素直で不器用な暗号


 収録の合間の休憩時間を狙ったかのように鳴り響いた電話の着信音は、事実その時を狙ったものだった。
「ダーリン、どうしたの? そっちもリハのまっさいちゅ――」
『僕、大丈夫だから! ほんと、心配しないで!』
「――ゴフッ」
 電話に出るなり人の言葉をさえぎっての第一声がそれってどうなの、タイマー。しかも耳に痛いくらいの大声って。思わずお茶に咽そうになったじゃないのよ!  更にその雄叫びのような声がミミちゃんにも聞こえてたらしく、ミミちゃんは煎餅をかじる手を止めてこっちの様子を窺う体勢に入っていた。
「……いや、あのねダーリン。何の話かさっぱりわかんないんですけど……?」
 むしろそっちの頭ん中が大丈夫かと余計に心配になるんですケド……?
 うっかり続けそうになった言葉をなんとか飲み込んで、続きの言葉を待つ。
 今のあたしは端から見ても十分すぎるほど途方に暮れていたようで、こんな時――タイマーからの電話を受けたりメールを読んでる時――茶化すのが常のミミちゃんが心配そうな表情を浮かべていた。あたしと視線が合うと声は出さずに口だけ動かして、「どうしたの?」って訊ねてきたけれども、そんな相方に対してあたしは何とも言えず(何せ、あたしだってさっぱり状況がわからないのだ)肩を竦めて困惑を伝えることしかできない。
 加えて、なぜかさっきの意味不明な一言を最後に、耳にあてた携帯電話は沈黙したままで……まさか切れたんじゃないでしょうね? 慌ててディスプレイを見ると、そこには通話中の文字が映っていた。
 電波が悪くて聞こえてないのかなぁ……?
「……おーい、ダーリン? もしもーし?」
 何度呼び掛けてもタイマーからの返事はなくて、
「ねえ……本当にどうしたの? タイマー……?」
 不意に口をついて出た声は、我ながら誰の声だと言いたくなるくらい、弱々しいものだった。
 あたしの様子を見守るだけのミミちゃんも、どんどん不安そうな、頼りない表情になっていって……あぁ、きっと今のあたしもこんな顔をしてるんだろうな。
 でも、それだけじゃなくて。ミミちゃんは落ち着かな気にそわそわとして、控え室のドアと腕時計をしきりに気にしている。
 ……そりゃそうだ。何せ今は、収録中のたまたま休憩時間なだけなんだから。時計を確認すると、そろそろその休憩時間も終わろうとしている頃だった。例えあたしたちがうっかり時間を忘れていようと、あと数分どころか数十秒もしないで収録再開のお知らせがくるはずだ。それはつまり、どんなに気になろうとも電話を切らなきゃいけない状況になるということだった。
 ――と思っていたら、案の定、
「ミミさん、ニャミさん、そろそろスタジオに入ってくださーい」
 控え室のドアが軽くノックされ、知り合いのADさんの呼び掛けが聞こえてきた。あたしたちはとりあえず「はーい」と揃って返事をしたけど……正直な所、タイマーの電話が気になって本番どころじゃない、というのが今の心境だ。
 それなのに、タイマーからの返事は相変わらずないまま。
 どうしよう、って思うけど、時間ばかりはなんともならないわけで……少なくともあんなに元気な第一声だったんだから、わけはわからなくても、本人が言っていた通りタイマーが大丈夫だってことは間違いない……と思う。
 えぇと、まあ、その、なんだ。
 あたしが一番気になっていたのはまさにその点なのだから、タイマーが大丈夫なら心配することはないということで、心配がないなら心置きなく本番に挑まないといけないってことよね? うん、そうだ。
 数学の証明問題を解いてる気分になりながら現在の状況を整理して納得すると、後ろ髪を引かれる気持ちはあったけど、
「あの、さ。ダーリン? そろそろ休憩が終わるから……」
 一度、電話切るよ? そう続けようとした言葉はまたもや遮られた。
『――ぃん』
「……はい?」
 ようやく聞こえてきた声を聞き逃すまいと耳をそばだてたけど、タイマーらしくないぼそぼそとした呟きをほとんど聞き取れず、あたしは反射的に聞き返した。
