Even Love
別に、今日がなんの日か知らなかったわけじゃないんだけど。
「スギくん、スギくん」
少し息を弾ませたその呼びかけは、普段の時と全然変わりがなくて。
それはつまり、いつもと同じ声の高さで、いつもと同じ声の調子で、珍しくもなんともない極ありふれたよくある呼びかけをされたというだけのことで。
だから僕はなんの疑問も持たないで、いつものように答えながら彼女の方を振り返った、ただそれだけのことだったんだ。
「ん? なに、リエちゃ――」
だけど言葉は途中で途切れて、のどの奥に飲み込まれてしまう。
言葉を途中で止めたのは、口もとからふわりと漂う甘い香りと、唇に微かに触れる少しひんやりした白い指先。
――ぱくり。
思わず反射的に食べてしまったこの時期特有の風物詩は、口の中で程よい甘さとなって広がっていく。
――あぁ、今日はバレンタインデーだもんなぁ。
そんなことを思ってたけど、だからって冷静だったわけじゃない。いやある意味冷静かも、なんて声が聞こえてきたり。驚きすぎて冷静になっちゃったどこかの部分が、ぐるぐる回る僕の思考を遠巻きに眺めてる気がするよ。おのれ、僕のくせに他人の振りとは生意気な――だから、そうでなく。
いやもう、ほんと不意打ちだって。
けど、なんでいまさらこんなに驚いてるんだって、そっちの方が驚きだ。
固まってしまった僕の視線は、口もとにチョコを運んだ細い指が離れていくのをじっと見つめていた。それから、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえて、ようやく彼女の顔を見ることができた。
うん、本当に驚いてるんだよ。自分でも不思議なくらい。
だってさ。
「びっくりした?」
してやったり、って言うのかな。
なんだか妙に得意気な笑みを浮かべるリエちゃんに、
「……それはもう、すごく」
それだけ言うのがやっとだったんだから。
……ひょっとしたら、顔まで赤いかもしれない。今の僕。
「いつもスギくんにびっくりさせられてばかりだから、たまにはリエがスギくんをびっくりさせようと思ったんだ」
あの後、ちゃんとチョコレートを受け取って――色んな形をした一口サイズのチョコがたくさん入っていた――どういう風の吹き回し、って尋ねてみたらそんな風に言われた。
なんだかすごくおかぶを奪われた気分だ。
――レオが聞いてたら「自業自得だね」とか言って頷いてそうだけど。
…………。
考えてたら腹立ってきた。帰ったら後でレオに仕返ししておこう。
いわゆる八つ当たりってやつだ。
「……スギくん、怒っちゃった……?」
黙りこんでレオへの仕返しを考えていた僕の姿に、誤解してしまったらしいリエちゃんの声が掛かる。
「まさか。怒ってないよ」
即答したけど彼女の顔は晴れないままで、どうしたものかと困ってしまう。
「リエちゃんはどうして僕が怒ってるって思うのかな」
「……びっくりさせちゃったから」
「じゃあ、リエちゃんは僕がリエちゃんを驚かした時って、僕のこと怒ってる?」
そう尋ねると、そこまで真剣にならなくても、っていうくらい、リエちゃんはすごい勢いで首を振った。勢いよく振りすぎて、せっかく可愛らしく整えられたふわふわの髪の毛がぼさぼさになってしまっている。
その真剣さが教えてくれる彼女の気持ちが嬉しいやらくすぐったいやら。
僕は、あんまりだらしない顔にならないよう、特に頬の筋肉に力を入れて――それでもかなり緩んでしまっていただろうけど――リエちゃんの髪を指で梳いて直しながら、
「僕だって同じさ」
そして少し格好をつけて片目を瞑ってみせる。
それでようやく納得してくれたんだろう。リエちゃんは「うん」と小さく頷くと、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
リエちゃんが自分で髪を直し始めたので途端に手持ち無沙汰になってしまった僕は、待っている間、せっかくだからともらったチョコを取り出した。最初、リエちゃんが口に運んできたのはハート型だったけど、何気なく手に取った今度のチョコは音符の形をしていた。それをぽん、と口に投げ入れるようにして食べる。
当たり前だけど、やっぱり、甘い。
だけど嫌な甘さじゃないんだ。
それは嬉しい甘さで。
こんなのいきなり食べさせられたら、不機嫌になるはずがないじゃないか、って思う。食べてなくても、あんな可愛い悪戯に怒りようないんだけど。
ああでも、してやられっぱなしっていうのは悔しいかな?
「……じゃあ、ちゃんとお返ししないとね」
「なんの話?」
僕のひとり言に近い言葉に、きょとん、とした顔で聞き返される。
「これ」
とがった触感は星だろうか? そう思って取り出すと思ったとおりに星型のチョコだった。それを見せびらかすようにして口に運ぶ。
「……えーと、お返しはあんまりちゃんとしなくていいよ?」
にっこり優しく微笑んだつもりだったけど、嫌な予感でも与えてしまったのだろうか。やや引きつり気味にリエちゃんが遠慮の言葉を呟く。
「いやいや、そういうわけにはいかないし」
口の中で広がる甘さを感じながら顔を寄せ――
「はい、お返し」
一瞬だけ触れ合った唇は、僕のものよりほんの少しだけひんやりしていた。
顔が離れて、互いに見詰め合うような形になり、途端、彼女の顔が真っ赤に染まった。
きっと今なら、彼女の唇は僕より熱くなっているんじゃないだろうか。
「な、おか……って……え……!」
大きな瞳を零れ落ちそうなくらい見開いて、一生懸命紡ごうとしている言葉は上手く言葉にならない様子で、それでも僕は彼女の言いたいことが何となくだけどわかっていたので、
「だから、お返し。バレンタイン限定、スペシャルテイスト」
――ほら、僕ってカフェオレ派ですから。
だからチョコ味なんて珍しいよ、って言外に含ませてみたら、
「そ、そんなのわかんないよっ」
「あ、やっぱり? わかるようにちゃんとしとく?」
「――しなくていいっ」
……そんな風に全力で拒絶されるとちょっと傷つくんだけどさ。
びっくりした?
怒っちゃったかな?
――嬉しい、って思ってくれた?
じゃあ、さ。
これでイーブンでしょ。