9.シャンデリア (1)

 結局、円形の足場と通じている入り口から城へ入った。足場と入り口を繋ぐ小さな橋――というよりも間の溝に掛けられた橋板と言った風情だが――から足を踏み外さないよう気をつける。
「うわあ……」
 その部屋に入ったイコは、またもや感嘆のため息を吐くことになった。
 その部屋も、広大な霧の城にふさわしい大部屋だった。イコたちが入ってきた場所は吹き抜けの二階となっており、壁に沿って走る通路の他に、中央を縦断する長い橋が架かっている。橋の向こうにあるもうひとつの出入り口からは外の光が溢れている。通路と橋を囲む背の低い柵を越えた先は、遠い距離を隔てて一階の床が見える。その一階の床は中央部分が広範囲にわたって崩れ落ち、底の見えない奈落によって一階は分断されていた。
 ふたりが入ってきた側の出入り口のある壁を除き、その部屋には大きな窓が数多く設置されていた。向かいに見えるもうひとつの出入り口がある側の壁には、横壁にあるものより幾分小さめの窓が所狭しと並んでいる。それぞれの窓からは陽光がまんべんなく降り注ぎ、部屋中を明るく照らす。
 しかし、部屋を照らすものは陽の光のみではなかった。
 イコの耳に火のはぜる音が微かに届く。けれど周囲には松明が灯されている様子もなく、ふと、引かれるように上を見上げた少年は目を見張った。
 陽光の満ちる部屋の中にあってなお存在感を失わない輝きを放つ、見たこともないくらい巨大なシャンデリア。
 それが高い天井から吊るされていた。
「すごい……」
 半ば放心状態でシャンデリアを見上げていたイコが隣の少女に目を向けると、少女もイコと同じようにシャンデリアを見上げていた。
 これと言った感情の見えない茫洋とした表情からは、今目にしているものから何か感じるものがあるのか、それともただ少年の真似をしているだけのか判別できなかったけれど、
「すごいね、きれいだね!」
 目を輝かせて語りかけてくる少年に視線を向け、その楽しそうな表情をじっと見つめる。そして少女もふわりとした微笑を浮かべた。



 最初は中央を通ろうとしたものの、あとほんの十歩も行けば渡り終えるという所で、肝心の橋が崩れていた。イコですら飛び越えられない幅を持つ崩落の跡を、無理に越えようとする必要はなかった。引き返し、ふたりは手を繋いだまま壁沿いの通路を進んだ。
 そうして外への出入り口をくぐる。
 シャンデリアの部屋は充分明るかったけれど、それでも陽光の降り注ぐ外はとても眩しく感じられて、イコは目をすがめた。
 出た所はバルコニーになっていた。しかし目前の景色は引き上げられている跳ね橋によって遮られ、前方――跳ね橋が架かっている以外の場所も背の高い鉄柵が壁となっている。
 イコは左右を見渡し、バルコニーの右側、最奥の片隅に大きな箱が置かれていることに気が付いた。階段の現れた小部屋では部屋の仕掛けの要であり、広間では壁を乗り越えるための足場としたものと同じ木箱だった。
 どうにも意味あり気に置かれている箱に近付くと、まずは側面に付いた取っ手を引っ張って箱を動かしてみる。しかし、箱が元の位置から動いたことによって何らかの仕掛けが作動する気配はなかった。
 次に、この箱を足場にしてどこか別の道に行けないかと、もう一度周囲を見渡した。ぐるりと動かす視線が、頭上で止まる。すぐ傍らの壁の高い位置には小窓が並んでいるが、その内の一つから伸びるロープが、滑車を伝ってイコの頭上を横切り、鉄柵の向こうへ垂らされていた。
 ――あのロープを伝って行くとか、あれをどうにかするとなにかおきたりしないかな。
 そう考え、ロープに程近い柱と、そこから多少の距離を置いて立つ、バルコニーの奥の方にある柱を見比べる。
 ロープに近い柱は箱を足場にしても頂上まで届きそうにないが、奥の柱はそれより一段低くなっている。二本の柱の間の距離を目算し、何とか飛び越えられそうな距離だ、と判断した。
 柱を飛び伝って、ロープに掴まれるか試すために、まずは足場とする箱を動かそうと首を巡らし――
「……えーと、その箱動かしたいから、ちょっとだけ、どいて?」
