バレンタインプレゼント


 窓の外に広がるのは、未だ眠り続ける町の姿。
 所々に灯された明かりが儚い自己主張を続けている。
 日付はとっくに変わっていたが、夜の帳が取り払われる気配はない。
「……まだ、夜、だよ……スギ……」
「……レオ、午前5時は、朝、だろう」
「……君、時計見た? 長針は12の文字盤に全然届いていない気がするんだけど」
「…………短針は5時寄りだ」
 カーテンを開けた向こう側の景色を見て、欠伸を噛み殺しつつ陰鬱な口調で呟くレオに、こちらも負けじと投げやりな口調でスギが応えた。
 二人の間に沈黙が降り――数拍置いた後、揃って大きなため息を吐いた。
 早朝――と呼ぶことが躊躇われる暗さではあるが――に起きなければならないことは、さほど不満ではない。それこそ徹夜で曲を書き上げる、ということだってこれまでに何度もあったことだし。
 問題は、日付。
「せっかくのバレンタインデー……」
「……言うなって……」
 恨めし気に呟くレオを、スギは力のない声でたしなめる。多分に、自分に言い聞かせる口調だったが。
 二人はラジオの公開録画のために北海道に向かうところだった。当初、雪祭りに合わせて計画されていた企画は天候問題やら会場のセッティング問題やらで予定が延び、結局バレンタインデー合わせという一部の――ある意味、とても重要な部分の――変更を伴って、新たな企画として生まれ変わった。
 もちろん、14日の私事の予定はすべてキャンセルせざるを得なくなっている。
「まあ、バレンタインデーイブは過ごせたからいいけどさ」
 ため息交じりのレオの言葉に、何の反応も返ってこない。「何だよ、イブって」というスギのツッコミを予測していたレオは、不審に思って沈黙したままの相棒に目をやった。
 黙々と荷物のチェックをしている背中に、不穏な空気が漂っているように見える。
 まさか、と思いつつ、なるべく刺激しないよう恐る恐る声をかけた。
「……ひょっとして、リエちゃんからチョコもらってない、とか……?」
「……………………」
 沈黙が痛々しい。
「リエちゃんに今日のことが伝わってない、なんてことないよね?」
「当たり前だろ」
 憮然とした声が返ってきた。それから、少し声の調子を落として、
「『わかった、がんばるね』って言われたんだけどな……」
 どこか遠くを見つめる口調で呟く。
 ――やっぱり愛想をつかされてしまったのだろうか、いやいや帰ってきてから渡してくれるつもりなんだ、きっと。
 スギが悪循環に陥りかける思考を立て直そうとしていると、普段滅多に見せない難しげな表情で頷きながらレオがぽつりと呟いた。
「――そうか、ついに捨てられたか、スギ」
 スギは無言で傍らのクッションを投げつけた。



 身支度を終え、時計の長針が1の文字盤を通過しようかという時だった。
 躊躇いがちにチャイムが鳴らされた。
 出かける前にカフェオレでも飲もうと準備をしていたスギの手が止まる。同じく、寝起きの一本とばかりにタバコを手にしたまま動きを止めたレオと顔を見合わせた。
「……セールス?」
「こんな時間に?」
「じゃあ、ピンポンダッシュ」
「……それこそ誰がやるんだよ、早朝を通り越してこんな夜更けに」
「いや、時間的に早朝だよ、今は」
 短いやり取りの後、無言のまま同時に手を差し出した。
 スギは握りこぶし。レオは広げた手のひら。
 つまるところ、グーとパー。
「いってらっしゃーい」
「…………」
 どこか得意気な相棒の声に送られて、スギは憮然とした表情で玄関に向かった。
 ドアノブに手を掛ける前にもう一度チャイムが鳴らされる。途切れ途切れに鳴る音に、訪問者の方も非常識な時間に訪れたことを自覚しているんだろうな、と頭の片隅で思う。
 念のため、覗き穴からドアの向こうを確認し――目を丸くすると、慌てて鍵を開けて勢いよくドアを開いた。
 ドアの勢いに驚いたのだろう。少女は小さく悲鳴を上げると、数歩、後ろに下がった。それから半ば呆然とした面持ちで固まっている青年を見て、ばつが悪そうな笑みを浮かべた。
「…………リエちゃん?」
 ひょっとして、起きてるつもりで本当は未だ夢の中なんだろうか。
 そんなことまで考えて、スギは目の前の少女をまじまじと見つめた。



