17.石柱 (1)

 木漏れ日の落ちる中庭から出た先もまた、周囲を高い壁に取り囲まれていた。ただし、この場所の方が周囲を囲む壁が遥かに高い。
 真っ先に目に付いたのは、狭い場の一角にある昇降機だった。逆に言えば、改めて見渡すまでもなく、昇降機と木漏れ日の落ちる中庭へ通じる出入り口以外何もない。
 イコはヨルダの手を引いて昇降機に近付いた。昇降機はほとんど骨組みだけ同然と言っていいほど簡素な作りだった。そこには余分な機材はまったく無く、ただレバーだけが設置されていた。レバーの向きから考えて昇降機に乗り込む入り口を左右とすると、その前後には乗った者が落ちないようにという配慮だろう、一応、柵のような壁があった。
 イコは顔を上に向けた。
 もちろん、そこから見えるのは四角く切り取られた空だけで、昇降機が至るはずの城壁の上を窺うことなどできはしない。
 ――よし、と小さく頷く。
 イコは、同じく上を見上げていた少女に声を掛けると、ふたりで昇降機に乗り込んだ。
 なるべくヨルダを奥の方へと誘い、万が一にも昇降機から落ちることがないように気を遣う。左右に壁がないとは言え、レバーの右側、乗り込んだ側の向かいは城の壁に接しているので、石壁が昇降機の右の壁代わりをしていた。
 ヨルダが自分と右側の石壁の間に立ったことを確認するとイコは、ぐっ、と力を込めて昇降機のレバーを引いた。
 音と振動が響く中、周囲の景色が下から上へと流れていく。四角い空が見る見るうちに近付き、やがてそれは四角い空ではなく、どこまでも広がる無限の空へと変わっていった。
 城壁の上まで辿り着き、動きを止めた昇降機から降りる。城の中でも高部に位置するのだろう、屋上と呼んでも差し支えないようなその場所は、何ひとつ遮られることのない陽射しが無遠慮に降りそそいでいた。
 自分たちの影ですらかき消してしまいそうな強い日差しに目を細め、イコは辺りを見回した。
 昇降機から降りて、左側は城の外壁となっていた。それ以外の三方は背の高い鉄の鉄柵が壁の代わりに屋上の周囲を取り囲んでいる。ただ、左側の外壁の向かい、右側手前の一角にひとり、ふたり分程度の幅で、別の外壁が重なっていた。昇降機側の鉄柵は他の二方より一段高くなっているが、右側、一部重なっている外壁もそれと同じくらいの高さだった。それは上の様子は窺えないが、上がった先に別棟の屋上が続くのだろうと辛うじて察することはできる高さ。しかし、何か踏み台になるものがなければ、あるいは上から引き上げてくれる手がなければ届きようのない高さでもあった。
 左手側に伸びる外壁には、レバーがひとつ取り付けられていた。ただしこれも真下から跳び上がっても指先が触れるか触れないか、という高さに設置されていた。
 何か踏み台にできそうなものはないかと首を巡らせる。しかし、目に映るものは城の外壁と、遥か遠方に広がる深緑だけだ。
「――あれ?」
 眼下に広がる深緑と、霧のお城の一部分であるはずなのに遠すぎて僅かに霞んでみえる城壁の回廊に何気なく視線を向けていたイコは、目にしていた景色よりずっと手前、屋上の鉄柵に目を留めて小さな呟きを漏らした。鉄柵の一部が壊れていることに気付いたからだった。
 辺りをぐるりと囲んでいる鉄柵は、レバーの付いた外壁に届く前に途切れて、外に向かって折れ曲がっている。更によくよく観察すると、鉄柵が立てられているはずの石床が崩れ落ちている跡を見て取ることができた。
 イコはヨルダをその場――昇降機から降りてすぐの場所に待たせると、崩落の跡に近寄り、恐る恐る下を覗き込んだ。
 一瞬、遥か彼方の地面に吸い込まれそうな感覚を覚えたが、慌てて頭を振って縁を掴む手に力を込める。目線をもっと近くに合わせ、イコはそこに道になりえるものを見つけた。
 外壁には等間隔に並んだ三列の線となって横に伸びる縁があった。正確には、三列の線だった、のだろう。三つの縁はどれも途中で崩れ、線を途切れさせていた。
 しかし幸いなことに、三つのうちどれかの列は必ず他の二列と崩れている部分がずれている為、途中で手掛かり、足掛かりにする縁を変えれば進むことができそうだった。もっとも、それらを道と呼ぶことを憚りたくなるほど、外壁から突き出た縁は狭く、細いものだったが。
 ここに至るまでの間に、何度か僅かな出っ張りを手掛かりとして霧のお城の中を進んで来たことを思い返し、怖気づきそうになる気持ちを鼓舞する。
 奥はどうなっているだろう、とイコが身を乗り出した時、崩れた石床の破片がカラカラと音を立てて落ちていった。
「……」
 それきり、何の音も立てずに遠方へ地面に吸い込まれてゆく石の欠片に、少年の喉がごくり、と鳴った。
 一番近い縁でも、イコの身長くらいの距離がある。そこに立つ、あるいは掴まるためには、この場から飛び降りるくらいの勇気を必要とした。
 ――でも。
 振り返った先には、眩い陽光に紛れてしまいそうで、けれど決して見失うことのない白い光がある。
「ヨルダ!」
 少年の呼び声に、少女が顔を向ける。駆け寄ってこようとするのを身振りで抑えると、
「行って来るね!」
 そう言って、イコは鉄柵の壊れた跡に手を掛けた。



