23.東の反射鏡2 (1)

 ザアザアと水の流れる音が間断なく反響する部屋の中、目の前に広がるのは、遥か上へと延びる坂だった。建物二、三階分の高さはあるだろうか。思い切り顔を上に向けてようやく視界に入る坂の終着点は、その更に奥に出入り口があるのだろう、そこから差し込む陽光のため、白く霞んで見える。
 広間とは広さを比べるべくもないが、それでも決して狭くはない部屋の前方一面を占領している坂は、急勾配なこともあって、ともすればすぐ目の間に壁が立ち塞がっているようにも感じられた。
 それだけではなく、坂の上を水が流れ落ちていた。坂一面を覆う水流はまるで透きとおるカーテンのようだ。途切れることなく部屋中を反響している水音はこれのせいかと、イコはすぐに理解する。
 恐れ気もなく坂に近寄ろうとしたイコだったが、入ってきた入り口から僅かも進まない内に感じた足裏の感触の変化に、前方の壁へ向けられていた視線が咄嗟に足元に移される。
 一定の間隔で石床をくりぬいた穴を覆う無骨な鉄格子――それは排水口だった。そこに吸い込まれていくのは滝のごとく坂を流れてくる水だ。よくよく目を凝らせば、坂の頂上付近では排出口と思しき鉄格子を見ることができた。
 白い少女は、積極的に排水口より先、水の流れる坂に近寄ろうとしない。木漏れ日が零れ落ちる中庭から落ちた先の水路から呼んだ時は、水に浸かってでも呼び声に応えて来てくれたが、やはり水に濡れることは好きではないらしい。イコはちらりと足元に目を遣り、素足のままのヨルダに、裸足じゃきっと水も冷たいだろうし、と納得する。
 ヨルダを坂の部屋の入り口付近に待たせると、とにかく坂を上ろう、とイコは無造作に足を踏み出した。踏み出した先で、パシャン、と水の跳ねる音が響く。上から流れ続ける水はくるぶしが浸かるほどの深さもない。
 しかし、一歩も進まない内にイコの足が止まった。もちろん自ら意識してのことではない。石畳でできた急勾配の坂は水に濡らされることでひどく滑りやすくなっており、坂一面を覆う水流は、あらゆるものを下へと押し流そうと止まることを知らない。
 滑る足元に気を付けて何とか前へ進もうとするが、坂の上に足を乗せた瞬間、踏み込んだ足が流れ落ちる水に押されるようにして、ずるり、と動く。
「う、わ……わっ」
 慌てて両足を地面につけ、転んでしまわないよう両腕を振り回して体勢を立て直そうとするイコの視界の高さは変わらない。転ばずには済んだものの、一歩でも坂に足を踏み入れれば、すぐに入り口近くの排水口まで押し流される。
「………………」
 思わぬ難関にイコの表情が憮然としたものに変わる。
 上から下へと淀みなく流れる水のカーテン。
 思い切り駆け上ってみても結果は同じだった。どうしても途中で――坂の半ばにまで至らない内に――足は止まり、滑り、水に押し流され下まで戻されてしまう。無理に進もうとして転び、したたかに腰を打ちつけそのまま流されてしまうこともあった。もちろん、水に濡れることにもなる。硬い石床に打ちつけた箇所は痛いし、濡れた服が肌に張りつく感触は気持ちよいものではない。
「……困ったなぁ……」
 水の流れる坂を上ることは諦め、イコは他に道になりそうなものはないかと首を巡らした。
 ――あれ?
 ぐるりと変わる視界の中で、妙に気になるものがあった。
 それは坂から向かって左側の壁から張り出した縁だった。
 ある程度の高さを空けて何本もの縁が平行して横に伸びている。低い位置にある縁はすぐに水の坂に当たり、坂に触れる寸前で縁は終わっているが、より高い位置にある縁は坂の上まで続いている。もっとも、本来ならどの縁も一本の線となって伸びていたのだろうが、今や所々が崩れ落ち、どの高さにある縁も途切れ途切れの線となってしまっていた。
 その光景に、城壁の縁を辿って行った時のことが思い起こされた。
 あの時と同じ要領で、縁が途切れたのならば別の縁へ移っていけば、縁伝いに水の流れる坂の上に出ることができそうだった。それに、坂の上には流れる水を止める仕掛けがあるかもしれない。
 イコは精一杯顔を上げると、見える範囲ででき得る限り壁を走る出張った線の配置を覚えようと目を凝らす。光が届かず、あるいは影ができて薄暗くなっている辺りのふちの様子は掴み辛いが、何とか大まかな道筋を頭に思い描く。
 イコは、よし、と小さく気合の声をあげ、手近な縁に手を掛けた。その上に身体を持ち上げようとする寸前、ぱっと背後を振り返った。
「ヨルダ、行ってきます!」



