7.トロッコ2 (1)

 強い日差しが濃い陰影を生み出している。
 広間から出るとそこは城の外部に通じており、すぐ目の前は城壁だった。横手には城壁に沿うようにして階段が更に上へと伸びていた。轟々と唸る風の音を聞きながらふたりは階段を上っていった。
 上を見上げれば吸い込まれそうな青い空が広がっている。
 けれど周囲に目をやれば、城から離れるほどに白く霞む景色。
 少女の手を引いてゆっくり城壁の階段を上りながら、イコは、ここは霧のお城なのだ、と改めて強く思った。
 この城の中で見上げる空は、村で、森で見ていた空と同じで、けれど全然違う。
 霧の彼方に霞んで見える景色は、まるでとても遠くて懐かしい異国の風景のようで――そう思うと、ふいに目頭が熱くなった。
 その時、手が引かれてイコは自分が階段の途中で足を止めていることに気が付いた。
 慌てて目元を拭い、再び足を動かし始める。
 少女を先導する形で前に立ち、階段を上っていく。少女が見つめてくるのを感じたけれど、その視線を見つめ返すことができなくて顔は正面に向けたままだ。
 階段には手すりなどもちろん付いていない。左手側には城壁があるが、反対の右手側にあるのはただ空気の壁のみ。階段の幅を越えることは空中に身を投げ出すことと同じ意味になってしまう。好奇心から足を止めて、身を乗り出して恐る恐る下を覗き込めば、城の下方に広がる大地でさえ霞んで見えた。
 ふと、隣に気配を感じて視線を向けると、少女が少年を真似て身を乗り出そうとしているところだった。
「あ、あぶないよっ!」
 ぎょっとして慌てて少女を壁側に押しやった。思わず力いっぱい引っ張ってしまった反動で、イコの身体が城壁とは反対側にぐらり、と傾いだ。一歩、二歩、とたたらを踏んで、かかとが宙に浮く。そこにはもちろん、手をついて体勢を立ち直らせることができるようなものはない。
「うわわ……!」
 階段の縁で必死にバランスを取ろうとするが、間の悪いことにそこに一陣の風が吹き込んだ。思いの外強い風にイコは反射的に目を細め動きが止まり、かろうじて保たれていたバランスが崩れてしまった。
 イコの身体が空中に投げ出される。
「わあっ!?」
「……!」
 少年の叫び声と少女の悲鳴が重なる。
 イコはとっさに手を伸ばし、その手がかろうじて階段の縁を掴んだ。肩と腕に掛かる衝撃に顔をしかめる。
 風に揺られる足がなんとも心許ない。地面が遥か下方にあることを思うと、じんわりと冷や汗が滲んだ。
 両腕に力を込める。目線が徐々に上がってきて、やがて不安そうな少女の姿を認めると、不思議と力が湧いてくるような気がした。
 一気に身体を持ち上げて、そのまま階段の上に身を投げ出すようにして上りきる。荒い息を吐きながらうつ伏せのままの身体を持ち上げると、顔を伝ってぽたぽたと汗が流れ落ちた。
 そこに、影がさす。影の正体が何か、確かめるまでもない。
 イコは寄り添ってきた少女にばつの悪い顔を見せ、
「つ、つまりこんな風に落ちちゃうから危ないんだよ!」
 それだけ言って、勢いよく立ち上がると汗で濡れた手を服の端で乱暴に拭い、その手を少女に向かって差し出した。顔は背けているが、頭に巻いた布と髪の毛の間から僅かに見える耳は赤く染まっている。
 その様子を見ていた少女は、柔らかな微笑を浮かべると差し出された手を取った。

 ふたりは城壁に手をつきながらゆっくり階段を上って行った。
 階段は長くは続かなかった。程なくして上へと向けていた視界がひらけてゆく。階段の終着点では城壁も途切れていた。
 周囲を見渡すことができるその場所は展望台になっていた。そこの一角には梯子の備え付けられた物見台も設けられている。
「うわあ……」
 展望台に足を踏み入れたイコから、周囲に広がる景色に感嘆ともため息ともつかない声が上がった。視界いっぱいに広がる霧の城。そのあまりの広大さに眩暈を起こしそうな気さえする。
 周囲は鉄柵と石の手すりに囲まれ、イコたちが上ってきた階段の向かい側に下へと降りる階段があった。左手側、奥の方の展望台の隅も、手すりや鉄柵が途切れているから同じように下へと続く階段があるのだろう。
 危険なものはなさそうだと判断して、少女の手を引いた。イコに手を引かれて少女も展望台に足を踏み入れる。
 その瞬間、風が止んだ。
 音が消える。
 空気が濃度をまして少年に重く纏わりつき――
 少年の眼差しが、より真剣みを帯びたものに変わる。
 守りたい、と内から湧き上がる思いのままにイコは手にした棒をゆっくりと構えた。
 つないだ手に力が籠る。
 少年と少女は互いの手を強く握りなおした。



