さみしがり


 いつからこんなことを思うようになったのかな。
 時おり不意にやってくる、心細くて、胸がきゅうっと締め付けられるような感じ。
 それを『寂しい』と言うのだと気が付いたのは、つい最近のことだった。
 ひとりぼっちの時に感じるなら、きっとすぐに寂しいんだって気が付いたと思う。だけどこの寂しい気持ちは、なぜかスギくんとふたりでいる時にばかりやってくるから、寂しいのだと気が付かなかった。……だって、好きな人と一緒に居るのに寂しい気持ちになるなんて、思いもしなかったから。
 前は姿を見かけるだけで嬉しくて、お話できたら楽しくて――それはもちろん、今も変わらないことのはずなのだけれど。
 それなのにどうしてふたり一緒にいて、こんな寂しい気持ちになるんだろう。
 いつの間に、こんなに寂しがりになってしまったんだろう。
 気のせいだと思いたかったけど、寂しいんだって気持ちに気が付いてしまうと、もう駄目だった。
 今も、そう。急に湧き上がってきた寂しさに耐えられなくて、ちら、と向かいに座るスギくんを窺う。鼻歌混じりに手元の楽譜に何かを書き込んでいく姿にほっとして、読みかけの雑誌に視線を戻した。
 それでも、すぐにまた寂しくなって、無意識の内に視線はスギくんを探してしまう。
 そんなことを繰り返して気付かれないわけもなく、何度目かの視線を上げた時に、スギくんとばっちり目が合ってしまった。スギくんの方は何度もリエが視線を向けていたことに気が付いていたみたいで、目が合ったことに驚いた様子もなかった。
「リエちゃん、どうしたの?」
「え? えぇっと……」
「さっきからこっち気にしてるみたいだから……何かあった?」
「何かっていうか、その…………」
「…………」
「あの………………」
「…………」
「……………………」
「…………寂しい?」
「――!」
 まさか、ふたりでいるのに寂しいんです、とは言えなくて口ごもっているところに、正解を言い当てられてびっくりしてしまう。
 どうしてわかっちゃったんだろう。そんなに態度に出ていたかな。
「……ごめんなさい」
 いたたまれなくて謝ると、今度はスギくんが驚いたように目を瞠った。
「なんでリエちゃんが謝るの」
「だって、邪魔しちゃってるから」
 当たり前だけど、顔をこちらに向けているから楽譜に何か書き込む手は止まってしまっていた。でもスギくんは、何だそんなことか、って軽く笑い飛ばしてくれて、
「そろそろ一休みしようと思ってたから、ちょうど良かったよ」
 そう言うと楽譜を置いて、おいで、というように手招きしてくる。
「スギくん?」
 どうしたのかと訊ねてみても、笑顔を浮かべて手招きを続けるだけで何も言ってくれない。やっぱり怒ってるのかな、って思ったら、思っていたことが素直に顔に出ていたみたいで、スギくんの笑顔が苦笑に変わる。
「怒ってるわけじゃないよ。だから安心して、とりあえず、おいで?」
「う、うん」
 恐る恐る近付いてスギくんの隣に腰掛ける。そうしたらスギくんが手招きしていた手の平を上に向けて、お手、なんて言うものだから、ついリエも手をのせてしまった。スギくんはリエが素直に手を出すとは思ってなかったみたい。自分で言い出したことなのに、リエの手が重なると驚いたように目を瞠っていた。
「……いやあ、リエちゃんはノリがいいなぁ」
 しみじみ、感心したように言うけれど口許が不自然に震えっぱなしだから、きっと笑いたいのを我慢してるんだろうな、って思う。
「あのね――」
 原因はスギくんでしょって、むっとして口を開きかけたら、重ね合わされただけの手が不意に強く握り締められた。今度はリエの方がびっくりして思わず手を引こうとしてしまったけれど、握り締められた手はびくともしない。痛くはないけど、離そうとしても外れないくらいの強さで握り締められた手をまじまじと見つめてしまう。
「まだ寂しい?」
 その言葉にはっとして顔を上げると、真っ直ぐこっちを見つめているスギくんの視線にぶつかった。
