6.トロッコ 1(1)
先ほどの狭い小部屋と正反対の、実に広大な広間のある大部屋だった。部屋を照らすため、いくつもの松明がたかれている。
イコたちが立つのは、その大部屋を見渡せる高い位置にある通路。正面には固く閉ざされた扉がある。その先はおそらく広間へ通じているのだろう。しかし、少年が精一杯の力をこめて押しても扉は動く気配すらなく、近隣を見やっても扉を開くための仕掛けすら見当たらない。
入って左側は背の高い鉄柵が嵌められており、向こう側は絶壁となっている。例え鉄柵を越えることができたとしても、その先に道はない。
反対に右側は、低い位置に手すりが設置されているだけだ。飛び越えようとしてできないことはないだろう。
この高さでなければ。
手すりの幅、たったそれだけの距離の向こうに広間が広がっている。ただし、広間の床は遥か下――少女はもとより、イコですら躊躇する高さによって隔てられている。
――でも。
少年は目前に広がる光景を、前を見据える。
二人が居る場所の向かい側――と言ってもかなりの距離が開いているが――は、壁が天井に至る前に途切れ、小さな空間を作り出していた。中二階とも言えるその空間には外から差し込む光に白く染まった出入り口があった。付近には、先ほどの階段の現れた小部屋にもあった大きな木箱が置かれている。床からかなり高い位置にあるその空間の手前には長い鎖が垂れ下がっていた。
――道は続いてる。存在してる。無くても、無いなら作る。
そうして、前に進むのだと決めたのだから。
ちょうど、目に付いていた場所があった。
入ってきた入り口のすぐ傍。そこにある手すりは崩れてなくなっていた。崩れた手すりのすぐ真下には、木箱が積み上げられている。
それは、ほんの僅かの差でしかないのかもしれないけれど。
――でも、この高さなら。
きっとだいじょうぶ、そう、胸の奥で呟く。
しかし、緊張に手は汗ばむ。身体が強張るのを感じる。
その時、汗ばんだ手を強く握る柔らかな感触があった。
はっとして少年が振り向くと、少女がじっと自分を見つめていることに気が付いた。微かに不安の色で翳った瞳にも。
イコは一度、大きく深呼吸をして、
「……だいじょうぶ、このくらいへっちゃらだよ」
我ながら強がりだ、とは思ったが、それでも笑みを浮かべることができた。それから、繋がれていた手をゆっくりと外す。少女を安心させるように、もう一度笑ってみせる。
そして手すりの崩れた跡に立った。
ごくり、とつばを飲み込む音がやけに大きく響いた気がした。
最初に感じたのは浮遊感。
「……っ」
一瞬、呼吸が止まった。
ドスンッ、と鈍い音が響く。
浮遊感を感じた、と思った瞬間、イコの身体は木箱に叩きつけられていた。
目は開かれているはずなのに辺りは真っ暗で――否、ちかちかと星が瞬く夜空の中に居るようだった。
――これが、『星が見える』ってやつなのかなぁ……
くらくらする頭の片隅でそんな暢気なことを思う。
頭を振って、見えない目を何度かしばたくと、ようやく少年が居る世界が姿を見せ始めた。
まず真っ先に上を見上げる。自分を見つめる少女を確認して、ほっと息を吐いた。
「おーい!」
無事だよ、と知らせるつもりで手を振ると、少女は驚いたような表情をみせて後ずさった。少女の姿が視界から消える。何だろう、と訝しげな表情でいると、ややあって、
「…………!!」
イコの耳には「イヤ!!」と言っているように聞こえた。
「……」
――もしかして、こっちにおいでって呼んでると思われたのかな……?
そう、思い至ってちょっと傷つく。
所在無げな手を思わず見つめた。
――意思の疎通って難しい。
少年は苦笑を浮かべた。もっとも、どこかそれを楽しく思う気持ちもあったのだけれど。
何はともあれ、と気持ちを周囲に向ける。慎重に積み上げられた木箱から降りて広間を見渡した。
本当に広い。天井もとても高い。
まずは広間を走り回ってみた。この城の作りは、どうやら開かない扉がある場合、付近に開くための仕掛けがあるらしい、とおぼろげながらに理解していた。
全力で走っても、中々広間の端まで辿り着かない。途中、多少の段差を駆け上がり、柱がアーチ状に並ぶ下をくぐって、ようやく二人がいた場所からは見えなかった扉の向こう側部分に至った。そこはやっぱりがらんとしていて、扉に通じる階段と――
あのソファがあった。
けれど、あの、古い橋の手前にあったソファのような白い光が見られない。
不思議に思ったが、今はそれどころではないことを思い出し、周囲に視線を走らせる。
扉を開くための仕掛けを探すが、目に付く範囲にそれらしい仕掛けは見当たらなかった。
そんな、と微かに顔が歪んだ。徐々に焦燥感が募ってゆく。
広間中を走り回り、道を繋げるための仕掛けを探す。
――みつからない……
がらん、とした広間で目に付くものは、ソファと松明と、積み上げられた木箱――
「……あっ!」
――そうだ、もうひとつ、天井からぶら下がった一本の鎖が。
イコは鎖の下に向かって駆け出した。
――あー、もう、なんでこんな無駄に広いんだよ。
急いた気持ちと、身体の動き――周囲の流れていく速さが少しも合わさらない。傍から見れば鳥が飛ぶような速さなのだが、少年はそれに気付いていなかった。
ようやく、そんな思いで辿り着いた視線の先には、高い位置で揺れる鎖の先っぽがあった。
少女に出会う前の、薄暗い倉庫のことを思い出す。
――あの時と同じようにやればいいんだ。
うん、と小さく頷いて、少年は鎖に飛びつた。
ガシャン。
広大な広間に、鎖の鳴らす音が響く。
大きく揺れる鎖から振り落とされないようにしっかりと掴まる。揺れが収まってきたところで、手に持つ棒をものともせず、イコはするすると上に登った。
やがてもうひとつの空間が目の高さまで下がってくる。少年はそこでようやく見つけることができた。
「あった……」
安堵で思わず手が緩みそうになる。
上の通路に居たときは、ちょうど柱が邪魔になって見えなかったのだ。
これまで何度か目にした、仕掛けを動かすためのレバー。
それは目の前の、出入り口のために造られたのだろうとしか思えない中二階のような位置にある空間の壁に設置されていた。
慎重に身体を揺らし、鎖を揺らす。鎖の揺れが大きくなったところで、タイミングを見計らって目前の床に向かって跳んだ。ついた勢いそのままにレバーに駆け寄ると、それこそ飛び付くようにしてレバーに手を伸ばす。
そして力を込めてレバーを動かした。
レバーはあっさりと動き。
――ガタンッ!
遠くで響く何かが動いた音。
期待を込めて振り返った少年はそこに期待通りのもの――開いた扉と、そこをくぐり抜けて階段を下り始めた白い影を見た。
――よかった……
満足げな笑みを浮かべて、少女を迎えようと一歩を踏み出す。
途端――
どくん、と大きく鼓動を打つ心臓。
頭ではなく、身体が、心が、魂が感じる、その異変。
世界から、音が消えた。