11.正門 (1)

 少女を追って光の中へ躊躇うことなく足を踏み入れたイコは、そこで目にした光景に思わず足を止めた。
 それはずっと捜し求めていたもののはずなのに、そこにあることが信じられないというようにイコはそれを凝視した。
 火の灯されていない燭台が整然と並べられた石畳の先から。
 まるで何ひとつ逃しはしないと、全てを内に押し込めようとするような、周囲を囲み天高くそびえる城壁の、その先から。
 風が、吹きつけていた。
 それは巨大な門の向こうから、確かにもたらされていた。

 ――巨大な門の向こうには、外の世界が広がっていた。



 天高くそびえる城壁に相応しい巨大な門、これこそが霧の城の正門なのだろう。
 開け放たれた正門の向こうに見える、懐かしささえ覚える景色に胸の鼓動が徐々に速さを増してくる。傍らに佇む人も同じものを目にしているのだろうけれど、少年は声を上げずにはいられなかった。
「みて、門があいてる! そとに出られるよ!」
 しかし、それを喜んでいる暇はなかった。
 前触れなく鳴り響いた重苦しい音が、辺りの空気を震わせる。
 ふたりの目の前で外の景色が狭まり――今まさに正門が閉ざされようとしていた。
「いこう!」
 イコは咄嗟に少女の手を掴んで走り出した。
 そのほとんどが雑草に覆われた石畳の上を駆け抜ける。
 城から出たその先のことは何ひとつ考えていなかった。今は何よりもこの城から出て行くことが重要だった。
 ――帰るんだ。
 自分が居た世界に。たとえ、生まれ育った地に、大切な人たちのもとに戻ることはできなくても。
 ――行くんだ。
 霧の城の外に。広がる世界に。
 ――このひとと一緒に。
 手にした温もりを握り締める。
 門はすでに人ひとり分の隙間しか開いていない。
 ――あと少し、もう少し――
 狭まってゆく外の景色に、気持ちが逸る。
 跳ね橋のあった玄関への出入り口から巨大な正門までの道のりがひどく遠い。
 道程の半ばを過ぎ、ようやく正門が目前にまで迫ってきた時、
「……!」
 唐突に後ろに強く引かれ、手にした温もりがすり抜ける。
 それは少女がつまずき転んだためだった。
 門の動きは止まらない。この瞬間にも世界は隔離されようとしている。
 それでも少年は迷うことなく立ち止まり、少女を振り返った。
 正門が動き続ける音を背に受け、倒れ伏したままの少女に駆け寄ろうと足を踏み出したイコの目の前――少女の背後に。
 それは現れた。



