6.トロッコ 1(2)
広間の床に向かって飛び降りるイコの目の端に黒い揺らめきがちらつく。
背後から迫る圧迫感に振り返ることなく、少年はこちらに向かっているはずの少女を目指して走った。
――あいつらに追いつかれる前に――!
まるで水の中を進むようなもどかしさだった。広間を分断するアーチ状に並ぶ柱が陰になって少女の姿を見ることができない。見えないからこそ、早く、早くと気持ちばかりが急いてしまう。
その時、一番聞きたくない音が響いた。
「――っ!」
少女の叫び声。
そして、影に連れて行かれる白い光。
――そんな、いつの間に!?
しかしそれは追い越されたから、というわけではなかった。
瞠目する少年は確かに見た。
前方、影が少女を連れて行く先にある、もうひとつの沸き立つ闇を。
――ふたつ……!?
そう、確かにあの漆黒の闇を孕み影を生み出す穴が、ひとつしか現れないと決まっていたわけではない。単に、今までひとつしか現れなかったというだけなのだ。
認識の甘さに唇を強く噛んだ。鉄臭い味が口の中に広がる。
影が少女を抱えたまま、暗い穴へと身を沈める。少女の身体も少しずつ闇の中へ沈んで行く。白い光が徐々に飲み込まれてゆく。
それでも。
少女はイコを見つめていた。白い繊手が少年に向かって伸ばされる。
イコも少女を見つめていた。言葉を返す代わりに、頷きを返す代わりにただ走る。
――すぐに行くから。いますぐ行くから。
その思いを瞳に込めて、影ではなく少女を見つめる。
目前に別の影が立ち塞がり、丸太のような腕を振るった。しかしイコは恐れも見せず、黒い巨人の振り上げた腕を身体を沈めてかわすと、ただひたすらに少女を目指した。
少女はすでに肩口まで沈んでいた。イコは飛びつくようにして精一杯腕を伸ばした。少女も下がりかけていた腕を必死の面持ちでわずかに持ち上げる。
少年の手が少女の手を掴む。少女は少年の手を強く握り返した。
古い橋で落ちかけた少女を助けようとした時以上の負荷が掛かる。まるで深い泥沼から引き上げているような重みがあった。少女を飲み込む闇が、少女を捕らえて離そうとしない、そう感じられた。
けれど角の生えた少年の目一杯の力は、確実に、少しずつ少女の身体を引き上げていた。
――あと、もう少し……!
ずるり、と音がしそうな手ごたえと共に先ほどまでの重い抵抗がなくなり――
横殴りの衝撃がイコを襲った。
先ほどかわした影なのか、それとも追いついてきた影なのか。薄暗くぼやけた視界に映る影が幾重にも揺らめいて見えるのは、目の錯覚だろうか、それともそれだけの影がいるということなのだろうか。
身体が床に叩きつけられる。不思議と痛みは感じない。
――あの、ひとは。
揺らめく影の一つが向かってくる。
立ち上がり、棒を構える。
まだ世界は薄暗い。歪む、揺れる、その中で。
――いた!
褪せることのない白い光を見つけ、イコの視界が一気に晴れた。
目前まで迫った影を手にした棒で思い切り振り払い、影が数歩後退した隙を見計らってそのすぐ脇を駆け抜けた。
再び少女に黒い腕が伸ばされている。けれどその腕が届くよりも早く、少年は少女の手を引き寄せた。しかし、壁と影たちに遮られて逃げ場はない。幸いにもすぐ足元の穴は、引きずり込まれない限り、沈んだり落ちたりするようなものではないらしかった。
二人を囲むようにして影たちは徐々に距離を狭めてくる。
イコより遥かに大きな体格の影たちを前に、しかし少年は臆することなく――
そして少女を守り抜いた。
瞳を開けると、少女の白い面が真っ先に飛び込んできた。
少女はそのきれいな瞳で、ただ静かに、じっとイコを見つめている。
少女の長いまつげが今にも触れてしまいそうなそんな距離。
「え、あ、うえ!?」
間抜けな声しか出てこない。イコは頬が熱くなるのを感じた。今の自分はきっと真っ赤になっているに違いない、と確信する。
しばらく魚みたいに口を何度もぱくぱくと開閉して、
「お、おはよう」
その言葉で果たして正しいものか、そんなことはもちろんわかるはずもなく。
照れ隠しに浮かべた笑みに少女は薄っすらと目を細め、頬をなでるそよ風のような優しい微笑を浮かべた。
誰かを――何かを倒す、ということはとても大変なことで、それは何も肉体的なことに限ったものではない。
すべての影が塵と化し、暗影を生み出す穴が煙と消えた時、少年は心身ともに疲労困憊した状態だった。
自分が相対しているものが、少なくとも敵だと言うことがわかっていても、それでも。
一人――あるいは一体倒して行く度に、イコは何か重いものが自分にのしかかってくるように感じた。
ほう、と一度だけ大きく息を吐いた。
ふらふらとして足取りもおぼしい状態で、それでは先に進もうにも進めない。
ほんの少しだけ休憩を取るつもりで、広間の片隅に置かれたソファに向かった。
一人で近づいた時と異なり、今度はソファが白光を放ち始めた。
――これって、やっぱり……
すぐ傍らの少女を見上げる。少女の様子にやはり変化はなく、少年の視線に気が付いた少女は小さく首を傾げた。
なんでもない、と少年は頭を振って、二人はソファに身を沈めた。
記憶を預けるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
夢うつつに思う。
あの石像に向かって放たれる光と、今と。少女を鍵として、城の一番大切な部分が動く、作動する。そんな風に思えてならない。そしてそれはきっと正しくて――だから影たちに狙われているのだろうか。
けれどならばあの影は? どうして、どこから……?
少しずつ思考は蕩けだし、曖昧になっていく。意識が沈んで行き――
最後に脳裏に浮かんだのは、瞬く炎の煌き。
そして現在に至る。
「ご、ごめん、すっかり寝入っちゃったんだね、ぼく」
顔を赤く染めたまま勢い良く立ち上がると、意味もなく腰の辺りをぱたぱた叩く。
疲れはすっかり取れていた。
静かに立ち上がった少女に手を差し出す。
やわらかな手がそっと添えられた。
予想していたことだったが、少女に鎖を登るということはできなかった。しかし新たな出入り口がある空間へ辿り着くためには壁を越えなければならない。上から手を伸ばしたところで、手が届く高さでもない。
――でも、届かないなら届くようにすればいいんだ。
再び鎖を登って飛び移ったイコは、中二階に置かれた大きな木箱を下の広間に向かって力いっぱい押し始めた。動かせることは先ほどの階段の現れた小部屋で実証済みだ。ずずっ、と重い音を響かせた木箱は、地面がなくなると重力にしたがって下に向かって落ちていった。
どんっ、と大きな音が響き埃が舞い上がる。
そして、木箱ひとつ分、高さが縮められる。
イコは精一杯身を乗り出して少女を呼んだ。少女は少しためらいを見せた後、木箱に手を掛け上に登った。少年に向かって腕を伸ばし、けれどわずかの距離で手は触れ合わない。
少女がイコに向かって跳んだ。スカートとケープの裾がふわりと広がる。
互いの手が互いを掴んだ。その手を決して離すことなく、イコは少女を力強く引き上げた。
息を整え、少女が立ち上がるのを待ち。
ふたりは広間を後にした。