 いくら少年が大人顔負けの力を持っているとは言え、かなりの重量を持つ箱を動かすには両手を使わなければいけない。となれば当然、箱を動かしている間は少女と繋いだ手は離されているわけで。
 少年が考え込んでいる間に、いつの間にか少女は箱の上に登り、ぼんやりと空を見上げていた。
 少女はイコの声に気付き、そちらに視線を向けたが、それだけだった。どこか不思議そうなまなざしで、困った表情を浮かべる少年を見つめる。
「上に乗ったままだと、あぶないし……」
 だから一度降りよう、とイコが手を差し伸べると、イコの言いたいことが分かったのか――あるいは差し出された手に呼ばれたと思ったのか――少女は箱を降りて少年の傍らに駆け寄った。
 ほっと息を吐くと、イコは早速、奥の柱のすぐ傍まで箱を動かした。箱の上に乗って思い切り跳ぶと、辛うじて柱の頂上に手が届いた。そのまま腕に力を込めて身体を持ち上げ、柱の上に立つ。柱の上はひと一人立つのがやっとと言える位の空間しかないため、ほとんど助走をつけることはできなかったが、できるだけ身体中のばねを使って、イコはもう一つの柱――ロープ間近の柱に向かって跳んだ。
 柱の上に華麗に着地することはできなかったが、それでも上半身だけでも柱の上に乗り上げることができた。飛び移る際に、腹部を強打したため僅かに咳き込みながら立ち上がり、柱の上に立ってなお自分より高い位置を走るロープを見やる。その眉間に微かに皺が刻まれた。思っていたよりも、ロープがずっと高い位置にあることが分かったためだ。
 この高さでは跳んでも掴まることはできそうにない。
 それならば、と、手にした棒を構えてイコはロープに向かって跳んだ。ロープに最も近付いた瞬間に思い切り棒を振り下ろす。
 しかし、木の棒は固く張られたロープに弾かれ、結果、できたことと言えばロープを揺らし、その振動で滑車から高い金属音を鳴らすことだけだった。
 その後何度か柱に登って同じことを繰り返してみたが、ロープに掴まることもできないし、何かが起こることはなかった。
 ――ここから他の所には行けそうにないや……
 鉄柵越しに辺りを見渡す。ここはお城の玄関らしく、色々な方向に走る通路や、どこへ通じているのか、たくさんの出入り口があった。本来なら、この場所からそれぞれの場所へと向かうのだろう。それから下方に広がる中庭に視線を落とす。どうやら眼下にある石造りの中庭は、シャンデリアの部屋の一階と通じているらしい。中庭を更に囲うようにしてそびえる回廊は、ふたりが出てきた入り口の真下から延びている様だった。
 部屋を真っ二つに引き裂く奈落――シャンデリアの部屋で目にした光景が少年の脳裏を掠めた。
 しかし、先に進むためにはあの奈落を越える方法を探すより他はないらしい。
 ――うん、まだ下がどういう風になっているのか確かめたわけじゃないし。
 だいじょうぶ、と自らを鼓舞するように胸の内で呟く。
 そして静かに周囲を見渡している少女の手を握り直し、白い繊手を軽く引いて注意を引く。
「行こう」
「……」
 少女が頷くのを確認して、イコはシャンデリアの部屋へと踵を返した。



 シャンデリアの部屋へ戻って来たイコは、ふと背後を振り返った。
 出入り口のすぐ上部に大きい窓と、出入り口をはさんで左右に小さめの――それでもイコの身の丈ほどもある――窓が五つずつ配置されている壁。
 イコは窓の近くに寄り、張り出した窓枠をまじまじと見つめた。
 思っていた以上に張り出している窓枠は、手掛かりどころか足場にもなりそうだった。
 ふむ、と小さく頷き上を見上げる。出入り口の左右にある窓の配置は、高い壁を目一杯活用するように、ふたつ、ひとつ、ふたつ、と三段に並べられている。窓枠の上下の間隔は、一つ下の窓枠の上に立って跳べば届くような距離にある。一番上の窓枠からなら、天井の骨組みにも手が届きそうだった。
 そのことを見て取ると、イコは迷わず手近な窓枠に手を掛けた。
「ぼく、ちょっと上のほうを見てくるよ。ここで待ってて」
 不安そうに見上げる少女に、太陽のような笑顔を見せて窓枠の上に身体を持ち上げた。
 上の窓枠の真下近くまで横這いに進む。足を踏み外さないように跳んで、上の窓枠を掴み身体を持ち上げる――その動作を更にもう二度繰り返し、イコは難なく天井の骨組みの上に辿り着いた。
