1日ショコラティエ
その日、睦月は足りなくなった絵の具を買いに町へ出かけた。
問題なく買い物を終えた後、他にこれといった用事もなかったから、足の向くまま気ままに町をぶらつくことにする。
ぼんやり周囲を眺めながら歩いていると、突然、目の前に大きな紙袋が突きつけられた。
「睦月君、ちょうどいいところで会ったわね!」
「――スミレちゃん?」
紙袋を避けるように顔を動かして、その向こうに予想通りの勝気そうな表情を見て取る。いつ会っても変わらない少女の様子にほんの少し笑みが零れ――あまり笑うと叱られる――同時に違和感を感じて首を傾げた。けれど違和感の正体を咄嗟に思いつくことが出来ず、ありきたりな質問が口を出た。
「どうしたの? この大荷物」
「さあ! さっさとこれを持って手伝ってちょうだい!」
「? はい?」
睦月の質問は丸っきり無視して、早く持てと言わんばかりに紙袋を睦月にぐいぐい押し付けてくる。
睦月が言われるままに紙袋を空いた手で持つと、スミレは意気揚々と歩き出した。睦月も慌てて後を追う。
「ねえ、スミレちゃん。手伝うって、何を?」
その言葉に、スミレは足を止めて睦月の方を振り返った。あからさまに呆れた顔を隠そうともせず、
「何って、チョコ作りに決まってるじゃない」
――明日はバレンタインデーなんだから、そう続ける少女の顔を、思わずまじまじと凝視してしまった。そんな睦月を不審そうに見つめ返して、
「――睦月君、ひょっとしてバレンタインデーを知らないの?」
「いや、知ってるけど……僕が、手伝うの?」
「……だってひとりじゃ大変そうなんだもの、チョコ作り」
拗ねたように頬を膨らませたかと思うと、次の瞬間には睦月に指を突きつけ高らかに宣言した。
「これまでずっと市販のチョコを配ってたけど、今年は手作りチョコにするの。あの子たちをびっくりさせてやるんだから!」
「あの子たち?」
そしてようやく思い当たる、先ほどの違和感の正体。いつもスミレが連れて歩いているクロミミウサギたちの姿がない。
もしかして、と思いつつスミレに訊ねる。
「……あのさ、スミレちゃんこそバレンタイデーのこと、知ってるんだよね?」
その質問にスミレは、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「当たり前でしょう」と堂々と胸を張る。
「好きな人たちに日ごろの感謝を込めて、チョコを配る日よ!」
――微妙に母の日と混じっている。
迷うことなく即答する少女に、睦月は安堵の混じった苦笑を浮かべた。
「何よ、手伝うのが嫌だって言うの!?」
睦月の苦笑を困惑と見たスミレは見る見る内に不機嫌になった。柳眉を逆立てて怒り出す少女に、睦月は大慌てで否定する。
「とんでもない。喜んで手伝わせてもらうよ」
「……本当に?」
「本当に」
真剣な顔で頷くと、あっという間にスミレの機嫌が直った。
「そうそう、最初っから素直にそう言えばよかったのよ。でもまあ、手伝ってもらうんだし、睦月君にもチョコをあげるわね」
「えー……あー、うん」
それもまた、微妙。
バレンタインデーに関する理解度と、チョコをくれる理由を知ってしまった今、歯切れの悪い返事を返すことしか出来なかった。
嬉しさ半分、切なさ半分。
作るものはいたってシンプル。
チョコを溶かして型に流し込み、後は冷やして固めるだけ。お好みでアーモンドやレーズンなどを飾ってもよし。
人によっては、そんなもので手作りを名乗るとはおこがましい、と言うかもしれない。
つまりそれだけ単純で簡単な作業の――のはずなのだが。
「……スミレちゃん、何してるの?」
「え? だって、チョコを溶かすんでしょう?」
「……チョコはフライパンに直接入れて溶かすんじゃなくて、湯せんにかけるんだよ」
「ゆせん?」
「お鍋か大きめのボールにお湯を入れて、その上にチョコの入った小さいボールを浮かべて、お湯の熱で溶かすんだよ」
「なるほど。わかったわ!」
「あ。あと、お湯がチョコを入れたボールに入らないように気をつけてね」
「…………」
「…………スミレちゃん?」
「――そ、そういうことはもっと早く! 最初に言いなさい!!」
「……えーと、新しいチョコ、出すね」
なぜか遅々として一向に進まない作業。
なぜか、というか、スミレが原因なのだが。
車を発明したり、お弁当を作ったりしているのに、チョコ作りとの相性は悪いらしい。それでも、睦月に助言と力仕事以上のことは決して求めず、あくまで自分独りで作ろうとするスミレを、睦月は微笑ましく見守っていた。
――好きな人たちに、日ごろの感謝を込めて。
