たとえばそんな織姫
「遅い!」
人差し指を突きつけきっぱりと断言されて、睦月は言いかけた言葉を飲み込んで首をすくめた。
一方、まなじりを吊り上げたスミレは未だに怒りが収まらないようで、両手を腰に当て、本格的に説教を始める体勢を取り始めた。
「大体、待ち合わせの時間を決めたのは睦月君でしょう! なのに、何でその本人が遅れるのっ! そもそも遅れて来たのに謝りもしないで!」
別に、意図的に謝っていないのではなく、謝る前に怒られてしまったので謝るタイミングを逃してしまっただけなのだが、睦月は賢明にもそのことには触れず、素直に目の前の少女に向かって頭を下げた。
「遅くなってごめん」
「わかれば良し」
ちゃんと非を認めて謝る相手にいつまでも怒り続けるようなスミレではない。怒り出した勢いを考えれば驚くほどあっさり機嫌を直して、改めてまじまじと睦月を見つめ直す。それから満足そうにひとつ頷き、
「うん、似合ってるじゃない、その浴衣。それにちゃんと着れてるわね」
「スミレちゃんの指導のおかげです」
「当然よ!」
神妙にかしこまる睦月に、スミレは得意げに胸を張って見せた。
かくいうスミレも朝顔柄の浴衣を纏い、髪に合わせた薄紅色の帯を締めている。長い桃色の髪は三つ編みにして垂らしていた。
「スミレちゃんもよく似合ってるよ」
にこにこと笑顔のまま素直に感想を述べれば、
「――当然よ!」
先ほどと同じような言葉を返されたけれど、その顔がほんのり赤く染まっていることに睦月はちゃんと気付いていた。
スミレはくるりと踵を返すと、遥か前方に向けてビシッと指を突きつけた。その先にあるものは、周囲の建物に埋もれることなく存在感を醸し出している笹らしき――『笹』だと断言するにはあまりにも大きい気がする――物体。
「じゃあ、早く向かうわよ!」
掛け声に応えるように、スミレの足元で短冊を背負ったクロミミウサギたちが元気良く飛び跳ねる。彼らも当然のごとく浴衣を着用済みだ。
もちろん、最終目的地はポップンパーティ会場。
ゆらゆら。
前方で揺れる桃色のおさげ。
ゆらゆらゆら。
「……睦月君」
「なに?」
怒ったような、呆れたような、悟ったような、諦めたような。
そんな声音で呼びかけられて睦月が首を傾げると、スミレは歩みは止めないままちらりと顔だけ振り返り、はあ、とため息を吐くと再び前に顔を向けた。
「なんでさっきから人の髪の毛引っ張るの……」
「あ、ごめん」
言われて、睦月はようやく片方のおさげの先っぽが自分の手の中にあることに気がついた。
ゆらゆら揺れるおさげを目で追っている内に、無意識のまま手にとってしまったらしい。加えて、睦月の歩調は遅れがちになってしまうから、自然とスミレの髪の毛を引っ張ってしまうことになる。
「……痛かった?」
慌てて手に取っていた方のおさげを手放し、歩調を上げてスミレの隣に並ぶと、心配そうに顔を覗き込んだ。
スミレはそんな睦月に微苦笑を返すと、
「痛いわけじゃないけどね。でもなんで引っ張るの」
問い返されても、そもそも無意識の行動だったから睦月本人にもこれといった理由は思い当たらない。強いて言うなら、三つ編みのおさげが前方で揺れていたことと――
「手持ち無沙汰、だったからかなぁ?」
睦月は空いた左手を見て自信無さげに呟いた。右手は短冊やら貴重品やらを入れた小袋で塞がっているのだが。
考え込んでまたもや歩調が遅れがちになった睦月に、「しょうがないわね」とスミレが小さく肩を竦める。睦月と同じく短冊などを入れた巾着を左手に持ち替えると、スミレは睦月に向かってまっすぐ手を差し伸べた。
「はい」
「……え?」
きょとん、と見つめ返す睦月に更に手を突きつけて、
「睦月君も手、だして」
「え? うん」
言われるままに睦月が手を差し出すと、スミレはその手をぎゅっと握った。
「さ、行くわよ!」
そのままぐいぐい引っ張っていく。
「ちょ、スミレちゃん……! 転ぶって! もう少しゆっくり!」
「だめ。遅れちゃうでしょ」
驚いたのか、照れたのか。
自分でも判然としないまま上げた声に返された言葉は、何だか楽しそうに聞こえた。
途中で睦月が転ぶこともなく、何とか無事に到着できたポップンパーティの会場は、すでに大勢のポッパーたちが集まっていた。
