17.石柱 (2)

 下の階の影たちは気になるが、今はどうしようもない。再び奥の石畳の上に降り立ったイコは、石像周辺に何の仕掛けもないことを確認すると、外に向かって突き出たクレーンの上を渡った。
 何であれ、とにかく行ける場所はできる限り行ってみよう、という考えによる。
 一歩足を踏み外せば簡単に下へ落ちてしまう、鉄柵も何もない幅の狭い鉄の上を行く。何度か体勢を崩したものの、無事にクレーンの先端に到着すると、恐る恐る腰を屈めて、今度はクレーンから伸ばされた鎖に手を掛けた。
 それこそ空中に放り出された気持ちで鎖を下りていくと、やがて前方、城の外壁に空いた穴――窓に気が付いた。位置から察すると、影たちが蠢く下の階の広間に通じているのだろうか。
 もっとも、前方とひと言で言っても、その距離は少なくとも渡ってきたクレーンと同じくらいの長さがある。普通なら、到底行けるはずもない、が。
「…………」
 イコは頭上を見上げ、長く伸びた鎖をまじまじと見つめた。
 そして改めて前方の窓に目を向けると、身体の向きを微妙に変えて、身体が確実に窓の正面を向くように位置を調整する。そうしてから、鎖を掴んだ手にいっそうの力を込め、反対に鎖に絡めていた足を宙に投げ出し、身体を前後に大きく揺らし始めた。
 鎖の揺れは次第に大きくなっていき、やがて前方の外壁が間近まで迫るようになり、一瞬、窓の向こうでちらつく黒が見えた。
 それを二度ほど繰り返し、鎖が伸びるぎりぎりを見極め、三度目に外壁が近付いた時、
「……せー、のっ」
 イコは掛け声と共に、鎖から跳んだ。
 イコの身体は窓の中をくぐって、外壁の中――広間に投げ出された。
「うわっ……っと」
 投げ出された勢いのまま、何とか両足で着地をし、勢い余って数歩たたらを踏んだ。
 視線が突き刺さる気配。
 押し寄せる圧迫感。
 周囲に目を向けるより早く、棒を構え、視線を感じた方へ顔を向ける。
 その時、イコが入って来た外側の壁の向かい、城の内側の壁にある窓と、その窓をふさぐようにして置かれた木箱がちらりと見えた。
 もっとも、影たちが自分の行動を大人しく見送るはずもない。
 ぎり、と奥歯を噛み締める。
 逃げるにしても進むにしても、まずはこの広間から出るしかない。何より、ヨルダを長い間ひとりにして放っておくなどできない。
 イコは漆黒の腕を振り上げ近づいてくる影たちに向かって、躍り掛かった。
 どんなに動き回っても、少なくとも、ヨルダが襲われる心配はない。それだけがせめてもの救いだった。