 ――んだけれども。
 ひと呼吸分ほどの逡巡の後、はっきりと――いくぶん、やけっぱちな感じがしないでもなかったけど――聞こえてきた言葉に、あたしは聞かなきゃ良かったと心底後悔した。
『――リハーサルで怪我して入院したっ。でも、ホントたいしたことないから! 大事をとって今日泊まってくだけだから!』
「…………はい?」
 ――とんでもない爆弾投下のおかげで、あたしの頭の中は真っ白になってしまったのだから。



 気が付けば収録は終わっていた――いやホントにこれがタイマーから爆弾発言を受けた直後からの記憶がぽっかり抜けてるんだから、いっそ笑ってしまいたいくらいだ。
 ミミちゃんに肩を揺さ振られて我に返るとそこは控え室のまま――少なくともあたしはそう思った。そうだ、早くスタジオに行かなきゃ、って思ってドアに向かおうとしたらミミちゃんに止められ、すでに今日の収録が終わったことを知らされたのだ。言われて自分の格好をみてみれば、休憩前と違う、エンディングで着ることになっていた衣裳に変わっている。
 嘘みたいな現状に茫然としてると、いつのまにやらミミちゃんは控え室を出ていって、それでもあたしはどうすれば良いのか、何がしたいのか判然としないまま、馬鹿みたいにぼーっとつっ立っていた。
 ――今日は何があったんだっけ?
 うん。まずはこれまでの状況を把握しよう。
 今日はレギュラー出演している番組の収録があって、休憩中に電話があったんだよね。相手はタイマーで、タイマーから、タイマーが入院することになったって聞いて、気が付いたら収録が終わってた。
 以上。
 あぁ、何だかごちゃごちゃしている脳内状況も言葉にすると案外すっきりしているなぁ……。
 ………………。
 ――にゅういん?
「入院ーッ!?」
 そうだよ! タイマーが入院てなんで!? あ、リハ中に怪我とか言ってたっけ? そもそも病院はどこ!
 あああ、もう! ほんっっっとうにタイマーってばいらん情報ばっか寄越して肝心なとこばっか抜けてるんだから!
 今更ながらにいても立ってもいられなくなったあたしは、今日タイマーがリハーサルをしているはずだった会場に向かうため、取りも直さず控え室を飛び出そうとして――
「――ぶふっ!?」
 ノックもなしに、いきなり大きく開かれたドアと正面衝突。バンッ、とか、ゴンッ、などとゆー表現がいかに可愛らしい表現の部類だったのか思い知らされる、筆舌に尽くし難い凄まじい音がした。
 とんでもない音の発生源の片割れであるあたしは、よくもまあ気絶しなかったもんだと自分を誉めつつ、さすがに立ってられなくなったので、ぶつかったドアにすがりついた状態でその場に蹲った。
 そしてもう片方の発生源――急に開いたドア――の原因であるミミちゃんは、「あら? 急にドアが重い?」などとゆー、まったくもって容赦のないセリフとともにドアの向こう、こっち側を覗き込むと、
「あららー、ニャミちゃん、だいじょーぶ?」
「……ふ、ふふふ……これが大丈夫に見えるって言うなら、今度ぜひミミちゃんも同じ目に遇うことをお勧めしてよ……?」
「ほほほほほ。謹んで遠慮申し上げてよー」
 お上品に口許を隠してそんな返事をしたミミちゃんだけど、ぶつかった所を押さえたまま身動きできないあたしに、そっと手を差し出した。
 おや、珍しく優しいなぁ、なんて普通なら失礼にあたるかもしれない(でもミミちゃん相手だし)ことを思いながら手を伸ばし、手が重なる間際になってあたしはようやく気が付いた。ミミちゃんが手を差し出したのは、手を貸すためじゃなく――
「……紙?」
 ミミちゃんの手の平に、ちょこん、と乗っけられた二つ折りの紙片。見たことあるような気がするなと思ったら、それは粗品でもらったりする、ここのテレビ局の名前入りのメモ帳の紙だった。
「多分、今のニャミちゃんに凄く必要なもの、かしら?」
 今のあたしに?