 お互いの視線がちゃんと重なり合って、握り締められた手からは触れ合う温かさも感じられて。
 気が付けば、あれほど感じていた寂しい気持ちはすっかりどこかへ消えてしまっていた。
 ――それなのに。
 どうしてか『もう寂しくないよ』のひと言が出てこなくて、もごもごと口を動かすだけで終わってしまう。
 スギくんはそんなリエを黙って見ていたけれど、ふむ、と納得したように頷くと、
「それじゃあ――」
「――えぇっ!」
 思い切り手を引っ張られ、倒れそうになったリエはとっさに目の前のものにしがみついた。ぶつかるくらいの勢いだったから、どん、って音がしたけど、痛くはなくてほっと安堵の息を吐く。
 いきなり何するの、スギくんにそう抗議しようと顔を上げようとして――今更だけど、自分がどんな体勢でいるか、どんな状況にいるか、そのことに気が付いた。
 リエが今現在しがみついている目の前のもの――それはもちろん、倒れそうになる原因を作ったスギくんしかいないわけで……しがみついたと言うことはつまり抱きついているようなもので。
 ――ううん、ようなもなにも、リエはスギくんの胸に顔を埋めるようにして抱きついている、そんな現状。
「え、あ、スギくん、ごめ――」
 慌てて身体を起こして離れようとしたら、いつの間にか背中に回っていた腕に、ぎゅう、と抱き締められる。そうなれば、当たり前のことだけど離れるどころか身体を起こすこともできない。
 触れ合う温かさや、感じる鼓動、そしてほのかに香るコーヒーの香り。そういうものにすごくどきどきして、頭の中はぐるぐるして、スギくんに抱きついた状態だから少しも動いていないのに、今にも目を回してしまいそう。
「スギくん〜」
 離して、ってしがみ付いた手で背中を引っ張ると、応えるように背中をぽんぽんと軽く叩かれた。それから優しく頭を撫でられる。
 それはまるで小さな子どもをあやすみたいだったけれど、少しも嫌な気はしなかった。リズム良く背中を叩かれ、頭を撫でられていく内に、ぐるぐるしていた気持ちが少しずつ落ち着いていく。
 そうして、リエが落ち着いた頃を見計らったみたいに、
「もう、寂しくない?」
 そうっと、優しく降り注いだ声は、寂しい気持ちのせいで震えていた心を温めてくれるから、
「――うん」
 優しく訊かれた言葉に、今度は素直に頷くことができた。
「……そっか。このくらいくっつけば寂しくないのか」
 でも、続いてぼそりと呟かれた言葉になんとなく不穏なものを感じて彼の胸からそうっと顔を上げると、すぐ間近に――レオくん曰く、要注意すべき食えない……というよりむしろ、うっかり食べようものなら食中毒確実の――笑みを浮かべた顔があった。なんだかとっておきの悪戯を計画中のこどもみたいな顔だなぁ、なんて暢気に――ちょっと現実逃避が入っていたかもしれない――思いながら、こちらも笑顔を返そうとしたけど、ふつふつと湧き上がる嫌な予感のせいか、笑顔がずいぶんと引き攣ったものになってしまった気がする。
 けれども、スギくんは少しも気にした様子もなく、それどころかさっきまでの企み笑顔が嘘みたいに、一転して清々しい笑顔を浮かべた。
「じゃあさ、今度からふたりっきりの時はこうしとく?」
「…………………………はい?」
 一瞬、何を言われたかわからなかった。
 ――『こう』って?
 この状態のこと?
 えぇっと、それってつまり――
 そこまで考えて、かぁ、と頬が熱くなった。
「――ムリ! むりむりむりっ、ぜったい、無理!」
 ほとんど絶叫に近い調子になりながら、目一杯、首を振った。同時に腕を突っぱねると、こういうのを火事場の馬鹿力って言うのかなぁ……がばっと身体を離すことができた。
 スギくんはきょとん、と目を瞠った後、
「――――ぶっ」
 なぜか思い切り吹き出した。
 その時になってようやく、もしかしなくてもリエはスギくんにからかわれたんだって気が付いたけど、どうもそれだけじゃないように見えるのは何故だろう。もちろん、スギくんは可笑しそうに笑ってはいるんだけど……どちらかというと、可笑しそうというより……嬉しそう?