 イコが近寄れば逃げ出すのに、ならば放っておこうと背を向ければ襲い掛かってくる、そんな影たちに苦戦しつつも、何とか全ての影を打ち倒し、広間に現れた影穴は消えていった。
 イコは広間中を走り回っている間に、この広間には窓以外何もないことを確認していた。
 やはり、木箱の置かれた窓から城の内部に戻るしかない。幸い、木箱が置かれている位置は窓枠の奥の方だった。これならば窓枠に立って、木箱を外に押し出すことができる。
「……まど? はこ?」
 ふたつ並んだ単語に、なぜかとても聞き覚え――というか、見覚えがある気がして首を傾げた。
 しかし結局思い出せず、まあいいか、とイコは窓枠の上に身体を乗り上げ、木箱を押した。
 ほんの僅かの距離を動いて木箱が落下すると、途端に眩しい光が差し込んでくる。お城の中ではないのかと訝しげに広間の外に降り立ったイコは、目を瞠った。
 微かに届く水の流れる音。足元の柔らかな草の感触。
 そして、立ち並ぶ木と、そこから零れ落ちる木漏れ日の煌き。
 そこは通ってきたばかりの水路のある、木漏れ日が零れる中庭だった。
 イコはようやく思い出す。
 そう、ここで目にしていたのだった。先ほど広間から落とした木箱は窓の縁ぎりぎりに置かれていた木箱だったのだ。
 もちろん、石像は道を開けたままだから、昇降機のあった所まで戻ることはできる。しかし、肝心の昇降機が上がったままなので、同じ道順でヨルダのもとに戻ることはできないし、戻れたとしてもそれでは更に先へ、石像のある場所へ至ることはできない。
 ふっと上を見上げたイコは、右側――石像と、鎖の吊るされた足場がある側の壁で、壁の上の鉄柵が途切れていることに気付いた。鉄柵が途切れている、というより、鉄柵は鎖が吊るされている周辺の壁のやや内側を囲っている。城壁と鉄柵の間は、城壁に沿って伸びる通路になっているようだった。
 鉄柵の立つ壁そのものはあまり高くない。もちろん、イコがその場で跳んだだけでは壁の縁に手を掛けることすらできないだろうが、イコは落とした木箱に目をやった。
 よし、と頷いて木箱の取っ手に手を掛けたイコは、鉄柵のない壁際まで木箱を運んだ。そして、木箱を踏み台にして壁の上の通路へと上る。
 壁沿いの通路を道なりに進むと、通路自体はやがて正面に見える――昇降機や屋上へ至る側の壁で止まったが、頭上では鎖が揺れている。今度はその鎖に跳び付き、慣れた動作で上へと登った。
 鎖を登りきった先には、再び壁沿いの通路があった。階段状のその通路を上ると、城壁に開いた入り口の前に到着した。
 入り口をくぐった先は狭い足場となっており、背後と左右は高い城壁に囲まれている。前方に見えるのは昇降機と、屋上、そして屋上を取り囲む鉄柵だった。
 入ってきた右手側の壁には梯子がかかっていた。他に進めそうな所もないので、イコは梯子を登った。
 随分な高さを登って、ようやく壁の上に出る。そこにも、幅の狭い道があった。
 下を見下ろせば、浮かび上がるような白光がある。そのことにほっとして、イコの肩がすとん、と落ちる。知らない内に肩に力が篭っていたらしい。
 イコは、幾分軽くなった足取りで目前の道を進んだ。
 しばらく歩くと――ちょうど、下にある石像がある側の石畳近い所まで来た所で、一旦道は途切れてしまっていた。思い切り助走をつけて跳んでも届きそうにない距離を置いた先にある道の奥に、レバーが設置されている。
 空いた空間の中間地点からは鎖が吊るされており、下からでは気付かなかったが、鎖は壁の半ば――それでもイコが伝ってきた縁よりは高い位置だったが――まで伸びていた。
 鎖は余り高い位置から吊るされているわけではなかったが、短い距離を跳ぶ分には十分だろうと思われた。
 イコは鎖に向かって跳び付くと、跳び付いた位置そのままで身体を前後に揺らし始めた。やはり吊るされている連結部分から距離がなく、ずっと下まで思い鎖が垂れ流されているせいで大きな揺れにはならなかったが、できる限りレバー側の道に近付いた時を見計らって揺らした身体を跳躍させた。
「うわわっ」
 自分でも思っていた以上に勢いがついていたらしく、レバーにぶつかりそうになりながらも、イコは向こう側へ渡ることができた。
 もっとも、レバーの前まで来たものの、このレバーが一体どんな仕掛けなのかさっぱり見当もつかない。
 ――まあ、うごかしてみればわかるかな?
 まさかそうそう悪い仕掛けも起こらないだろう、と軽い気持ちでレバーを引く。
 すると、大きな音を立てて何か――音に導かれるまま視線を下に向けたイコは、ソファの、ヨルダのいる側にあった鉄の床が奥の石畳の床に向かって移動するのを見た。
 鉄の床は対岸まで至ると動きを止めた。
 一連の出来事を瞠目して見守っていたイコは、
「――そうか、あれを使えばヨルダもここをわたれるんだ!」
 ようやくそのことに思い至り、もう一度レバーに手を掛けた。レバーを上に動かすと、鉄の床は再び元の場所、ヨルダが立つ側へ戻った。
 ヨルダも急に動き出した鉄の床に驚いていたのだろう、石床の縁で再び足元に戻ってきた鉄の床の覗き込んでいる姿が見えた。
「おぉーいっ!」
 ヨルダに鉄の床の上に立ってもらわないと、それを動かす意味がない。
 呼びかけられた声にヨルダは最初辺りを見渡していたが、もう一度イコが声を掛けるとイコに気付いて、少しでもイコに近付くため鉄の床の上に足を乗せた。ヨルダが鉄の床の半ばまで来た所で、「そこにいて」と声を上げ、身振りで示す。
 それを理解してくれたのか、歩みを止めたヨルダを確認すると、イコは再びレバーを下げた。
 鉄の床が唸りをあげて動き出し、ヨルダを奥へと運ぶ。
 イコも、早くヨルダと合流しよう、と吊るされた鎖に向かった。途中まで鎖を伝って下りて、後は壁から出張った縁に掴まって行けば下まで無事に下りられるはずだ。
 しかし――
 鎖へと向かう歩みが、一瞬止まる。
 まさか、と思いながら振り返った先に見えたのは、ヨルダを迎えんとする黒い影。
 イコの耳に、ヨルダの悲鳴が届いた。



 イコは鎖に跳び付くと、鎖の端ぎりぎりまで落ちる様相で一気に下りた。ヨルダはまだ影たちから逃げ続けていたが、段々端へと追い遣られていた。このままでは影たちに掴まるのも時間の問題だった。
 イコは躊躇せず鎖から飛び降りた。
 上がりそうになる声を喉の奥に押しやって、受ける風圧に負けまいと閉じてしまいそうになる目に力を込める。
 ほとんど倒れ込むようにして下り立った石畳を蹴り上げ、ヨルダを呼ぶ。
 黒い影の隙間から、自分に向けられる白い腕が確かに見えた。
 邪魔するように立ちふさがる影たちは極力無視し、褪せない白を探し求める。
 影たちの間を潜り抜けると、今にもヨルダをたゆたう漆黒の影の中へ引きずり込もうとしている大きな影に、イコは跳び上がった勢いを借りて思い切り棒を叩きつけた。
 ヨルダを取り落とし、どうっ、と倒れ込む影を尻目に、イコはヨルダに手を貸して立たせると、とにかく四方を影たちに囲まれた現状から抜け出そうとした。
 ヨルダに手を伸ばす影たちを棒を払って遠ざけ、少しでも手薄な所から、強引に影たちの輪から抜け出し――
 視界が開けた瞬間、眩い閃光が辺りを満たした。
 思わず足を止めてしまったイコの周囲を光の奔流が駆け巡る。
 光が収まった後には、影たちも、影穴も、跡形も無くなっていた。
 何が起こったのかと呆然としてしまっていたイコは、重々しい物音にその理由を知った。
 物音のした先には、新たな道が開かれている。
 無我夢中で周囲を取り巻く影たちから抜け出した所は、ちょうど石像の真前だったのだ。
 それは、つまり。
「――ありがとう。また、たすけてもらっちゃたね」
 少々、複雑な思いで傍らの少女を見上げた。
 どうも、不本意ながらも守られたり、助けられたりしてばかりの気がする。
 それでも、心から感謝していることに変わりはない。
 もう一度、ありがとう、と笑顔を浮かべる少年に、ヨルダはどこか安堵したような微笑を返した。




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