 どういうこっちゃとミミちゃんの手から紙を受け取る。
 そこには少なくともミミちゃんのものではない字が書かれていた。どこかの住所と最寄り駅。それから、そこに書かれた名前は――
「……病院?」
 ――ということは、これはまさか、ひょっとして……?
 どきどき逸る胸を押さえてミミちゃんを見上げると、ミミちゃんは得意げに鼻を膨らませていた。
「生きた屍のようになってしまった相方のためにひと肌脱いであげたわよ」
 生きた屍は余計だっつーの!
 普段のあたしならキレの良い右ストレートとともに繰り出していたであろうツッコミをぐっと飲み込み、素敵な相方の手をぎゅっと握り締めた。
「あー、もう! ミミちゃんってホントにサイコーの相方だわ!」
「ふっふっふ。どういたしまして〜……ってか、ニャミちゃん、強く握りすぎ……? あの、痛……?」
「あらいやだ。握力の強さはきっと親愛度を測るバロメーターよ?」
「うわ嘘くさ! そもそも疑問系だし!? さっきのドアの件、堂々と根に持ってるでしょ!?」
「えー、何のことー? 安心して。これでも恩に感じた分は手加減入っていたり?」
「根に持ってるぅぅぅぅっ!」
 痛い痛いと喚くミミちゃんの訴えを右から左に聞き流し(あたしはもっと痛かったのよ、と思いはしたけど口には出さず)、あたしは腹の底から湧き上がる笑いを堪えることができそうになかった。
 ――くっくっく。
 待ってなさい、タイマー…………今! すぐに! 行くからねぇぇぇぇっ!
 あたしは強く握り締めていたミミちゃんの手を放すと、拳を天高く突き上げた。
「いざ行かん! ダーリンの下へ!!」
「……いや、あのぅ……ニャミちゃん……? いえ、ニャミさん……? お見舞いに行くというより、お礼参りに行こうとしてるヤーさんみたいな顔になってらしてよ?」
「あらあら、何をおっしゃってるのかしらミミさんたら。それは気のせいでしてよ、ふふ、ふふふふ……ふぁーっはっはっはっはっ!」
「あーうん、最後の哄笑は何かしらと思うけど、あえて目を瞑ってそういうことにしてあげるから……」
 まるで育児に疲れ切った主婦みたいに何事かぼそぼそ呟いているミミちゃんをそっとしておいて、意気揚々と出かけようとしたら、ミミちゃんに髪を掴んで止められてしまった。
「……あのー、ミミちゃあ〜ん?」
 容赦なく引っ張るもんだから、ものっそ痛いんですけど……!?