 黒い稲光を撒き散らし、今まで目にしたどんなものより深く、濃い闇が巨大な球と化して少女の背後に出現した。
 次の瞬間、闇の球は形を崩し、漆黒のたゆたう深淵よりなお深い闇を纏った――あるいは従えた、と述べた方が正しいのだろうか――女性が現れる。
 漆黒に彩られる中で、不自然なまでに白い美貌がいっそう際立っている。
 しかし彼の人から感じるものは、まるで影を生み出す闇の深淵が現れた時のような――否、それ以上の圧迫感だった。少女に駆け寄ろうとしたイコの動きが止まる。
 イコの背後で門が閉ざされ、外と城とが切り離される。けれど、少年は振り返らなかった。
 目の前の存在から目を放すことはできなかった。
 少女を見つめる女性の唇が、ほんの僅かに弧を描いたように見えた。
「AHS ETK DIO YLD」
 突然虚空から現れた女性は、豊かなアルトの響きでイコの知らない言葉――少女が口にしたのと同じ異国の音を紡いだ。優しく、しかし拒否することを許さないその声音に、少女の肩が怯えたように微かに震える。
 それから女性は、凍てつくまなざしで角の生えた子どもを見遣った。
「おまえだね、わたしのかわいいヨルダを連れまわしているのは」
 余韻を持って響くアルトが綴る言葉に、少年の眉が僅かに顰められる。
 それは先ほどの異国の音と違い、少年が良く知る言葉だったけれど、言われている内容を理解することができなかったのだ。
 ただ、直感する。
 ――この、ひとは。
 漆黒を纏い、影を従え、闇を統べる。
 ――女王、だ――
 誰も居ないと言われていた霧のお城の主。あの影たちの主。
 そして、少女を閉じ込めていたひと。
 緊張に身体が強張る。激しくなる鼓動を収めようと深く息を吐こうとして、掠れたような吐息しか漏らせないことに気付いた。
 それでもなお立ち向かおうと、イコは手にした棒を強く握りなおし、ゆっくりと構える。
 しかし女王は少年の様子を歯牙にも掛けず、言葉を続けた。
「その娘が誰か、わかっているのかい?」
 そして次に発せられた言葉に、踏み出そうとした少年の足が止まった。
「おまえと一緒にいるのは、わたしのたったひとりの愛娘」
 女王に向けていた視線が、少女へと移る。
 ――なに、を、言って……?
 呆然とイコが見つめる先で、少女は石畳の上に膝をついたまま、力無くうなだれている。
「いずれはこの城を継ぐもの」
 ――しろを、つぐ?
 誰が。
 ……白い少女が。
 いずれ、霧の城の主となる存在だと。
 漆黒の闇を纏った女王は続ける。
 嘲弄と、哀れみの入り混じった言葉を紡ぐ。
「あたまにツノのはえたおまえとは、すむ世界がちがうのだ」
 その一言は、鋭い刃となって少年に突き刺さった。痛みを堪えるようにイコの表情が歪んだ。
 ――ツノがはえているから。
 それはイコにとって否定の言葉だった。
 ツノがあるから、異質なものだから、他のひとたちとは違うものだから。
 立ち竦む少年に、女王は傲然と言い放った。
「さあ、身のほどをわきまえて、ここから立ち去るがよい」
 響き渡る残酷な声の余韻が薄れゆくと共に、女王の姿は再び闇の球と変わり―― 一瞬の後、拡散するように、あるいは空間に溶け込むように消え失せた。あの漆黒の深淵が消えるのと同じように、何ひとつ痕跡を残すことなく。
 けれど、まるで残り香のように、女王が残した響きは完全に消え失せることなく漂い続け、纏わり付いてくる。
 しかし、それを振り切ってイコは駆け出した。
 真っ直ぐ、少女に向かって。
 うなだれたまま小さく肩を震わせる少女は、降り注ぐ陽光の中、今にも霞んで消えていってしまいそうに見えて、それが堪らなく怖かった。
「だいじょうぶ?」
 駆け寄り、俯いたままの少女の様子を窺おうと身を屈めたイコの耳に、少女の唇から吐息のように零れ落ちる言葉が届く。
「ON WTI ESRQ ATMS……」
 紡がれた異国の音を理解することはできない。
 ただ、少女がひどく怯え、恐れていることだけは感じられた。
 イコは何も言わず、少女に向かって手を差し伸べた。
 女王に投げつけられた言葉は、頭の中でずっと反芻している。
 檻に閉じ込められていたひと。
 影に怯えていたひと。
 温もりを与えてくれたひと。
 とても儚い光を纏う白い少女を、助けたいと思った。守ろうと決めた。
 ――ともに行きたいと願った。
 けれど、それは勘違いも甚だしい思い上がりなのだと、漆黒の女王が告げる。
 このひとは、あの女王の娘で、霧のお城の主となるひとで。
 ――ツノのはえたぼくとは違う……
 この城から逃げ出す理由などない少女がここまで一緒に来たのは、彼女の意思ではなく、ただ自分が勝手に連れまわしていただけなのだろうか、そう思うととても辛かった。
 けれど、少女が与えてくれた温もりも、微笑も、少年に向かって伸ばされた腕も、それはすべて本物だったから。
 イコは促すでもなく、手を差し伸べたまま静かに少女を待っていた。
 差し出された手に気付いた少女が、驚いたように少年を見上げる。
 ふたりの視線がほんの一瞬絡み合う。
 そして、少女の柔らかい手が少年の手にそっと添えられた。
 イコは少女の薄い瞳に映る自分の顔が泣き出そうだ、と思った。
 泣きたくなるくらい、嬉しかった。



 手を繋いだまま、少女がゆっくりと立ちあがる。
 すると突然、虚空から声が響き渡った。咄嗟に辺りを見渡しても目に映るものは城の中の風景だけだったけれど、確かにその声は聞こえてくる。
 忘れることなどできはしない、美しく、傲慢なアルトの響きが。
「EZN ARKW」
 闇の女王が少女に語りかける。
 諭すように、哀れむように、愛しむように。
「AHM IKSONTWE YDN ANK YRQ」
 イコにはわからない異国の響き。しかし、とても残酷なことを言われているように思った。
 少女の手に僅かに力が込められるのが感じられて、イコは少女を仰ぎ見た。
 虚空を見つめる少女の顔には、どこか寂し気な表情が浮かんでいた。
 ――だから、イコは繋いだ手を強く握り返した。
 手にした温もりが、またひとつ重みを増したような気がした。




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