「じゃあまずは短冊を吊るしに行きましょう。えーと……あの、笹? に」
「うん、そうだね。あの……笹? のところに行こうか」
ふたり揃って『笹』という単語が疑問形になってしまうほど、神――MZD――曰く『笹』は大きかった。現に、周囲からもちらほらと「笹?」「竹?」という呟きが聞こえてくる。
たった一本しかない笹の下には、今現在、会場に集まったポッパーたちの約半数が集まっている。しかしいくら半数とはいえ、普通、これだけ大勢の人数が笹――それが例え竹であったとしても――の下に集まって短冊意を吊るし始めれば、先に吊るしている者がどくまで順番待ちする者がいて然るべきなのに、そんな気配すらない。集まった全員が一度に笹の下に集合しても問題ないんじゃないだろうか、と思えるほどに巨大な笹だ。
「この辺でいいかしら」
「そうだね……おいで、アップアップ」
うずうずした様子のクロミミウサギたち――本名はアップアップなのだとか――を呼ぶと、スミレと睦月は一匹ずつ抱き上げて、クロミミウサギたちが自分で短冊を吊るすことができる高さまで持ち上げてやった。
クロミミウサギたちが短冊を吊るすのを手伝い、一生懸命吊るしている様子を眺めながら、スミレはポツリと呟きを漏らした。
「本当は七夕って、あんまり好きじゃないのよね」
「そうなの?」
睦月は意外に思って隣の少女に視線を向けた。
スミレは眉間に皺を寄せ、難しい――というか、何か腑に落ちない表情で、日が暮れ始めた空を見上げた。
空ではそろそろ一番星が輝き始めている。
あと1時間もすれば日も完全に落ちて、夜空いっぱいに広がる天の川が見えるはずだった。
「七夕が……っていうか、七夕の伝説が」
「七夕の伝説って……織姫と彦星の?」
「そう」
短冊を吊るし終わったクロミミウサギを降ろし、別のクロミミウサギを抱き上げる。
「年に1回しか会えない、とか、雨が降ると会えなくなる、とか」
スミレはそこで一旦言葉を区切ると唐突に右手を振り上げた。支えが左手だけになり、体勢が不安定になったクロミミウサギが驚いてスミレの左手にしがみつく。
それに気付いた様子もなく、スミレは空に向かって勢い良く人差し指を突きつけて、高らかに言い放った。
「――不甲斐ないわ!」
「――え?」
予想外の言葉にあっけにとられた睦月の口から、間の抜けた声が零れる。
それを睦月からの疑問の問い返しと思ったらしいスミレは、空を睨みつけたまま「だってそうでしょう!?」と言葉を返した。
「会いたいなら会いに行けば良いじゃない。そりゃ、元はと言えば自業自得なわけだけど、だからって親だか神さまだか知らないけど、他人に言われたからって7月7日だけに限定する必要はないでしょ。しかも、7月7日になったって、雨が降ったら天の川の水があふれて会えない? 何よそれ。それってそんなことで会うの諦めちゃう程度の想いだった、ってことじゃない!」
「あー……うん、そいういう解釈もあるのか……」
スミレらしいといえばあまりにスミレらしいその言葉に、睦月は吹き出しそうになるのを堪えて、肩を震わせた。
それから、ひとつ思い出してスミレに尋ねてみた。
「確か雨の日はカササギ……だったかな? 何か、鳥が橋渡しになってくれる、っていう話もあったと思ったけど」
「それだって他人任せすぎるわ!」
一刀両断だ。
自分で何とかしようって言う気概が感じられないのよ! と憤慨しているスミレに、睦月は「じゃあ、さ」と確認する。
「もし織姫がスミレちゃんだったら、スミレちゃんは自分から会いに行くんだ」
どんな障害があっても。
誰の許しを待つことなく。
「当たり前でしょ! 睦月君は違うの?」
迷うことなく断言するスミレを目を細めて見つめる。
「うん、そうだね……僕は待ってるかな」
途端に眉間の皺が深くなった少女が何事か言い出す前に、「だってさ」と睦月は言葉を続けた。ついでに両手で抱き上げていたクロミミウサギを片手で抱きなおし、空いた手を持ち上げて、皺が取れなくなっちゃうよ、と口には出さず伸ばした指でスミレの眉間をつつく。
「来てくれるって言うからね。すれ違いになると困るでしょ?」
そう言って、にっこり、笑ってみせた。