「あーはいはい。いったん落ち着いてー」
「失礼な。あたしはとっても落ち着いてるってバ☆」
「そーかしらー? ニャミちゃん、真っ先に病院に行こうとしたでしょう?」
「えー、あー、それはその、あれよ。ほらその……一刻も早く駆けつけたいイッシンで?」
「あーはいはいはい。またもや自信なさ気な疑問系になっちゃってる点には目を瞑ってそういうことにしといてあげるから」
 落ち着いて、どうどう、と背中をさすられる。
 ちょっと待ってミミちゃん。何ですか。あたしは興奮している猛獣か何かだとでも言うつもりですかい。
 ――何かも何もその通りじゃない、って言われそうだから、面と向かって訊ねはしないけども。
「もーう。さっきから何よう、ミミちゃんてばー」
 出鼻をくじかれっぱなしではさすがに拗ねるわよ、むくれるわよ、とミミちゃんに向き直り、真正面から見据える。
 ……見据えるって言うか、つい思わず睨んじゃったかも。ミミちゃん、やや青ざめた顔で半歩下がったし。
 しかしそこはさすが我が敬愛する相方。それ以上下がるのを堪えるどころか、下がった以上に一歩前に出たミミちゃんは、これ見よがしに肩を竦めて嘆息して見せた。
 うふふー。なんなかすっごいむかつくわー。
「あのねぇ、ニャミちゃん。とりあえず、少なくとも対外的には、建前として、お見舞いに行くのよね?」
「うん、もちろん。それなのに何かしらね。ミミちゃんの『そんなわけないということはわかってるわよ』的『お見舞い』という単語にごてごてに飾り付けられた修飾語は」
「ほほほほ。――で」
「うわ、あっさり無視されたし」
「お見舞いに行くなら必要なものがあるでしょ? 手ぶらはダメよ?」
 ……あーはいはい。なるほど。お見舞い品ね。うん、それは確かに必要よねー、普通は。
 けれども急遽決定したお見舞いに、今この場に持っていくお見舞い品があるはずもない。
 ………………。
「……熱い拳じゃ、ダメ?」
「……まあその、それじゃある意味手ぶらだし?」
 言われて、それもそうかと納得したあたしは、先にお見舞い品を買いに行くことにしたのだった。



「ニャミちゃーん。これが最後のチャンスだけど、本当にそれでいいのね?」
「もちろんよ」
 これで何度目になるか、数えるのも億劫なミミちゃんの質問を一言で切って捨てると、あたしはさっさと来客用のエレベーターに向かった。ミミちゃんも慌てて後を追ってくる。
 あたしたちはちょうど病院に着いたところだった。
 タイマーの入院はあたしたちが移動している間に、瞬く間に芸能界を駆け巡ったようで、病院の外には芸能リポーターの方々が、バーゲンセールの主婦さながらの様相で詰め掛けている。
 もちろん、こんな所を普通に通って来ようものなら怒濤の質問攻めはまぬがれないし、明日の朝刊やニュースでどんな風に取り扱われるか想像したくもない。
 しかししかし。
 あたしたちだって、だてに長年芸能界に――いやさ、ポップンパーティで数々の司会をこなしてきたわけではない。
 鍛え上げられたコスプレの技をフル活用したあたしたちは、群がる芸能リポーターたちの合間をそ知らぬ顔で通り抜け、無事に病院内に潜入することができたのだ。
 ――何と言うか、こういう言い方をすると、極秘作戦を実行中のスパイみたいで格好良いかもしれない。
「ほら、ミミちゃん、さっさと行くよ」
 あたしが声をかけると、ミミちゃんはようやく病院内の売店前から動いてくれた。でも、よっぽど未練があるのか、エレベーターが来るのを待つ間、何度も売店を振り返っている。
「ミミちゃん、あとで買ってあげるから」
「……なんでやねーん」
「はう! なんて投げ遣りなツッコミ!?」
「どう考えても売店に寄る必要があるのはニャミちゃんでしょ」
 そう言って、ミミちゃんの視線はあたしが手に提げたビニール袋に向けられた。
「む。なによー。あたしのお見舞いに何か文句でも?」
「普通はあると思うのよ……」
「そういうミミちゃんはそもそもお見舞い持ってないじゃない。あたしのを二人で共用扱いしようとしてもダメだからね」
「そんなことする必要ありませーん。だって、わたしからのお見舞い、これだもの」
 そこでなんであたしを指差すぅ。
「ミミちゃん? 勝手に人を品物にしないでくれる?」
 ようやく来たエレベーターに乗り込みながら軽く放った右ジャブはあっさり躱されてしまった。おのれ、ミミちゃん、腕を上げたな。
「ふっふーん。なんとでも? あぁ、タイマーが退院した時のインタビューで、『もらって一番嬉しかったお見舞いはミミちゃんからのお見舞いです』って話す姿が目に浮かぶよう♪」
「…………」
 うわ。否定できないのはなんでだろ……!
