7.トロッコ2 (2)

「だいじょうぶ? けがとかしてない?」
 立ち上がった少女の顔を覗き込むようにして声をかける。
 言葉は通じなくても気持ちは伝わるのだろう。少女は優しい微笑を浮かべた。
 反対にイコは悲しそうにくしゃりと顔を歪めると、たまらず俯いてしまった。
「ごめん……」
 消え入りそうな声でそれだけ口にする。
 ――守ることができなくて、何度も危ない目にあわせてしまった。
 ――格好よく助けることもできなくて、何度も痛い思いをさせてしまった。
 落ち込む少年の頭を少女はゆっくりと優しく撫でる。
 その感触にイコが顔を上げると、そこには心配そうな少女の顔があった。
 ――どこか痛いの?
 そう問われているような気がした。
 優しさが心地よくて、涙腺が緩みそうになる。
 イコは強く目を瞑り、一度大きく深呼吸した。
 ぱちりと開かれた瞳には僅かに涙の残滓が残っていたが、イコは真っ直ぐな視線で少女を見つめ返し力強く頷いた。
「ぼくはだいじょうぶ――ありがとう」
 その少年の様子を見て、少女は嬉しそうに微笑んだ。

 少女が影に連れ去られ、引きずりこまれた影穴の現れた階段の踊り場には、下へ降りる梯子が掛かっていた。梯子の先にはレールの走る線路に付けられた小さな足場があった。見える限りでは線路はどこまでも続き、どうやらそこを伝って進むことができそうだった。
 しかし、イコは線路に下りる前に展望台にある物見台に登っていた。
 カンカン、とリズム良く梯子を登っていく少年の下で、少女もゆっくりと梯子を登っていた。
 イコは身振りも交えて下で待っているようにと伝えたのだが、伝わっていないのか待つ気がないのか、少女はイコの後を追うようにして梯子に手を掛けた。
 裸足であるためと、一段一段ゆっくり登っているせいで、少女はほとんど音を立てない。イコが少女も梯子を上っていることに気が付いたのは、自分が梯子を登りきり、物見台に辿り着いてからだった。
 物見台の上に立ち、下で待たせているはずの少女を気遣って、どうしているかな、と下の方を見遣ると、そこには梯子を登っている少女がいた。
「え……!?」
 ゆっくり、一段一段確実に登っているが、少女が持つ空気に溶けて消えてしまいそうな儚い雰囲気と相まって、どうしても心許なく感じてしまう。
 手を貸した方が良いのか、そもそもこういう場合の手助けはどうすればよいのか、手を差し伸べるのか、けれどそれでは逆に危ない気もする。
 そんな考えが頭の中でぐるぐる回り狼狽している少年を他所に、やがて少女は梯子の一番上の手すりに手を掛けた。それを見て、梯子の前にいたイコは慌てて少女のための場所を空けた。
 やはり静かに物見台の上に立つ少女に、イコは思わず、
「待ってて、って言ったのに……危ないじゃないか……」
 困惑気味に、呟くような声が漏れる。
 しかし実際はまったくもって平気な様子でかなりの高さの梯子を登って来れたのだから、イコは自分が少女に対して多少なりとも思い違いをしていたのだろうか、と何となく思った。
 そんなイコを覗き込むようにして少女は小さく首を傾げた。
 イコは苦笑を浮かべて、なんでもない、と首を振ると物見台から一望できる景色を指差した。
「一度、ちゃんと見ておきたかったんだ。ぼくたちが今いる、霧のお城」
 そう言って、周りの景色に視線を巡らせる。
 どこを見渡しても、城は視界いっぱいに広がっていた。
 ――なんて広いんだろう……
 思わず感嘆のため息さえ漏らしてしまう。
 ここはイコが今まで見てきたどんな建物、どんな場所よりも広くて、立派で――まるで出口のない迷宮にいるようで。
 本当にこのお城から出られるのだろうか――頭の隅であるいは心の奥底で、ずっと蠢き続けていた不安が、目の前の景色によっていっそう鮮明な形を持って少年に圧しかかってくる。
 城の遥か遠方には、白く霞む山や、森や、海が、そして空が広がっている。しかし、確固たる存在としてそこにあるはずの数々のものたちは今や、ともすれば霧のヴェールに隠されてその姿を消してしまいそうな程、儚くおぼろげな存在に変わっていた。
 でも、とイコは強く思う。
 ――それでもここは……霧のお城は無限に広がっているわけじゃないんだ。
 霧が世界を隔てている。こちら側と、向こう側と。
 けれどそれは同時に境目があるということ。終わり――果てがあるということ。
 ならばそこまで行けばいい。
 ならばそこを越えていけばいい。
 傍らの人を見上げ、その人の手と自分の手を重ね合わせた。
 確かに握り返される温もりに、祈るように、願うように、ただ強く想う。
 ――いっしょにいこう。
 外の景色を眺める少女の横顔は、なぜかとても哀しそうに見えた。



