11.正門 (2)

 どのくらい、ふたりして立ち竦んでいただろうか。
 女王が残していった目の前を黒く塗りつぶしてしまいそうな重圧感や、心が凍えてしまいそうになる残酷な響きは、いつしか穏やかな風と暖かい日差しに吹き消され、溶かされていた。
 その時になって、イコはようやく大事なことに気が付いた。
「……ヨルダ!」
 いきなり名を呼ばれたことに驚く少女を、イコは喜びにきらきら輝くようなまなざしで見つめた。
「ヨルダ。きみの名前は、ヨルダっていうんだね」
 嬉しくて仕方がないといった様子で、何度も少女――ヨルダの名を口にする。
 そんなイコの様子に小さく首を傾げるヨルダに向かって、イコは破願して見せた。
「ヨルダの名前がわかってうれしい。ずっと、知りたいって思ってたから」
 ――ずっと呼びたいって思っていたから。だからうれしい……たとえそれが、闇を纏った女王から知らされたのだとしても。
 女王はイコの知る言葉も話していたけれど、やはりヨルダはイコの言葉がわからないらしく、にこにこと笑う目の前の少年を不思議そうに見つめていた。
 イコは少女を指差し、ようやく知り得た大切な名を声にする。
「ヨルダ」
 それから、今度は自分を指差す。
「イコ。ぼくは、イコ、だよ」
 ただ、自分の名前も知って欲しかった。できることなら、呼んでもらいたかった。
 その動きをじっと見つめていたヨルダが、不意にイコを見つめ、口を開いた。
「……イ、コ?」
 鈴の音のように透き通った声音が綴った言葉に、一瞬、呆ける。
 そして少年は顔をほころばせて、にっこりと満面の笑みを浮かべた。



 一息ついてから、イコは改めて辺りを見渡した。
 今や固く閉ざされた巨大な正門、断崖のような高い城壁、自分たちが通ってきた跳ね橋のある中庭へと続く門、火の灯されていない燭台達。正門に向かって左端にはあの不思議なソファもあった。
 しかし、これといって変わった仕掛けがあるようには見えなかった。
 ――一度、もどったほうがいいかな?
 シャンデリアのあった大部屋からこの正門に至るまで、連続して影に襲われ、必死になって逃げていたため、特に先ほど通ってきたばかりの中庭の様子はろくに見ていなかった。もしかしたら、別の場所へ続く道を見逃しているのかもしれない、そう考えた。
「ヨルダ――」
 ――戻ろう。
 そう、声を掛けようとして、ヨルダが燭台のひとつをじっと見つめていることに気が付いた。
「どうしたの?」
 尋ねつつ、イコはヨルダの隣に並んで同じものを見つめた。
 もちろん、返事は返ってこなかったが、少年は気にすることなく燭台に目をやる。
 火の灯されていない普通の燭台――に、見える。
 けれど、徐々に下がっていった視線が燭台の足元まで辿り着いた時、イコは初めてそれに気付いた。
 燭台の下方部分、前後に取り付けられた取っ手と、燭台の下の溝。溝の中で燭台は城壁寄りにあり、手前――正門のある庭の中央側の空間が空いていた。
 ――もしかして……
 イコは取ってを掴み、内側に向かって引っ張ってみた。
 思った通り、重い手ごたえの後、ずずっと重い音を立てて燭台が動き出す。
 完全に内側まで動かすと、燭台は、ガタン、と音を立てて僅かに沈んだ。固定されて、今度は少年がどんなに力を込めて押しても引いても、ぴくりとも動かなくなる。
 しかしそれだけで何が起こる様子もない。
 あれ? と思い、イコは首を傾げた。てっきりこれで何か変化が起こると思っていたのだが。
 ――間違いなくお城の仕掛けだと思うんだけど……
「……あ」
 思い至って、イコはもう一度周囲を見渡した。
 正門へ至る道の中央を挟んで左右に4本ずつ、全部で8本。それが燭台の数だった。その全てに取っ手が付き、足元には溝ができていた。
「……ひょっとして、これ、全部動かさないと駄目ってことかな……」
 少女を見上げると、今度は違う燭台を見つめていた。……その視線が、時折、鳩に移されたりもしていたが。
 イコの視線に気付き、ヨルダがイコに顔を向ける。微かに小首を傾げる様子は、「どうしたの?」と訊かれているようだ。
 イコは何でもない、と首を横に振った。燭台とソファを交互に指差し、
「ぼくは燭台を動かしているから、そのあいだ、ヨルダは休んでいた方が良いよ」
 そう言って別の燭台に向かうと、その後ろにヨルダもついてくる。
「ヨルダ?」
「……」
 寄り添うように傍らにいてくれるヨルダ。
 それが嬉しくて、頬を微かに色付かせて、イコはヨルダに笑いかけた。
「――よし! がんばらなくっちゃね!」



 ガコン、と何かが確かにはまった音が響く。
「やった!」
 成し遂げた達成感にイコが顔を輝かせている中、燭台の最後のひとつがゆっくり沈んで行き――ぼ、と燃え立つ音とともに8つの燭台全てに、同時に火が灯された。
「うわぁ……こういう仕掛けだったんだ……」
 眩しい陽光の下でも、なお煌々と輝く灯火をしばし見つめた後、イコは首を捻った。
「……これだけ?」
 もっと何か起きていないのだろうかと、何度周囲を見渡しても、火が灯された以外に変化は見られなかった。
 ――いみのない仕掛け、うごかしちゃったのかなぁ……
 思わず落胆のため息を漏らしそうになった少年の耳に、少女の呼びかけが届いた。
「イコ」
「ヨルダ?」
 どうしたの? そう尋ねようとして、少女がふたりで通ってきた出入り口の門を指差しているのが見えた。
 まるで、「行こう」と誘われているようだった。
 そうだ、嘆いて落ち込んでいる場合ではなかった、と思いなおす。ここに道がないのならば、最初の予定通り他の場所で道を探せばいい。
「――うん」
 少女に向けて、自分に向けて、力強い頷きを返す。
「行こう」
 イコはヨルダの手を取ると、跳ね橋のある中庭に向かって歩き出した。




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