 思わず身体が傾いでエレベーターの壁に体当たりしそうになる。
 その時、手に持ったビニール袋がガサリと鳴った。音につられて視線を向けていたら、ミミちゃんにポンと肩を叩かれる。
「――だからさ、ニャミちゃんのお見舞いが一番嬉しかったと言われるために買い直しに行かない?」
「……って、結局そこに落ち着くんかーい!」
 腰の捻りが利いたあたしのツッコミ(裏拳)をミミちゃんがすんでのところで受けとめた時、目的の階に到着したことを知らせるブザーがなった。ブザーから一拍遅れて、エレベーターの扉が開く。
 あたしはさっさとエレベーターから降りると、掲示板で確認してからタイマーの病室へ向かった。
「ニャミちゃぁーん」
「ミミちゃん、くどーい」
「でもぉ……お見舞いとしてはどうかと思うのよ」
「い、い、の!」
 一字一字区切って、強調する。
「別に喜んでもらうことが目的じゃないもの」
 そりゃまあ、喜んでもらったほうが嬉しいけど、の一言はぐっと飲み込む。
「もー、ニャミちゃんは素直じゃないなぁ。それじゃ、何のためにお見舞いに来てるのよ」
「もちろん! 説教のためよ!」
 あたしはミミちゃんの問い掛けに、拳を振り上げ声高らかと叫び、目の前にふさがるドアを粉砕するかのごとき勢いを持って蹴り開けた。



 この突然の訪問に相当びっくりしたらしいタイマーとアイスが、目を丸くしてこっちを見る。
 タイマーは、一応はベッドの上にいたけど、ベッドをソファ代わりにして端に腰掛けていた。着ているものもTシャツにスエードというラフな格好で、入院患者というより自宅――とまでは行かなくても、知り合いの家とか宿泊先でくつろいでいる人みたいだ。
 元気そうというか呑気そうと言うか……とにかくも、入院と聞いた当初、真っ先に思い浮べてしまった姿とは百八十度違っている様子に、入院に至る過程と原因を知って、まあそうだろうとは思っていたけど、思わず脱力して座り込みそうになった。それを無理矢理堪えると、当然きつい眼差しになる。
 それがよほど恐かったのか、怯えてベッドの端で丸く縮こまるタイマーに、あたしはにっこり笑みを浮かべて近づいていった。
「ダーリィィィン?」
「は、はいぃぃぃっ!」
 途端、背筋を伸ばして正座をしたタイマーの頬をむぎゅっと掴んで、力の限り左右にひっぱった。
「ニャ、ニャミひゃぁん……いひゃいぃぃ……いひゃい」
「と、う、ぜ、ん、よっ! 痛いようにやってるんだからっ」
 ぐりぐりぐりぐり。ひっぱったり捻ってみたりとするたびに、タイマーから情けのない悲鳴が上がるけど、あたしは当然無視をする。
「だいたいねぇ、ダーリンはアイドルとしての自覚が足りないんじゃない!?」
 タイマー緊急入院、その一報が瞬く間に広がると同時に、そうなるに至った原因も明らかになっていた。
 最初、移動中にその原因を知った時は、思わずお見舞いを取りやめようかと思うくらいに呆然としたものだった。なにせ、至極単純明快な入院の原因は、人々に心配よりも笑いをもたらすものだったのだから。
 その、入院の理由――

 ――リハが終わって舞台から降りる時、すべって転んで頭を打って気絶。

 どこの漫画かあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!
 どんだけベタなんだっての! これに記憶喪失でも加わればまさに完璧と言えそーなほどのベタっぷり!
 気絶については、頭を打ったせいだけじゃなくて、連日のハードスケジュールで疲れが溜まっていたせいもあるって話だけど……。
 それはそれで別の発憤材料。
 だって、じゃあ、つまりあれか。タイマーってば、疲れてるってのに、毎日あたしに電話をしてきたってわけ? しかもあたしはそれに気付かなかったってことで。
 あぁ、そうよ。こうやってタイマーの頬をむぎゅっと掴んでいるのは、八つ当りも混じりまくっていますとも!