 一度周囲に視線を巡らせるが、目に付くものと言ったら中央から吊り下げられている巨大なシャンデリアだけだった。
 ――もしかしたらあのシャンデリアに何か仕掛けがあるかも……
 自分でも考えすぎだとは思うが、この不思議な城は想像以上のことが起こる場所でもある。イコはシャンデリアを目指して骨組みを渡り始めた。吹きさらしのクレーンの上を進んだ時に比べれば、横殴りの風がない分遥かにましと言えるが、それでも足が竦んでしまいそうな高さであることに変わりはない。足を踏み外してしまわないよう、幅の狭い梁の上をゆっくりと進んだ。
 何度かふらつきつつ、中央にあるシャンデリアまで辿り着いた時には、両手が冷や汗でじっとりと湿っていた。
 ほう、と一度安堵のため息をついてから、たくさんの蝋燭によって煌々と輝くシャンデリアを仔細に見つめる。
「……大きい……」
 下から見上げていた時にも感じていたが、実際に目にすると思っていた以上――驚嘆の声が漏れてしまうほどそのシャンデリアは巨大だった。その上に、人ひとりどころか未だ成長途中の少年ならば十人乗せても余裕がありそうだった。
 イコはシャンデリアの上に乗ってみた。ガシャン、と音を立てて揺れたがそれだけだ。しっかりとした足場の感覚はシャンデリアの上というより、宙に吊るされた部屋にでもいるような気になってくる。
 シャンデリアを吊るす鎖の周囲をぐるりと巡るが目に付く仕掛けは見当たらなかった。
 ――うーん……このシャンデリア、動いたりしないのかな?
 この時、イコの脳裏をよぎったものは、螺旋階段がどこまでも続く塔――少女が閉じ込められていた檻だった。あの檻が下へ降りて行ったように、このシャンデリアも鎖が下がっていくようなことはないのだろうか、そう思ったのだ。もっとも、下に降りていったらどうなるか、ということまでは考えていなかったが。
 ――強く揺らしたら鎖が下り始めるとか。
 それは直感に近い思い付きだったのだけれど。
 イコは手にした棒をシャンデリアを吊るす鎖に叩きつけた。
 途端、がくん、とシャンデリアが動いた。
 それは棒で叩いたことによって鎖が下がり始めたから――ではなく、叩かれた衝撃に鎖がとうとう耐え切れなくなってしまったためだった。不吉な金属音が響いたと思った時には、天井に引き留める支えを失ったシャンデリアは重力に引かれるまま落下を始めていた。
「――!!」
 先刻まで確かにあった足元の感触が消え失せ、途端に天井が遠ざかって行く。
 下から上へと流れる景色に目を閉じることもできない。
 ――そんな、こんなとこで……でも。
 もう駄目だ、その言葉を思い浮かべようとした正にその時、轟音が響き、何かに衝突したような衝撃がイコを襲う。次の瞬間には世界が回った――と思った時にはイコは再び硬いものに叩きつけられていた。
「――っ!」
 身体に受けた衝撃に、一瞬息が止まり目の前が暗くなった。その中でかろうじて無事であった聴覚が、ずずっ、と何かがずり動くと、数拍置いて響く重々しい衝突音を捕らえた。
 ――……なに?
 数回瞬いて、ぼやける視界を調整する。未だ衝撃の残る身体を起こしたイコは、自分がどこにいるのかを知って目を見張った。
 そこは部屋の中央を走る橋の上だった。落下したシャンデリアは、まず橋の上に落ち――この時、一度シャンデリアに衝突したイコの身体はその衝撃に弾かれ、橋の上に投げ出されたのだろう――橋の上に留まりきれず、僅かに残骸だけを残し、再び橋の下へと落ちていったのだ。
 ――もし、橋の上じゃなくて橋の外に投げ出されていたら……
 下を覗き込むイコの額を冷たい汗が流れ落ちた。巨大なシャンデリアは奈落へ落ちることなく、辛うじて円形の足場側の床上に乗っかっていた。
 ――ツイてる、ってことかもしれないけど……
 壁沿いの通路を通って少年のもとへ急ぐ少女に、だいじょうぶだよ、と手を振りながら、イコは再び溜息を吐いた。
 ――格好悪い……




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