 最初はできるだけ上まで登り、それから様子を窺いつつ、壁に張りつくようにして慎重に右――坂の上を目指して進む。
 下に、上に、何度も縁を替え、ようやく真下に坂の終着点を見下ろせる位置にまで至る事ができた。
 足場にしている縁からそっと下を覗き込むと、結構な距離を置いて乾いた、そして傾いていない石畳が見える。ただし、その途中に手掛かり、足がかりにできそうな縁はなく、今立っている縁から一気に飛び降りなければいけない。すぐ隣の頭上には、バルコニーのように張り出した一面がある。下から見上げている時は天井の一部が張り出しているだけかと思っていたのだが、間近に近付いたことで、そこが鉄柵に遮られたもうひとつの空間であることがわかったのだ。しかし、間近といっても足場にしている縁から飛びつくには距離があり、見上げる体勢では空中に張り出した床の部分と、鉄柵しか見て取ることができず、そこに何があるのかまではわからない。
 これまでも、何度も高い場所から飛び降りてきた。イコの中の距離感覚はこの高さは大丈夫だと伝えてくるが、それでも建物一階分相当の高さは躊躇せず踏み切れるような高さでもない。ごくり、と喉を動かすと、イコはつい先ほどまで足場にしていた縁にぶら下がった。たいした違いにならないかもしれないが、少しでも自分と地面の間の距離を縮める。そして、下を見据えたまま一気に手を離した。
 石の地面が近付いた、と思った瞬間、両足にしびれるような衝撃が走る。イコは思わず転びそうになるのを地面に踏ん張り、何とか耐えた。
 大丈夫、とは思っていたが、無事に着地できれば安堵もする。
 はあ、と胸に溜まった息を大きく吐くと、落ちた衝撃が抜けるのを待ってからおもむろに足を踏み出し――パシャン、と跳ねる水の音。
「……あれ?」
 間の抜けた声を出した少年の身体が、ずるり、と滑っていく。
 まだ多少ふらついていた身体が踏み出した一歩は、思っていた場所より外側を踏み締めていたのだ。
 そこはもちろん、水が流れ落ち続ける坂の上。
 その場に踏みとどまることもできず、仕舞いにはバランスを崩して尻餅をついてしまったイコの視線の先で、先刻降り立ったばかりの坂の上が遠ざかって行く。その光景を眺めながら、少年の肩が、がくり、と力なく下げられた。
 もう一度、渡り直さなければならないことは明らかだった。
 もっとも、二度目ともなれば縁と縁の渡り方も慣れてくるし、一度通ってきた分、どのような道順で進めば良いかもわかっている。
 最初の時よりはずっと早く坂の上まで辿り付けるだろう。それだけがせめてもの救い、だったかもしれない。



 残念なことに坂の上ではこれといった仕掛けは見当たらなかった。
 奥は入り口があるどころか、そもそも壁がなく、そのまま建物の外壁に延びる廊下に出ることができる。手摺から身を乗り出して外の様子を窺うと、下方に緑色に茂る絨毯と奇妙なオブジェが見えた。廊下は出てすぐ右側に伸びているが距離は短く、あっという間に壁に当たってしまう。しかしつき当たりの壁寸前、向かって右――水の流れる坂のあった部屋側の壁に、閉ざされた入り口と、一部盛り上がった床がある。何度か見かけた、床を踏んで扉を開く仕掛けだった。
 扉の向こうは、階段の通路が続く部屋だった。その部屋の、円形の扉よりも、外から梯子を登った先の、レバーのあった空間よりも、ずっと高い場所に出たようだ。吹き抜けになっている部屋上空の四方の壁沿いに足場と階段が設けられ、どことなく、ヨルダと初めて出会った螺旋階段の塔を思い出させた。
 イコの視線が、空いた手に落とされる。
 何も掴んでいない手がどうにも心許ない。
 イコは一度踵を返すと、水音の響く部屋へ舞い戻り、坂の上から下にいる少女に向かって部屋中を満たす音に負けじと声を張り上げる。
「もうちょっと、まってて!」
 その言葉が、ひとり待ち続けるヨルダを安心させる為、だけではないことをわかっていた。ひとりで居ることが、ひとりで居させることが、たくさんの壁に遮られて姿を見ることさえできない状態が不安なのは、むしろ自分の方だ、と。
 だからイコは目一杯の力で駆け出した。
 空っぽの手が、すぐに温もりを掴めるように。