「――身体が資本の仕事なのに、自己管理がなってなーい!」
「ほ、ほへんらひゃぁぁい」
 ぐにぐにとタイマーの頬を捻り回すのに飽きた頃、あたしは手を離した。
 頬が真っ赤になって、血色が良くなったように見えなくも……いや、それはさすがに無理ありすぎ?
「えぇ……と、その、ね? ニャミちゃんの言うとおり身体が資本の仕事がまだ控えてるから、もう少し控えてもらえると助かるんだけどなぁ……なんて……」
 あたしが一息吐いたのを見計らってか、アイスが恐る恐る声を掛けてきた。
「あら、大丈夫よ。この程度なら址どころか一晩待たなくても綺麗に治るわよ」
「さすがニャミちゃん。匠の言葉みたいに重みある一言だわぁ」
 小さく、けれども惜しみない拍手を送ってくれるミミちゃんに鷹揚に頷き返すあたしの横で、なぜかアイスはがっくりと肩を落としていた。
「……どしたの、アイス」
「……いや、なんでもないよ……気にしないで」
「こころなしか、顔も引きつってるような?」
「……いや、本当に気にしないで」
 首を傾げるものの、本人が気にしないでって言うなら気にしないのが人情ってもんよね。なにより、アイスには悪いけど、アイスに構ってる場合じゃないのだ。
 何せ、そろそろ面会時間が終わってしまう。
 あたしは態度が微妙に珍妙なアイスの相手もそこそこに、さっきから何が楽しいのか、にこにこと笑顔満面のタイマーに向かい合った。
「……えーと、ダーリン? まず聞きたいんだけど、何、その満面の笑顔」
「あ、うん。やっぱり嬉しくて。心配させちゃって、それは本当にごめん、って思ってるんだけど、ニャミちゃんがお見舞いに来てくれたこととか、生ニャミちゃんとか、嬉しくて」
 生、って……。
 それは仮にも芸能人のセリフか……?
「あらあら。ニャミちゃんてば照れてる?」
「呆れとんじゃあぁぁぁぁっ!」
 ミミちゃんの見当外れなツッコミを全身全霊で否定したあと、改めてタイマーに向き直り、手にした買い物袋を未だに呑気な笑顔を浮かべている鼻先に突き付けた。
「……? ニャミちゃん、これは……?」
「決まってるでしょう。お見舞いよ」
「えええええっ!?」
 ちょっと、なんなの、その驚きようは……!
「ほんと!? ホントに!? ……うわぁ、ぼく、絶対『はい、この熱い拳がプレゼント』って言われると思ってた!」
「………………」
 いや、あの、ミミちゃん。無言でじぃっとこっちを見るのはやめてちょうだい……!
 あたしがミミちゃんと無言の攻防を繰り広げる間に、タイマーはお見舞いを開けていたらしい。がさがさ音がした後に取り出されたのは、ある赤い花の鉢植えだった。
 根付く、つまりは入院が長引く、という意味に繋がるから、本来なら入院している人へのお見舞いには相応しくないって言われる鉢植えの花。
 タイマーはその花を顔の前に寄せ、まじまじと見つめると、
「うわぁ、かわいい花だねぇ」
 途端に上がった歓声にあたしとミミちゃんは動きを止め、アイスはなぜかいっそう疲れた様子になっていた。
 そんなあたしたちを気にした風もなく、タイマーはお見舞いをひとしきり愛でた後、あたしにそれはもう満面の笑みを向けた。
「ミミちゃん、ありがとう!」
「……ふん。どういたしまして」
 どうやら気付いた様子のないタイマーにほっとしたような、残念なような――いや、それはない! 断じて!