 イコは少女の手を引いて物見台の下に駆け寄った。広間の時のように、大きな影が複数現れた場合に備え、背後を取られないよう物見台の壁を背にする。
 展望台の上にはあの漆黒の影穴は見当たらない。しかし少年の目は、展望台を物見台の下まで駆け抜けた時、向かいにあった下りの階段の先で揺らめき沸き立つ闇を確かに捉えていた。
 それに、死角となって見えないもう一方の階段の先も気になる。
 物見台はちょうど展望台の真ん中の部分にあった。階段はふたりが上ってきたものを覗けば、それぞれ右と左の端に一ヶ所ずつ。
 ――右か、それとも左か。
 慎重に棒を構え、左右に目を走らせる。
 ――来た!
 右の階段から大きな影が上ってくる。それだけではなく、左の階段からも。
 明るく輝く陽光の下で、漆黒の影は霞むこともなく、むしろいっそう濃度をましてその姿を見せた。まっさらなシーツに墨を落としたような違和感と存在感は、決して周囲の景色と溶け込むことはなく、けれどその存在が周囲を取り込んでいる。
 影たちが現れた瞬間、異質なものが現れたはずのその場所は影たちが居て当然の空間と化していた。
 唐突に理解する。
 ――彼らはどこにでも現れる。
 瞬時に納得する。
 ――ぼくたちを……彼女を逃がしたりはしない。
 それでも、とイコは影たちに立ち向かう。
 ――それでもぼくはあのひとと共にいきたいんだ。

 大きく棒を振るい、一度に複数隊を相手にすることが無いよう牽制し、相手の隙を窺う。これまでの僅かな間に、イコは確実に戦い方を習得しつつあった。
 イコが棒を振るう度、影たちは飛び退り、あるいは己自身の影を撒き散らした。しかし何度打ち倒されようと影たちは執拗に少女を狙い続ける。
 いくら慣れてきても一度に複数を相手にすることは難しい。無理に振るった一撃でイコの体勢は崩れてしまい、繋いでいた手が離れてしまう。
 その時、大きな羽ばたきの音が聞こえ、頭上が翳った。それが意味することはわからなかったが、急速に不安が膨らんでいき、
「……!」
 少女の悲鳴に慌てて振り向くと、揺らめく漆黒の翼を背に持つ影が少女を捕らえていた。
 そして影は少女を抱え上げ、翼を羽ばたかせて宙に浮く。イコの手が届かない高さまで舞い上がり、左の階段に向かって飛び去って行く。
 少女が遠ざかって行く。
「――っ!」
 咄嗟に名を呼ぼうとして、呼びかける言葉を持たない事実に顔が歪む。今更ながらに自分は少女の名前すら知らないのだと思い知らされ、形にできない想いを無理やり飲み込むと、イコは少女を追いかけた。しかし、行く手を阻もうとする他の影たちに邪魔されている間に、少女と、少女を連れ去った影は階段の下へ姿を消してしまった。
 イコのいる位置からでは、階段を下った先がどうなっているのか見えないが、少女を連れて行ったということはあの闇を湛えた穴があるはずだった。ということは少なくともそこには地面があるということになる。
 ――だったら!
 イコは展望台を駆け抜け、少女と影が姿を消した、下へと続く階段がある側の手すりに向かった。そして一瞬の躊躇も見せず手すりに足をかけた。
 あの穴があるならば展望台からは死角になっているだけで、下には地面――広場なり広い足場なりがあると考えたのだ。それならば階段を下りたりせず、一気に飛び降りる、そう考えての行動だったのだが。
「わ、わ、うわあ!!」
 今にも足を蹴って飛び出そうとする身体を無理やり押し止める。飛び出すことは堪えたが、手すりの向こう側へ身体が落ちていくことまでは止められない。何とか手すりを掴んでぶら下がった状態になる。
 手すりの――展望台の下は吹き抜けになっていた。かろうじて離れた位置にレールの引かれた線路が見えたが、飛びつけるような距離にはない。
 自分の軽率な行動を悔やみながら首をめぐらせると階段の先には小さな踊場があり、そこに例の穴があるのを見つけた。その暗い影の中で、今や顔まで沈みつつある少女の姿に、イコは唇を強く噛んで両腕に力を込める。
 少女が沈んでいく。早く行かなければ手遅れになってしまう。
 ――早く、早く、早く。
 焦燥感に胸を掻きむしる思いで身体を手すりの上に持ち上げ、展望台に倒れ込んだ。酸素を欲しがる身体を叱咤して、近付いてくる影たちには目もくれず少女のもとへ急ぐ。
 それこそ飛び降りる勢いで階段を駆け下りると、今にも闇に飲み込まれそうになっている白い繊手だけが見えた。
「――っ!!」
 言葉にできない叫びを上げる。
 苦しい。痛い。
 ――どこが?
 身体ではなく、心ではなく、魂が。引き裂かれてしまいそうで。
 ――やめて、その人を連れて行かないで。
 止まらない。沈んでいく。白い光が闇に覆われ見えなくなって――
「待って!」
 すがりつくようにして少女の手を掴んだ。
 掴んだ腕に掛かる負荷は広間のあった大部屋の時以上だった。
 それでも。
 ――間に合った……
 手の中の温もりに涙が浮かびそうになった。

 少女を引き上げた後、イコは再び壁を背にして影たちを迎え撃った。複数で襲い来る影たち、特に空を飛ぶ影はやっかいで、背後だけではなく上空にも気を配っていたが、それから何度も少女を連れ去られてしまいそうになった。しかし、少女を抱えて飛び上がるためその一瞬が無防備になる。その瞬間を狙ってまだ棒が届く範囲の内に影に棒を叩きつけると、影はその一撃に少女を取り落とした。
 そうして展望台に落とされた少女の手を引き、再び影たちから距離を取り、棒を振るい――
 そんなことを幾度繰り返しただろうか。
 気が付いた時には、影たちも闇の沸き立つ穴もすべて消え去り、吹きすさぶ風の音が聞こえていた。




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