「あー、うん、そっか。無理か。それじゃあ、しょうがないかな」
 無理強いはぼくの趣味じゃないしね? ってウィンクまでしてみせる。何だか、すごく上機嫌みたい。
「……スギくん、なんでそんなに嬉しそうなの……?」
 リエ、何か喜ばせるようなこと言ったっけ……?
 ついさっきの出来事ながらリエ自身には少しも心当たりがなくて、理由を訊いていみると、
「リエちゃんはすごく正直だよね、って改めて思い知らされて」
「…………うん?」
 やっぱり意味が分からなくて、首を傾げてしまう。
「つまりさ、無理なんだよね?」
「え? ……う、うん」
「無理なだけ、なんだよね?」
「う――」
 微妙にニュアンスを変えて、何度も訊ねてくる言葉に頷きかけて。
 ようやく、スギくんが言いたいことに気が付いた。
 否定のつもりで何度も繰り返した『無理』という言葉。
 だけどそれは『嫌だ』という意味にはならない言葉。
 ――当たり前だ。
 だって嫌なんかじゃなかったもの。
 ……本当は、本当に、すごく嬉しかったもの。
 すごく嬉しかったけど、すごくどきどきして、すごく恥ずかしくて、頭の中も気持ちも目の前も、ぐるぐる・ぐらぐら回って揺れてしまうから、だから、出てきた言葉が『無理』だったんだもの。
 けれど今更、嫌じゃないのに、嬉しかったのに、その気持ちに嘘をついて『嫌だ』なんて言えるはずもなかった。だからと言って、『無理』と言った本当のところこの意味を素直に認めることもできなくて。
 スギくんと顔を合わせることもできなくなって、俯いてしまった。
 スギくんはそんなリエを気にした様子もなく、
「それでさ。さっきも言ったけど、ぼくは無理強いは趣味じゃないんだ」
 うん。それは確かに言われたことを覚えていたから、顔を上げないままで頷いた。
「だからそれはつまり、リエちゃんに無理させる気はないってことだよ?」
 ……何となく、さっきまでのからかい混じりの言葉と違って聞こえて、顔はちゃんと上げられなかったけど、上目遣いにスギくんを窺い見るようにすると、彼はとても優しい眼差しをしていた。
「リエちゃんが無理って言うなら、無理じゃなくなるまで待とうと思うし」
 目の前に、すっと手が差し出される。
 手の平を上に向けて、お手、って言われた時と同じように見えるけど、余計なひと言がないだけじゃなく、まるでエスコートされてるみたいだと思えたからだろうか、誘われるようにリエも手を伸ばした。……まだ、少し気恥ずかしさが勝ってて、手をのせる、というよりスギくんの指の先を掴む感じになってしまったけれど。
「寂しいのなら、無理して我慢しなくていいんだよ」
 それは、とても嬉しい言葉だった。その言葉を聞いた瞬間、本当にとても嬉しくて、それ以外の言葉が思いつかないくらい嬉しかった。
「……あれ?」
 それなのに、なぜかじわりと視界が揺れた――かと思うと、熱い雫が頬を伝ってぽろぽろと零れていく。
 滲む視界の中、スギくんが慌てて手を伸ばし、零れていく雫を拭っていってくれたけど、拭われていく先からどんどん溢れてぽろぽろ零れる熱い雫を止められない。
 ――あ、そうか。きっとこれは『寂しい気持ち』なんだ。
 零れていく雫より冷たくて、触れる頬より熱い指先に、唐突にそんなことを思ったけれど、そんなに的外れではないと思う。
 これは、無理をしなくていいと言われて、あふれ出すのが止まらなくなった寂しい気持ち。こんなに溜めこんじゃってたんだ、って思うと、何だか不思議と可笑しくなった。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ。
 零れるものは、なかなか止まる気配を見せなくて。
 溜めこんでいた寂しい気持ちを出し尽くしたら、少しは寂しがりが治るかなぁって呟いたら、治らなくていいよ、とスギくんに真面目な顔で諭された。





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