踏み入れると、ヨルダと石像の間で青白い閃光が迸った。石像が左右に動き、道が開かれる。
石像の先にある小さなバルコニーには、向かって左隅の床にレバーが取り付けられていた。
――きっとこれが。
今、真下にある巨大な円形の扉の下、燭台を覆う丸い鉄蓋を開く仕掛け。
イコは数歩の距離を一気に縮め、飛びつくようにして掴んだレバーを動かした。
――ガコン。
すでに何度か耳慣れた音が響く。
しかし、扉の真上に位置する小さなバルコニーからでは、巨大な円形の扉の更に下方に位置する燭台の蓋が開かれたかどうか、確認することはできない。
下に降りて確かめよう、と踵を返したイコの視線が、す、とレバーとは反対側のバルコニー片隅に設置された小型の昇降機に向けられる。
未だ動くというなら、あの昇降機に乗って下に降りることができれば、それが一番速いだろう。
しかし昇降機はとても小さい。もしかしたらひとり乗りでは、という考えがイコの脳裏をよぎる。
ひとり乗りの場合、乗るのが自分にしろヨルダにしろ、ふたりの間に魔法の足場と吊り橋、そして坂の分の距離が開くことになる。
イコは自分の手のひらに視線を落とした。
レバーを動かすため、今は誰ともつながれていない、自分の小さな手。その手を、ぎゅっ、と握り締める。
――あせらなくても、うごかしたしかけがもどるわけじゃない……とおもうし。
来た道をそのまま戻ろう、と魔法の足場を振り返ったイコの視線の先に、足場の向こうに半円にくり貫かれた舞台のような空間が見えた。
よく見れば、そこだけではない。石像に護られるように――あるいは封じられるように、高みに存在する小さなバルコニーから、石畳の広間のほとんどを一望することができる。
そのことに気付いた瞬間、イコの眉間がわずかばかり顰められた。
ここはすべてを見下ろせる場所なのだろうか、と思うと、妙に居心地が悪くなった。
ここはすべてを見下す場所なのだろうか、と思うと、とても嫌な気持ちになった。
早々に下に戻ろうと、ヨルダの手を再び固く握り締め、イコは魔法の足場の上を駆け抜ける。
走り出す寸前、振り返り見た少女が哀しげな眼差しを下に向けているように見えた。憂う瞳の意味をイコは窺い知れない。
けれど、なぜかその時、自分と少女が同じ気持ちを抱いているのだと、そう、強く感じた。
最後の二つの燭台に火を灯すことは簡単だった。
もちろん剣では火をおこすことも、移すこともできない。だから、下に降りたイコはまず、剣を手にする代わりに石畳に横たえた木の棒をもう一度手にとった。剣と木の棒、両方を同時に持つことは難しかったので、今度は剣をそっと石畳の上に置いた。
火種はすぐ身近にあった。二つ目の扉が開いた後、壁に大きく開いた真円の空洞の下、煌々と輝きを放つふたつの燭台だ。そこから火をもらい、木の棒の先に明かりを灯す。すぐさま踵を返すと、一つ目の巨大な円の扉の下にある、先ほど丸い鉄蓋が開いたばかりの燭台を目指した。
一つ目と二つ目の扉の間にもそれなりの距離が横たわっていたが、最奥の扉と二つ目の扉――長い階段の通路と、長い梯子に手こずらされた、空洞の向こうの部屋ほどではない。木の棒の先で揺らめく光が衰える心配をするまでもなく、余裕を持ったままイコが木の棒を陰に沈んだ燭台に突き入れると、暗かった燭台に赤と橙の混じった光が現れた。燭台から取り出した後も変わらない松明の明るさに、ついでにそのままもうひとつの燭台にも火を灯す。
最後のふたつの燭台が煌々とした光を放つ。
ガコ……ン、響いた音はこれまでのものとどこか違っていて、他のふたつの扉よりずっと複雑な仕掛けが動いているようだ。
現に、ゆっくりと開いていく扉の向こうに、同じく開こうとしているもうひとつの扉があった。
二重の扉はほぼ同時に開き切り、そしてすべての扉が開かれた。
壁に穿たれた巨大な空洞が一直線上に並ぶ。
――その時。
音、を聞いたような気がしたイコは後ろを振り返った。
そこにあったのは、二つの空洞の向こう、崖上の奇妙なオブジェだ。オブジェの上部、骨細工で花弁を模したようなその場所が、遠目にも眩しいほどの光を放っている。
光を集約しているのだ、とイコが気付くより早く。
それは、一瞬のことだった。
音もなく、振動もなく、けれど確かに圧倒的な存在感をもって、光がイコの頭上を走り抜けた。
あの奇妙なオブジェは反射鏡のようなものだったらしい。万遍なく降り注ぐ陽は一点に集められ、巨大な光の帯となった。三つの空洞を抜けた光の帯は、真っ直ぐ崖上の回廊を突き進み――イコが確認できたのはそこまでだ。それより先は、眩しい光が幕となってしまい、今この場――建物の中からでは外の様子を窺い知ることはできなかった。
どこか遠くから響くガァン、という重い金属音。
新しい道が開かれたのだろうか、イコは、白く霞む視界にそんなことを思った。
どうせだから、扉が開いた後の巨大な穴から外に出ようかと縁に手を掛けたイコの動きがピタリと止まる。
木の棒と、再び舞台のような場所の中央に置かれ、降り注ぐ光を照り返す鋼に視線をやった。
軽くて扱いやすい、木の棒と。重い剣。
現れる影たちは、ますます手強くなっていく。
剣は重い。けれどその重さすら持てず、どうして手の中の温もりを手放さずにいられるだろう。
少年の手が選んだのは、硬質な輝き。
ヨルダに手を貸し、最初の扉が開いた跡、霧の城側に向けて開いた空洞から外に出る。
それほど長い時間建物にいたわけではないはずなのに、吹きつける風は妙に外を感じさせた。
長く続く崖上の回廊を何となく懐かしく感じながら下に降り――踏み出そうとしたイコの足が止まった。
風以外の何かが吹きつけて――押し寄せてくる気配。
青い空には、不自然な黒い染みができていた。