それもまた、ひとつの愛情の形。
今、一生懸命作られているチョコは、スミレがクロミミウサギたちをどれだけ大切に想っているか、その証。
ほんの少し、そこまで想われているクロミミウサギたちを羨ましく思った自分に、睦月は小さく自嘲の笑みを浮かべた。
昼過ぎから始めたチョコ作りは、日が完全に暮れる頃になってようやく終了の兆しを見せた。
チョコを流し込んだ型の数々が、涼しい部屋に移される。あとは固まるのを待つだけだから、そうそう失敗するようなことはない、はずだ、と一抹の不安を覚えつつ睦月は自分を納得させた。
チョコを無事に作り終えたスミレはといえば、満足げな表情を浮かべているが、その姿は中々壮絶なものだった。後ろでまとめていた髪もすっかりほつれてしまっているし、エプロンどころか腕や顔にも飛び散ったチョコがついている。
洗った鍋やボールを抱えた睦月の傍にスミレが寄って来た。
「睦月君、今日はありがと」
「どういたしまして。スミレちゃん、すっかりチョコまみれだね」
「まみれっていうほど、ひどくはないわ!」
「顔にも付いてるし」
「……知ってます!」
睦月のひと言に、スミレは顔を乱暴に拭うが、チョコの付いているポイントを僅かに外してしまっている。
「あぁ、そっちじゃなくてこっち」
言いながら、睦月は顔を近付けて――
「………………!」
頬に付いたチョコを舐め取った。
口に広がる甘味に、結構な量を無駄にするはめになったのはもったいなかったな、そんなことを考えつつ、何事もなかったかのように顔を離すと抱えた鍋やボールを片付けるために棚に向かう。
「――ちょ、ちょっと! 睦月君!?」
「え、な、なに?」
スミレの大変な剣幕に、鍋を仕舞おうとした体勢のまま睦月の動きが止まった。
睦月を睨みつけるスミレは、顔を真っ赤にして小刻みに震えていた。
「ど、ど、どういう取り方してくれるの!!」
「あ、いや、だってほら、両手が塞がってたし……」
「バカー!!!」
大音声の怒声とともに、まだ洗っていないボールが飛んできた。
「はい。食べた後は、ちゃんと歯を磨くのよ」
2月14日、バレンタインデー。
スミレは手ずからクロミミウサギたち一匹一匹にチョコを渡していた。昨日は見かけなかった綺麗に包装されている小さな箱も、スミレの手作りなのだろうな、とぼんやり考える。
チョコを受け取ったクロミミウサギたちは、嬉しそうにつぶらな瞳を輝かせ、我先にとチョコを食べ始めた。それでも、包装紙を乱暴にはがすような真似はせず、綺麗にはがして丁寧に折りたたんでいる。クロミミウサギたちにとっては箱や包装紙も大切な宝物になっているようだった。
その時、クロミミウサギの一匹が、手持ち無沙汰にベンチに腰掛けている睦月に気付いて近寄ってきた。
「あれ? どうしたの?」
ウサギとネコという違いはあるが同じクロミミ同士、睦月に対しても仲間意識があるらしく、一人だけチョコをもらえていない睦月を不思議そうに見上げていた。
他の数匹のクロミミウサギたちもやってきて、しばらく顔をつき合わせて相談していたかと思うと、一斉に睦月に向かってチョコを差し出した。
「……ひょっとして、食べていいって言うのかな?」
きょとん、として問いかける睦月にクロミミウサギたちは揃って頷きを返した。
少なからず、ぐっと堪える様子ではあったけれど。
その意地っ張りな姿に、ひとりの少女の姿が重なって見えた気がして、睦月は思わず吹き出した。
「――僕のことは気にしないで、食べていいんだよ」
そう言われても素直に納得できないらしく、困った顔で再び相談を始める。
「実は、僕はもう昨日もらっちゃってたんだよ」
だから気にせず食べなよ、と続ける睦月に、ようやく納得したようで、クロミミウサギたちは嬉しそうにいそいそいとチョコを食べ始めた。
それをにこにこ笑顔を浮かべて見ていた睦月は視線を感じて顔を上げた。スミレがこちらを見ていたらしく、まともに視線がぶつかる。スミレは瞬時に顔を真っ赤に染めると、勢いよく横を向いてしまった。ふわりと広がる赤い髪が、顔を隠す帳になる。
やはり、まだ昨日のことを怒っているようだった。
仕方ないか、と苦笑を零したその時、服の袖を引かれてそちらに目をやると、最初に睦月の所にやってきたクロミミウサギが問いかける視線を向けていた。
――どんなチョコをもらったの?
そう、聞きたいんだろうなと察して、内緒話をするように顔を寄せ、口許に手を当てると小声で答えた。
「とても甘くて、美味しいチョコ――かな?」
ぶんっ、と風を切る音がした。
充分小声だったと思うのだが、相手は予想以上に地獄耳だったらしい。
今度はカバンが飛んできた。