 まず、屋上の床の端に掴まり、身体をぶら下げた。足をいくら動かしても前面の外壁を蹴るばかりで、踏み締める地面のないことがやけに心許なく感じる。無理やり首を下に向けると、思っていたより近く――伸ばしたつま先より本の僅か先に外壁から突き出た縁が見えた。
 それ以上に、視界に入ってくる霞む大地に屋上の縁を掴む手に力が篭る。
 ――せーのっ。
 イコは深く吐き出す息と共に、手の力を抜いた。
 一瞬の浮遊感。
「――!」
 唇を噛み締め、喉をついて出そうになる叫びを押し止める。反対に、下から風を受け咄嗟に閉じそうになる瞳を無理やり見開く。
 次の瞬間イコは目前を通過して行ったものに無我夢中で掴まった。
 その途端、落下が止まる。
 腕が、肩が痛んだが、無事に縁を掴むことができ、イコの口から安堵のため息がこぼれた。
 同じ要領で、もう一列下の縁にまで下りる。それから、二列目――真ん中の縁の上に立ち上がり、外壁に張り付くようにして左に進んだ。真ん中の列も途中で途切れるので、今度は跳んで一番上の縁に掴まる。ぶら下がったまま縁を伝って進み、道が途切れれば下の縁まで下りて角近くまで辿り着いた。
 角の下にある足場に一度下りて、外壁沿いに進み、段差を上る。やがて正面に見える、先ほど屋上で目にした、別棟の屋上側の外壁前まで至ると、イコはやはり張り出た縁に掴まり、外壁を登った。
 もうひとつの屋上に上がり、そこで真っ先に目に入ったのは、取っ手のついた木箱とこれまで何度も見かけてきたソファだった。どちらも、昇降機から降りて辿り着いた最初の屋上からでは、昇降機がある側の壁の陰に隠れて見えていなかったのだ。
「……箱……そうだ! これなら!」
 イコは木箱に駆け寄ると、取っ手を引いて木箱を動かした。横手の壁が途切れた先には、ヨルダの待つもうひとつの屋上がある。木箱を下の方の屋上側に落とせば、木箱を足場にしてレバーを動かすこともできるし、イコが今いる側の屋上にも容易く行けるようになる。
 ヨルダが離れた位置にいることを確認して、イコは木箱を下側の屋上に落とした。どすん、という重々しい音と共に、砂埃が舞い上がる。
 木箱を追うようにして飛び降りたイコの両足が陽射しを照り返す石畳を踏み締めるよりも早く――
 ―― 一瞬、浮遊感すら消え失せる。
 その目に映るのは、くっきりと浮かび上がる漆黒。
「――ヨルダ!」
 イコは少女に向かって駆け出した。



 影たちは、常にヨルダを優先して狙ってくる。
 彼らにとってイコはやっかいな障害物にしか過ぎないのだろう。
 空に羽ばたく影は、イコの頭上を越えて背後――ヨルダの間近に迫ろうとするし、地面を行く者はイコを薙ぎ倒すのが困難ならば大きく迂回して死角から近寄り、ヨルダを攫おうとする。もちろん、隙をみてイコを殴り飛ばし、イコが倒れている隙にヨルダを狙う影も多いし、イコが連れ去られていくヨルダを助けに向かうことを邪魔する影もいる。
 だからこそ、イコは四方ががら空きの場所――例えば、広場の中央であるとか――では不利になることを学んでいた。
 ヨルダの手を取ったイコは、周囲を影たちに囲まれる前に壁代わりの鉄柵が二方向に伸びる屋上の角に向かった。角に辿り着くや否や、ヨルダを奥の方へ押し込むようにして、自身はヨルダを隠す形で追ってくる影たちとヨルダの間に立つ。
 時折、棒を横に薙ぎ払って一度に襲いかかろうとしてくる影たちを牽制し、一体ずつ確実に影を打ち倒していった。