 その時、急にフリーズ状態から再起動したミミちゃんが、
「いやいや、ちょっと待ってタイマー! それでいいの!?」
「え? なにが?」
 怒涛の勢いで迫るミミちゃんに、タイマーは、きょとん、と、ぽかん、を足してニ倍したような効果音が聞こえてきそうな暢気な表情で首を傾げている。
「……ミミちゃん、ミミちゃん」
 アイスに連れられ、ミミちゃんが部屋の隅に連れられて行く。
「本人が喜んでいてくれるなら、それでいいと思うんだ。むしろ知らせることはないと思うんだ」
「……そっか。そうね、それも優しさよね……」
 ふたりして、何だかすごく失礼なことを言ってないか……?
 タイマーも同じ感想だったのか、
「ひどいなー。僕だってそれくらいの常識はあるって」
「……まあ、実際本当にあるかどうかことの真偽はおいといて、その鉢植えをもらって喜んでちゃ説得力ないわよ、ダーリン。持ってきたあたしの言うことじゃないけど」
 さすがのあたしも呆れて言うと、タイマーはなぜかあたしをじぃっと見つめてきた。
 あんまり真っすぐな視線だったもんだから、無性に居たたまれなくなって、つい足が下がりそうになるのをぎりぎりで堪えた。タイマーの視線に負けないようにあたしも目に力を籠めると、自然に睨む形になる。
 静かな、真剣な眼差しであたしを真っ直ぐに見つめるタイマー。
 仇でも見つけたように眉間に皺を寄せてタイマーを睨みつけるあたし。
 ――何なの、この状況。
「……ダーリン。急にいったいぜんたいナニゴト」
「ニャミちゃんも知ってたでしょう?」
「何を」
「お見舞いに鉢植えを贈る意味」
 ……もちろん、知ってましたとも。知ってて、あえて贈ってそれが何か? ――そう、簡単に言えるはずだったのに。
 自分でもわからないまま、あたしは黙ることしかできなかった。
 タイマーは急に優しい笑みを浮かべ、
「だったら後は解釈の違いだと思うんだけど――違う?」
 ぎくりとして言葉に詰まった。違わないから違うとも言えず、だからってそうだと肯定することもできず、
「んんんー? なになに、それってどういう意味?」
 あたしたちの会話を聞き付けたミミちゃんが、興味津々、加わってきた。
 タイマーはあたしとミミちゃんを交互に見比べた後、
「えへへへ。ナイショ♪」
 何がそんなに嬉しいのか、幸せすぎて蕩けてますー、と言わんばかりの笑顔で、それでもはっきりきっぱりと証言を拒否してみせた。
「むむむ……そう言われるとますますヒミツの香り………………にゃーみーちゃぁーん」
 そんな言葉では当然納得できないミミちゃんは、今度はあたしにからんでくる。
「……あー、はいはい。ほら、もうすぐ面会時間終わるから帰るわよー」
 それを適当にあしらいながら、そろそろ面会時間が終了になるのをいいことに病室を出ようとしたら、タイマーに手招きされた。
 ミミちゃんは病室のドアの外で、病室に背を向けて待ってくれている。アイスはそ知らぬ顔をして、飲み物を買ってこよう、なんて呟きながら部屋を出て行った。
 わざとらしく距離を置いてくれる二人の気遣いが、やたらとくすぐったく感じる。
 そんな、わざわざのお膳立てを無にするのも忍びないし、なんて胸の内で言い訳しながら相変わらず笑顔満面なタイマーの傍に行くと、タイマーはあたしの右手を取って手の平を上に向け、そこに赤い花の咲いた植木鉢をそっと置いた。
 それから、ほんの少し照れくさそうに、
「僕にとっても、そうだよ」
 大切に、一字一句を噛み締めるように、そんなことを言った。
 ――ああ、きっと。傍から見れば、何て意味不明な言動だろう。
 けど、あたしにはその意味が、想いが、嫌になるくらいあまりにも鮮明すぎて。
 だって、それはあたしが彼に向けて手渡した想いそのもののことだったから。