 決意も新たに、物見台から降りて、展望台の階段下――小さな踊り場にある梯子も降りて、二人は線路の上に立っていた。
 左右に長く伸びる線路は、先に進むにつれて霧で霞んで見えなくなってしまう。
 イコはしばし悩んだ後、少女の手を引いて左に進んだ。別に、何か特別の考えがあったわけではなく、まったくの当てずっぽうだ。
 足を踏み外さないよう、慎重に歩みを進める。
 しばらく進むと、線路の脇に再び足場が設置されているのが見えた。更にその先は線路が途切れてレールが上へと持ち上げられ、行き止まりになっており、そこにトロッコが放置されていた。
 念のため少女を足場に避難させ、イコは小走りにトロッコに向かった。
 長い間雨風に晒されていたと思しきトロッコは、傍目にもかなり傷んでいた。少年はよじ登るようにしてトロッコに上がると、前方に取り付けられたレバーに手をかけた。
 手すりも何もなく、幅の狭い線路の上を行くのにトロッコは都合がいい。
 こちら側が行き止まりならば、反対側に進めばきっと道がある――少年は半ば確信に近い思いを抱いていた。
 ――動け!
 祈る、というより念じる気持ちでレバーを力いっぱい引いた。
 錆び付いているせいだろう、最初はまったく動く気配のなかったレバーは、すぐに少年の力に耐え切れなくなり、あっさり下がった。
 ガタンッ、と音を立ててトロッコがゆっくり動き出した。
 ――後ろに向かって。
「わあああ!?」
 イコは慌ててレバーを元に戻した。レールと車輪の摩擦で甲高い音を上げながら、トロッコが急停車する。いくら、これ以上先に進めないよう、レールが上に上げられているとはいえ、奈落に向かって突き進んでいくのは良い気がしない。
 少年はほっと息をついて、今度はゆっくりレバーを前に押し倒した。トロッコは今度は前方に動き始める。レバーの傾きとトロッコの速度は連動しているらしく、レバーを前に倒していくにつれて少しずつ速度が上がっていった。
 トロッコが少女を待たせていた足場の近くまで来ると、イコは一旦トロッコを止めて少女を呼んだ。駆け寄ってきた少女に手を差し出し、トロッコの上に引き上げる。
「揺れるから、しっかり掴まってて」
 そう言って、少女の手を自分の肩の上に乗せ、レバーに両手を掛けた。少女の手に力が籠もるのを確認してからレバーを前に倒す。トロッコは再びゆっくりと動き始めた。
 前から後ろへ、周囲の景色や霧の流れていく速さが徐々に上がる。
「うわぁ……」
 自分以外の力で動くという、あまり体験できない――霧のお城に来てからはそういうわけでもなかったが、それでも普段ありえない速さでの移動という出来事に、少年の目が興奮気味に輝いた。
 しかし、その輝きもすぐ驚愕に彩られる。
 距離が離れていると、霧で霞んで様子を見て取ることはできない。かなり近付いて、ようやくどうなっているかがわかるわけだが。
 輪郭をはっきりさせてゆく視界の先――
 前方に、線路がなかった。
「ええっ!?」
 叫びとと共に、勢いよくレバーを手前に引き戻す。突然の急停車にトロッコは大きく揺れて、堪らず少女が尻餅をついてしまった。
「ごめん! 怪我とかしてない?」
 振り返り、心配そうに顔を覗き込んでくる少年に微笑を返し、少女は静かに立ち上がった。その様子にほっと安堵の息を漏らして、イコはトロッコの上から恐る恐る前方を覗き込んだ。
「……なんだ……」
 すぐに拍子抜けの声が出た。途切れていると思った線路は、単に直角に近い角度で曲がっていただけだった。
「まあ、でも、速すぎて曲がりきれなかったかもしれないし……」
 言い訳じみた呟きをこぼしつつ、あまり速度が出ないように浅い角度でレバーを前に倒す。
 ふたりを乗せたトロッコはゆっくりと進んでいった。
 やがて終着点が見えた。
 前方が城壁で塞がれている。
 イコは、トロッコが揺れないよう少しずつ速度を落とすと、できる限り静かに停車させた。
 トロッコはこれ以上進めることはできないが、右側の壁はあまり高くない。線路の上からだと、跳んでも手が届かなかったかもしれないが、トロッコを足場にできる分高さは縮められている。これならば壁の上に手が届きそうだった。
 最初に左に向かったのは当てずっぽうだったが、それが道順としては正しかったようだ。
 イコは跳び上がり壁をよじ登った。
 城壁を登るとすぐ傍らにあのソファが白く輝いていた。前方には、背の低い壁――あるいは高さのある階段が数段続き、その先に通路が延びている。
 そこまで確認してから、イコはトロッコの上で待つ少女に手を差し伸べて上へ引き上げた。




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