サングラス
春が終わり、夏が始まろうとする、季節の境界線のちょうど真ん中。
そろそろ陽射しが強くなり始めた頃。
リエはテーブル台に置かれたサングラスを手にとって、おもむろにかけてみた。それから、ぐるりと首を巡らせる。
ガラス一枚隔てた向こうの世界が、うっすらと黄緑がかったものへと変わった。それは、慣れてしまえば変わったことなんて何ひとつないと思えてしまうくらい、本当にかすかな変化だったけれど。
眩しさはなりをひそめて、明るさだけが際立つような。目にするすべてのものが初めて目にするような。まるで、知らない世界を訪れたような。
そんな世界が広がっている――そんな気持ちになる。
――こんな風に見えてるのかな?
いまだ現れない待ち人を思い浮かべる。
とても近くに居るのに、時々とても遠くに感じてしまうその人にはどんな世界が見えているのだろうと、不安に思うことがある。同じ場所に立っていて、それでも同じものが見えているんだろうか、と。
だから、ほんの少し魔がさしただけの行動だった。彼がいつも身に着けているサングラスをかけたら、彼が見ているものが見えないだろうか、なんて考え。
そんなこと、本人に向かって面と言うことなんてできないけれど。
「……どうしたの、僕のサングラスかけちゃって」
何食わぬ顔でリエがサングラスを元の場所に戻そうと手をかけるより先に、待ち人がやってきた。持ち上げかけた手を下げるのもわざとらしい気がして、そのまま縁に指をあて、強調するように少し上げてみた。
「……似合うかな?」
問いかけられて、青年は「うーん」と唸ると、突然手にしたカバンを漁り始めた。目的のものはすぐに見つかったらしく、きょとん、と見守る少女のサングラスに手を伸ばした。
――と、思った次の瞬間。
薄い黄緑が取り払われて、けれどすぐに新しい色に世界が染まる。
あたたかい、やわらかい、はちみつ色のフィルターが掛かった世界。
「うん、そっちの方が似合うよ」
「……これは?」
顔の半分くらいを覆ってしまいそうなくらい大きな、縁なしのサングラス。
可愛くておしゃれなデザインだと思うけど、彼の趣味ではないように思えて、リエは小さく首を傾げた。
するとなぜか照れくさそうに、
「あー、うん。まあ、なんと言うか……衝動買い?」
歯切れの悪い答えが返ってくる。照れ隠しか、自分のサングラスを顔にかけ、黄緑のガラスが表情を隠した。もちろん、浮かべていた気まずそうな顔を隠すには遅すぎていたけれど。
「そうだ、それ、リエちゃんにプレゼントするよ」
「え、いいの!?」
「うん。似合わない僕よりも似合うリエちゃんに使ってもらった方がサングラス冥利に尽きると思うし」
突然の申し出に驚くリエに頷いてみせる。
驚き半分、嬉しさ半分、一度サングラスを手にとって改めてまじまじと見つめていたリエは、ふと、彼の言葉が気になって、思ったままを口にした。
「似合わないと思ったのに、買ったの?」
「いやまあ………………つまりは、だからこその衝動買い、だし」
そんなことより早く行こうよ、と手を差し出され、誤魔化された気になったけれど――事実、誤魔化されているのだろうけれど――素直にその手を取って椅子から立ち上がる。
それからもう一度、はちみつ色のサングラスをかけてみた。
さっきとは違う色の世界。
けれど、違うところが同じで。
何故だか耳元をほんのり染めて急ぎ足で進む彼に、リエは遅れないよう小走りでついて行く。
今、きっと違う色が掛かっている彼の世界。
リエの目に映るのも、常とは違う色にほんのりと染められた世界。
ふたりが見ているものは違うけれど、それは同時にほんの少しだけ変わった世界だということが同じで、つまり今ふたりが見ているのは同じ世界。
リエの口もとが自然とほころんだ。
――まさか、言えるはずもない。
偶然見かけたサングラス、その色合いに君を見て。
色付いたガラス越しの世界は、いつも君が見ている世界な気がして。
同じ世界を見てみたい。
――そんなことを考えた、なんて。
――つまりはお互いさまということ。