「……で、タイマー。つまるところ一体どういうことだったの?」
 ニャミちゃんたちが帰った後、今後のスケジュール調整とかその他諸々の関係で面会時間を過ぎても残っていたアイスが、本日のお見舞いに対する疑問点を訊いてきた。
 ミミちゃんに対して内緒を貫いた手前、アイス相手とは言えそう簡単に答えを言うのもどうかと思い――何より、せっかく僕とニャミちゃん二人だけのシークレット状態をそう簡単に手放す気にもなれず――やや遠回しな表現で、
「んー……つまり、入院が長引くっていうのを、事象にだけ注目して、別の言葉に言い換えてみる?」
「ふうん……?」
 納得したのかしないのか、気のない返事が返ってくる。
 もともと追求してくる気はなかったのか、それともこのやりとりで全部を把握したのか、それっきりお見舞いの話題は出ず、それから小一時間ほど今後の打ち合わせをして、アイスは実にあっさりと帰ってしまった。
 案外、下手につついて根掘り葉掘り訊いて、僕に惚気られるのが嫌だったのかもしれない。アイスはそういうことをつつく人間じゃないけど、それ以上に僕の――アイス曰く――ニャミちゃん自慢に対する防衛本能は過剰とも言えるくらい高性能だし。
 ……少しくらい訊いてくれても良いのに、とは思うけど。可愛くて素敵な彼女を自慢したいのは当然の心理じゃないか。
 ――む。
 ということは、ひょっとしてさっき僕、せっかくの自慢のチャンスを自分から不意にしちゃった? いやでも、ニャミちゃんと僕だけが分かり合ってる、二人だけのヒミツゴトっていうシチュエーションだって捨てがたいものであるし
 自分的に、彼女自慢と二人だけの秘密の厳守、どっちが重いか秤にかけて、傾いたのは『二人だけ』という実に魅力的な表現の方だった。
「……うーん、じゃあしょうがないかー。ニャミちゃん自慢はまた次の機会にしておこう」
 ひとりごちて、ニャミちゃんからのお見舞い品を手に取った。
 小振りの植木鉢に植えられた赤い花。
 それを眺めているだけで、何度でも、無制限ににやけてしまうのが止められない。
 植木鉢。
 根付く、つまり、入院が長引く。
 本来なら、とてもお見舞いに相応しいとはいえない意味。
 けど、それをほんのちょっと言い換えてみるだけでいい。
 入院が長引くって事は、長く休むってこと。長く休めっていう意味なら、つまり。
「……ゆっくり養生しなさい、ってことだよね」
 これでも自他共に認める国民的アイドルの身の上としては、そうそうゆっくり休んでなんていられないし、仕事を放り出してまでゆっくり休みたいとは思わないけど。それはきっとニャミちゃんだって――立場的には彼女だって僕と五十歩百歩なのだから――重々承知の上だろうけれど。
 芸能人としての僕のプライドも、あり方も、全部理解してくれた上でそれでもぶつけてくれた、これは自分の仕事に誇りを持っている芸能人仲間としてではなくてニャミちゃんっていう女の子として想いの形だから。
“少しでもゆっくり休みなさい、無理にでも休みなさい、休まざるを得ない状況にでもなって休んでしまいなさい”
 ストレートで、でも不器用な、そんな言葉が今にも聞こえてきそうだ。
 それがポジティブな思考回路による現実逃避ではない、と言い切れる要因だってこの手の中に収まっている。
 鉢植えの、赤い花。
 僕がこの花を知っていたのは偶然だけど、帰り際のやり取りでニャミちゃんがこの花を選んだのは偶然じゃないと確信した。
 僕の言葉に瞬間的に真っ赤になった彼女より、いっそう色濃く鮮やかな赤を誇る、この花の名前はゼラニウム。
 赤いゼラニウムの花言葉には、こんなものがある。
 それは――



 ――君ありて幸福。





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