サトリサトラレ
「それじゃ、リエは、先に帰るね!」
「わからないところがあったら、いつでも電話してね」
「ありがとっ、さなえちゃん」
学校が終わると同時に駆け出していく親友に手を振って、さなえはさてどうしよう、と近くの壁にもたれかかった。
今日はアルバイトのない日で、だからと言って予定がまったくない日というわけではないけれど、予定事の時刻までだいぶ間が空いていた。
―― 一度家に戻ろうかしら。それともベルちゃんのところにお邪魔しようかな。
さなえのアルバイト先の近所にある本屋でやはりアルバイトをしている、流暢な日本語を操るフランス人の友人の姿が思い浮かんだ。彼女は確か今日、仕事が入っていたはずだった。明日、確実に休むために仕事日を変えてもらったのだと言っていた。
それはさなえも同じで、今日休むため、代わりに明日仕事が入っていた。
――うん、ちょっと様子を見て、大丈夫そうならお邪魔させてもらおうかな。
それに一人で時間を潰すより、友達と一緒に居るほうがあっという間に時間も過ぎる。
ベルの所に顔を出して、忙しそうなら一度家に戻る。そう決めて、もたれていた背を壁から離し――
「あぁ、よかった! さなえちゃん、まだ居たよー」
聞こえるはずのない声に、踏み出そうとした足が止まった。
きょとん、として視線を向けると、厚手のコートを着た青年が息せき切って駆け寄ってくる。
トレードマークの帽子もなければ、特徴的なサングラスも掛けていない。代わりに縁なしのメガネ――彼は視力は悪くないはずなので、伊達だろう――を掛けている。それだけでだいぶ雰囲気が変わっていたが、だからと言って彼が誰だかわからなくなるわけではない。
青年はさなえの前までやってくると、走ってきた勢いのまま、だんっ、と派手な音を立てて壁に手を付いた。
さなえはちょうど、青年と壁に挟まれた格好になる。
未だ寒さが身に沁みる毎日だというのに、荒く息を吐く青年の額にはうっすら汗が滲んでいた。
その汗を取り出したハンカチで拭ってあげながら、さなえは当然の疑問を口にした。
「……レオくん、どうしてここにいるの?」
今頃は、明日の旅行の準備で忙しいはずだった。
だから、それがひと段落するであろう頃合を見計らって彼らの家を訪ねるつもりだったのに。
ようやく息が落ち着いてきたレオは、にやり、といつもの――悪戯好きの子どもを思わせる笑みを浮かべて、言った。
「チョコ、もらいに来たんだ」
とにかく、外は寒いからどこか暖かいお店に行こう、と言うレオに引きずられるようにして、二人は近くの喫茶店に入っていた。
ウェイトレスに飲み物を注文しているレオにちらりと目をやって、さなえは小さく嘆息した。
sugi&reoの二人がラジオの公開録画のため、バレンタインデーに北海道へ行くことになったと、さなえとリエに連絡があったのはほんの数日前のことだった。
もともとの予定は雪祭り合わせだったものが天候やら何やらで予定が延び、結局バレンタインデー特別企画となってしまったらしい。
もちろん、個人のバレンタインデー予定は白紙にせざるを得なくなり。
だったら、と考えた。
一日早いけれど、13日にチョコを渡そう、とさなえがチョコを用意して、突然家に行って驚かせよう、と考えていた矢先に。
当の渡す相手がやってきのだ。
しかも、まったくなんの躊躇いもなく、「チョコをもらいに来た」と言い出す始末。
それも自信満々に。
さなえが、今日、チョコを持っていないかもしれないことなんて露ほども考えていない調子で。
つまりはきっと、全部お見通しということなのだろう。
――たまには驚かせてみたかったんだけど。
思わず苦笑を浮かべるさなえに気付いたレオが、覗き込むようにして顔を近づけた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないの。……ところで、レオくん?」
「うん、なに?」
「明日の準備はもういいの?」
今日、目の前の彼に渡すつもりだったチョコはカバンの中にちゃんと入っているけれど、あんまり相手の思い通りになるのもほんの少しだけ悔しくて、せめて飲み物が届くまでの間くらいは焦らそう、と、わざと違う話題を振った。
そんなさなえの気持ちを知ってか知らずか、レオは肩を竦め、
「いやいや、まだ終わってないんだけどね。だから僕は買出しに出かけて来たのさ。ま、正しくは『買出しと言う理由で遊びに出かけた』、かな?」
悪びれもせずに言うレオを見て、さなえはスギに悪いと思いつつ小さく吹き出してしまった。
きっと今頃、レオの相棒である彼は文句を言いながら明日の準備を一人で進めているのだろう。
「もう……レオくん、あまりスギくんに迷惑かけたらだめでしょう?」
微苦笑を浮かべて、たしなめる口調になるさなえに向かって、レオは心外だとばかりに首を振った。
「スギから迷惑をかけられることはあっても、僕からスギに迷惑を掛けることはないよ。それに、今日のことはスギも公認だし」
どういうことだろう、と視線で尋ねるさなえにレオは頷いて見せ、
「買出しに行くと言った僕の出掛けに『さなえちゃんによろしく』って言ってきたからね。スギは」
なんとも彼ららしいやり取りに、さなえの口許が綻んだ。
「…………で?」
会話が途切れた一瞬に、期待に目を輝かせて自分を見つめる青年の姿に、さなえの微笑が苦笑に変わった。
何を催促されているのかは一目瞭然だ。
――レオくんの方がずっと年上なのに、子どもみたい。
それでも、その目線に自分が弱いことも確かなわけで。
ちょうど、飲み物が運ばれてきたこともあって、さなえはカバンからチョコの入った袋と箱を取り出した。
それを見たレオの眉間に微かに皺が寄る。
「えーっと、2個あるってことは……」
不満げなその表情を見れば、さなえが自分とスギ、二人の分を用意したのだと思い――そのことで不機嫌になっているのだと容易に知れた。
しかし、さなえはレオに皆まで言わせず、彼の言葉を遮って、
「袋に入っている方が今日の分で、箱に入っているのが明日の分」
その言葉は予想外だったのか、青年の顔が意表を付かれた表情になる。
「明日?」
「ええ。……やっぱり、バレンタインデーにチョコを食べて欲しいもの」
それに、リエちゃんを差し置いて、先にスギくんにチョコをあげるはずないでしょう? と続ければ、レオも「それもそうか」と納得して頷いた。
「でも、じゃあ、わざわざ2個も用意してくれたんだ」
そこはかとなく感動の面持ちで、大事そうにチョコを手に取るレオに、さなえは澄ました顔で得意気に言う。
「あら。だって、1個だと、レオくん今日中に全部食べちゃうもの」
断言されるが、否定する根拠を持たないレオは、ぐっと言葉につまり――
「……仰るとおりです」
両手を挙げて、素直に降参の意を示して見せる。
――やっぱり彼女は何でもお見通し、だな。
そんな言葉を胸中でこっそり呟いた。