 ひと繋がりになっていると思った壁沿いの通路は、入り口近くからいきなり途切れていた。慌てて立ち止まりよく見てみると、人ひとり分ほどの距離が開いている通路のその部分は、本来橋が架けられる場所のようだった。壁にはロープで引き上げられた橋の半分が引き上げられている。向こう側にも同じように引き上げられた橋の裏側が見えた。橋を引き上げているロープは、上の通路から伸びているようだ。
 とにかく、先へ進む為に目の前の開いた空間を跳び越えると、そのまま道なりに駆けて行き、階段を上る。橋を壁際に繋ぎとめるロープの下を通る時は、ついでとばかりに手にした剣でロープを断ち切っていった。
 橋が下ろされ、イコが入ってきた入り口側と、その向こう――石畳の広間側――の壁向こうを繋げる道が渡された。
 それを視界の片隅に納め、イコは更に四角い道を螺旋状に進み続ける。
 更に一回り、二回り通路を巡ったところで、ようやく螺旋に延びる通路が終わった。通路の終わりには再び閉ざされた扉と、せり上がった床がある。
 その扉の向こうに、坂を流れる水を止めるものがある、という確証があったわけではない。それでもイコは躊躇うことなく扉を開き、その向こうへ飛び込んだ。
 足元の仕掛けを通り過ぎ、再び閉まる扉の音と共に聞こえてきたのはザアザアと反響する水の音だった。
 バルコニーのような狭い空間。目の前にはレバーと、向かって左側には部屋の石壁が、右側には丈の低い鉄柵――手摺がある。手摺の向こうに見えるは、際限なく流れ落ちる水が滝のようにも見える急勾配の坂と、水が吸い込まれていく排水口近くで佇む白い影――ヨルダだ。
 縁沿いに進んだ時見かけたバルコニーの上に出たようだ。
 ヨルダの姿に、ほっと気持ちを和ませながら、イコは目の前のレバーに近付いた。
 ――きっとこれが。
 確信を持ってイコがレバーを引いた。
 ガコン、と固い音が響き、徐々に部屋に静けさが訪れる。水音が完全に途絶えた時、排出口から溢れ出ていた水が止まっていた。
「やったあ!」
 水音の消えた部屋で、イコの声がやけに響いた。
 その声に呼ばれたと思ったのだろうか、しばらく周囲を見渡した後、イコの姿を見つけたヨルダが坂を駆け上ってくる。
 イコも駆け寄ってくるヨルダに気付き、急いで迎えようと先ほど通ってきた道を戻ろうとして――足を止めると、少々難しい顔で手摺の下を見下ろした。それから視線を右に動かし、坂の上に出る時、一番最後に掴まった縁を見遣る。
 今、イコが立つ場所と、最後に飛び降りた縁はそれほど高さが変わらない。もちろん、バルコニーの方がひとり分の背丈くらいは高さがあるのだが、まだ飛び降りられる高さだ、と思う。
「…………」
 しばらく無言のまま下を覗き込んでいたイコは、覚悟を決めた様子で小さく頷いた。
 ――よし。
 そして手摺の上に登り――その高さに一瞬、決めたはずの覚悟がぐらつく。
「――えいっ」
 怖気付きそうになった一瞬を振り払うような掛け声と共に、少年の身体が手摺の向こう――空中に舞った。
 ――……う……っ!?
 半ば顔を引き攣らせつつ、あっという間に硬そうな地面が近付く、と思った瞬間、イコはドスン、という鈍い音を聞いた。全身に広がる衝撃と痛みに、その音の発生源が自分なのだと思い当たる。どうやらあの高さからでは、流石に上手い着地はできなかったようだ。
「――っわ……ったぁ〜……」
 打ち付けた箇所をさすりながらイコが身体を起こす頃には、ヨルダもすぐ傍らまで駆け寄って来ていた。イコが飛び降り損ねて落ちる様子はしっかり見ていたのだろう、ヨルダの柔らかな手が労わるように触れてくる。それに気恥ずかしさを感じながら、イコが照れたような微笑を浮かべると、ヨルダの瞳が優しげに細められた。
「じゃあ、行こう」
 そう言って伸ばされたイコの手に、ヨルダの手が重なる。
 温もりを大切に握り締め、ふたりはゆっくりと歩き出した。




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