 陽射しが生み出す影よりも、ずっと色濃い黒が煙となって消えていく。
 再び聴こえ始める唸りを上げる風の音に、イコはふっと肩の力を抜いた。
「――よしっ」
 小さく気合の声を上げ、先ほど落とした木箱に歩み寄った。
 まず、木箱をレバーの真下まで動かす。木箱の上に乗ってレバーを引くと、背後からガラガラと鎖が下ろされる音が聞こえてきた。
 音に誘われるようにして振り向いたイコは、上段の屋上の一番奥にあるクレーンから鎖が伸びていくのを見た。長く伸ばされた鎖は、しかし霞んで見える地面に辿り着く遥か手前で動きを止めた。比較的近くに垂直に立つ城壁がある以外、何もない中空に放り出された鎖に、
 ――ひょっとして、こわれてしまったからあれ以上鎖がのびないのかな?
 そう考えてみるが、答えがもたらされるわけでもない。イコは首を傾げつつ、とにかく一度上に上ろう、と、今いる屋上と上段の屋上が重なる角へ向けて木箱を運んだ。
 先に自分が上り、次にヨルダを呼んで上に引き上げる。
「……あれ?」
 最初、外壁伝いにここまで来た時はよく周囲を見渡すことをしなかったので気付かなかったが、改めて見ると――というより、改めて見るまでもなく上段の屋上に立つと否応なしに視界に広がる景色に、イコはぽかん、と口を開くと間の抜けた呟きをこぼした。
 石畳が続いているのはごく狭い範囲だった。何故か、一部が鉄の床となっている。
 それからたっぷり距離を開いて、対岸に再び石床が見えた。その奥、城の外壁に接して、道を塞ぐ石像が並んでいた。鎖が伸ばされたクレーンも向こう側に設置されている。
 もちろん、二箇所の石床を隔てる空間には何もないし、跳び越えられるような距離でもない。
 下を覗き込むと、城外の地面よりはよほど近いが、それでも気軽に飛び降りることなど論外な距離の先に広間らしき部屋が見て取れた。
 ――でも、どうやって向こうまで行けばいいんだろう……?
 こちら側――ふたりが立つ側にあるのは、ソファだけだ。もしや、と思い、ヨルダをその場に待たせて下に下り、もう一度レバーを動かしてみたが何も起こらない。
 ヨルダの元に戻ったイコは、ヨルダの背後――城の外壁から出張る縁に目を留めた。
 本来、外壁からせり出した柱によって半ばで途切れているはずの縁は、柱の一部が崩れ落ちていることによってひと繋がりの道となり、そこを伝えば向こう岸へ至ることができそうだった。しかし、イコひとりだけが通れる道では、道としては不完全だ。
 ――とにかく、向こう側に行ってみよう。
 これまでも、必ずどこかに道を拓くきっかけはあったのだから。
 イコは、ヨルダに「行ってきます」と声を掛けると、手近な縁に手を掛けた。



 狭い足場を、壁に張り付いてゆっくりと進む。特に、崩れた柱を通る時は、ほとんど砂利と化した柱の欠片に足を取られないよう、殊更慎重に進んだ。
 やがて、異様に長く感じた綱渡りも終わりを向かえ、石像の置かれた石畳の上に足をつける。
 イコは、対岸で待つヨルダに手を振ろうと振り返り――
 瞬間、ちらついた暗い光。
 理解するよりも、ただ察して、視線が自然と下へと向かう。
 下の広間にくっきりと穿たれた漆黒の穴。不吉に輝く青白い光を両眼に灯した影たちが蠢いている。
 イコは血の気が引いていくような感覚に襲われた。
 慌てて視線を上げた先には、真白く儚い輝き。表情を窺うことすら困難な、この距離。
 ――遠すぎる――!
 イコは飛びつくようにして外壁の縁に手を掛け、再び狭い足場を進んでいく。駆け出したい衝動を堪え、確実に、けれどできる限りの速さをもって少女の元へ急いだ。
 イコはようやくといった思いで辿り着くと、下の階に現れた影たちに気付いていないのか、血相を変えた少年を不思議そうに見やるヨルダを背後に庇い棒を構えた。
 遠いせいだろうか、常に感じるほどの圧迫感はない。
 それでも、確かにいることが感じられる。
 棒を構え、目前の空間から現れるだろう影たちを待つ。
 しばし、無言のまま時は流れ――
「………………?」
 イコは訝しげに眉根を寄せた。
 何故か影たちは一向に現れる気配を見せない。
 ヨルダの手を引いたまま、警戒は解かず、ゆっくりと床の端に寄り下を覗き込む。
 影穴と影たちは相変わらずそこにあった。
 上――ここにいるヨルダに気付いていないのか、それとも翼を持たない影しかいないのか、こちらを目指してくる様子すらない。
 イコはしばらくの間、その様子を見守っていた。
「……だいじょうぶ、なのかな?」
 とてもそうは思っていない声音で、不安げに呟く。
 繋いだ手を離そうと力を抜いて――できず、再び握り締める。けれど、進む為には一旦この手を離さなければならない。下の様子を窺ったまま繋いだ手を緩め、再び握り締めて、それを幾度となく繰り返す。
 すると、その手が温かい感触に包まれた。イコがはっとして顔を上げると、イコの大人顔負けの強さを持った、けれど年相応の小さな手を両手で包み込むようにして握り締めるヨルダと目が合った。
 白く煌く銀糸がさらさらと上下に揺れる。  ヨルダが頷いたのだと思い至った時には、イコは立ち上がっていた。
 念のため、ヨルダをソファの近くに連れて行く。
 繋いだ手は、思っていたよりもあっさり外すことができた。
 もう一度、行ってきます、と声を掛け、イコは外壁の縁を伝い始めた。




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