「……スギ……くん?」
 玄関のドアを開いたまま、ぽかんと自分を見つめたまま硬直している青年に、リエは恐る恐る声をかけた。
 その声に我に返ったスギは、
「…………リエちゃん、なんで……?」
 ぱくぱくと口を動かした後、ようやく、といった感で言葉を搾り出す。
 リエは少しの間視線を彷徨わせていたが、一度目を閉じて大きく深呼吸をすると、カバンから少々ラッピングの崩れてしまった袋を取り出し、スギの目の前に差し出した。スギの好きな、とびきりの笑顔を浮かべて。
「はい、バレンタインのチョコ」
「え……」
 差し出され、思わず受け取った袋を凝視した。微かに、甘い香りが漂ってくる。
 未だに驚きが覚めない様子のスギに、リエの表情が困ったような、申し訳なさそうな、そんな表情に変わる。
「こんな時間にごめんね。でも、やっぱり今日中にチョコを渡したくて」
 会心の出来なんだよ、そう言って再び笑顔を浮かべる。
 呆然としたまま目前の少女を見つめるスギは、その時になってようやく気が付いた。
 少し赤みが差す瞳。寒さに真っ赤に色付いた頬。
 それはきっと、今日、チョコを渡すために徹夜をして。
 こんな時間じゃ電車もバスも走っていないから、自転車でこの真っ暗な寒空の下をここまで来て。
 それはつまり、すべて自分のためであって。
 そこまで理解すると、スギは咄嗟に目の前の少女を抱き寄せていた。
 抱きしめれば、温かいはずの身体はすっかり冷え切っていた。
「え、え、ス、スギ君?」
「……まったく、君ときたら――」
 驚き、反射的に逃れようともがく少女を、離さないとばかりに抱きしめる腕に力を込めた。
「女の子がひとりで暗い夜道に出ちゃダメだろ」
 顰め面しく言ってみるが、滲み出る嬉しさを隠すことはできなかった。



 すぐに帰ると言い出すリエを、半ば強制的に部屋に連れ込んだ。リエの姿を目にしたレオも、やっぱり驚いて目を見張った。事情を聞かされ、「いくらなんでも無用心すぎ」と説教を始めるレオに、リエはすっかり縮こまっていた。
 スギはその間に温かいカフェオレを入れて、リエに差し出す。
 それともうひとつ。
「はい、リエちゃん」
「え?」
 リエは目前に掲げられた、ピカピカに光る新品の鍵を不思議そうに見つめた。
「手、出して」
「うん?」
 言われるままに手を出すと、そこに鍵が乗せられる。
 訳もわからず困惑するリエを他所に、スギもレオもコートを着て、カバンを肩に掛ける。それに気付いたリエが飲みかけのカフェオレを片そうと立ち上がるのを、やんわりと押さえた。
「リエちゃんはここでカフェオレを飲んだ後ひと眠りして、外が明るくなってから帰る事」
「え、でも、それだと」
「それ、スペアキーだから。リエちゃんが持ってていいよ」
 その言葉に目を瞠って、慌てて鍵を見つめ直すリエの様子に、スギは口許を綻ばせた。
「今日は学校ないんだろ?」
「うん……」
「じゃあ、ちゃんと休んでから帰る事、いいね?」
 まだ躊躇いを見せる少女に、ぐっと顔を近付けて念を押す。
「…………うんっ」
 しっかり頷きが返されるのを確認すると、スギは更に顔を近付けて額を合わせた。寒さではなく頬を染めるリエに、
「チョコ、ありがとう」
 そのひとことに、リエの顔が嬉しそうに輝く。
 正直、とても名残惜しかったが、わざとらしい相棒の鼻歌に押されるようにして、リエから顔を離すと荷物を手に玄関へ向かった。
 互いに小突き合いながら玄関のドアをくぐる二人の背に、声が掛けられた。
「いってらっしゃい。お仕事、頑張ってね!」
 レオは片手を振ってその言葉に応え、スギは振り返ると声に出さずに言葉を紡いだ。
 口の動きだけで、言われた言葉を察したのだろう。
 閉じられるドアの向こうで、真っ赤な顔をした少女が見えた。





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