あと一歩
――さて、どうしよう。
悩むスギの目の前で、少女が健やかな寝息をたてている。
それはもう、起こすのが忍びなく思えるくらい気持ちよさそうに。
しかし、ここで起きてもらわなければ出かけることができないわけで。
――遠回りになってもいいから、出かけがてらに本を返してくるんだったか……
借りていた本を返しに近所の図書館まで行き、戻ってくるまでほんの数分。誓って数分。その数分の間に、待たせていた少女はすっかり寝入っていた。
何とはなしに、昨夜の電話でのやり取りを思い出す。
第一声がいきなり「デートしよう」だった電話にひどく驚いたようで――当然だろう――、けれどそれからとても嬉しそうな「うん!」という承諾の返事が返ってきた。
――嬉しいのはわかるけど、きちんと睡眠をとるようにね?
そう、冗談で言ったのだけれど、どうやらそれが冗談ではすまなかったらしい。
本当は本を返してから待ち合わせ場所の喫茶店に向かう予定が遅れて、とりあえず一度顔を見て――見せてから図書館へ向かった。つき合わせるのも悪いと思って待たせていたが、それが裏目に出たようだった。
「おーい」
顔の前で手を振ってみるが効果なし。
「リエちゃーん、朝だよー。そろそろ行くよー」
肩をつついてみる。
――やっぱり効果なし。
場所が店内なだけに余り大声を出すわけにもいかなくて、小声になる分、顔が近付く。幸い、というか、丈の高い観葉植物のおかげで少女の座っている席は死角となっていたから、この状況が衆目にさらされる心配はさほどない。
ふと、芽生えたのは悪戯心だろうか。
調子に乗って更に顔を近付けてみる。人が近付く気配だけでは一向に起きる様子のない少女に呼びかけを続け、
「おーい、起きないと襲っちゃうよ? キスするぞー」
しかし、起こすために呼び掛けているはずの言葉は思っていたよりもずっと小声で、囁きにも満たないそれは口の中で解けていくばかりだった。
――まるで起きて欲しくないみたいだ。
そんな風に思えて、スギの口許にほろ苦い笑みが浮かぶ。
その間にもスギの身体は少しずつ傾いで、鼻先が触れ合いそうなほどふたりの顔が近付いた。普段なら真っ赤になって飛び離れる少女は、相変わらず自分の置かれた現状に気付きもせず、気持ちよさそうに眠りこけている。
「ほんとにキスしちゃうよ?」
独り言のように呟いて、けれど言葉と裏腹に傾いでいく動きが止まる。
間近に迫ったあどけない寝顔をじっと見つめ、
「……阿呆らし」
言葉と同時に身体を起こした。
「――寝こみを襲うなんて最低だし」
ひとりごちた言葉は、我ながらもっともらしい言い訳にしか聞こえなかった。
今の関係が心地よくて、失くしたくなくて、けれどそろそろ進展させたいと思う気持ちも本当で。
――わかってる。
あと一歩。
踏み込む勇気がないだけだ。
手を伸ばし、少女の柔らかい髪をくしゃり、とかき混ぜる。
「んー……」
閉ざされていたまぶたがぴくりと動いた。
「――ふむ」
スギは小さく頷くともう一度顔を近付けた。ただし今度は純粋に悪戯心で。
もちろん、数秒後には少女の甲高い悲鳴が響き渡ることになる。