空色


 ぽつぽつ。
 しとしと。
 ざあざあ。
 毎日のように耳にする音。
 そんな音が止む日もあったけれど、空を見上げてもそこに広がっているのは灰色ばかりで望んだ色は欠片も見えない。
 学校からの帰り道、お互いすっかり見慣れた傘を差したリエとさなえは、雨でしとどに濡れた町なかを並んで歩いていた。
 今日あったこと。明日のこと。彼らのこと。尽きないはずの話題がふと途切れ、聞こえる音が雨の音と、時折ピシャンと水の跳ねる音だけになる。
 今日も雨。
 天気予報によれば明日も雨。
 それどころか予報マークは雨か曇りのマークばかりが並んでいたことを思い出し、リエの視線が足元から薄暗い灰色の空に向けられた。
 雨雲の向こうに広がる、抜けるような青空が見たかった。けれどそれは遠すぎて、それがなんだか寂しく思えて、ふ、と小さく吐いた息はまるでため息のようだった。
 そのため息に気付いたらしく、隣を歩くさなえが傘を寄せて心配そうにリエを覗き込んだ。心ここにあらずといった様子でぼんやりとしていたリエは、さなえに声を掛けられるとひどく驚いて、ため息と共に俯きかけていた顔を上げた。
「リエちゃん?」
「え、あ、どうしたの、さなえちゃん?」
「わたし、このままバイトに行くんだけど、リエちゃんはどうする? お店に来る?」
 気が付けば、道はそろそろリエの家とさなえのバイト先との分かれ道に差し掛かっている。
 リエは考える素振りでほんの少しだけ首をかしげると、
「えっと……リエは家に帰るね。課題のデザインも仕上げたいし。……ケロよんはどうする?」
 肩に乗っかっているカエルに尋ねると、カエル――ケロよんも、先ほどのリエを真似しているのか『悩んでいます』と言わんばかりに腕を組んで精一杯難しい顔をしてみせる。
 リエもさなえもいったん足を止めてケロよんの答えを待っていると、やがて、ぴょん、と勢いよく顔を上げたケロよんは改めてリエの肩にしがみつき直した。
 どうやらリエと離れる気はないらしい。
「今日はリエと一緒で良いの?」
 こくこく。ケロよんは元気良く首を縦に振った。
「ケロさんに会わなくて良いの?」
 こくこく。先程よりかいくぶん勢いの増した頷きを返す。
「ふふっ、ケロさんが聞いたら拗ねちゃいそうね」
 さなえの言葉に、ケロよんが「そうかなぁ?」と言いたげに首を傾げた。
 その仕草があまりにも誰かを彷彿とさせて、リエもさなえも顔を見合わせて同時に吹き出してしまった。



「スギくんたち、今頃どの辺りにいるんだろうね」
 さなえと別れてしばらくして、リエがポツリと呟いた。
 スギとレオは日本が梅雨入りする前にヨーロッパへ出かけていた。仕事ではなく、彼ら得意の気まぐれなぶらり旅だ。どうやら「ぼくはじめじめは嫌いだ!」という叫びが双方から上がったらしい。
 ただ、ペットやナマモノの持ち込みは手続きが面倒臭いから、と、スギはリエにケロよんを、レオはさなえにケロさんを預けていった。ケロよんもケロさんもペットやナマモノ扱いにひどく憤慨した様子だったが、男性陣よりよほど丁重に扱ってくれる女の子たちにはまったく文句がなかったようで、むしろスギ、レオといる時よりよほど楽しそうにリエやさなえに引っ付いていた。
 今もここが指定席だと言わんばかりにリエの肩に陣取っていたケロよんは、リエの呟きに腕を組んで考え込んだ後、おもむろに何かの動作を始めた。
「長くて……刺さって……服を縫う? あ、針?」
 リエの答えに、「正解!」と両手でマルを作る。
「……えぇと。針が関係する国?」
 今度は「違う違う」と首を振ったケロよんは再び何かの――先ほどの『針』とは違う――動作を始めた。
「黒……茶色? で、四角くて……食べる物。……うーん……チョコ?」
 マル。ケロよんのジェスチャーは更に続き、
「チョコを……割るの? 聞く……音? パキン? え、違う? じゃあ、パリン」
 マル。
「……『針』で『パリン』が関係する国? 針……パリン……はり……」
 何度か繰り返しているうちに、はっと気付いたリエが顔を向けると、ケロよんは「わかったかな?」と期待に満ちた目でリエを見つめていた。
「もしかして……『パリ』?」
 言いたいことが通じて嬉しかったのか、ケロよんはパチパチと正解を賞賛する拍手を贈ってくれた。それから「そこじゃないかと思うけどなぁ?」と言うようにちょこん、と首を傾げてリエを見つめ返す。
「パリかー……うん、そうかもしれないね」
 納得してリエが同意の頷きを返すと、ケロよんは「そうでしょ」と満足そうに胸をそらせた。
 その様子が、彼を預けていった誰かさんにやっぱりそっくりで、リエはくすくすと笑っていた。



 家に着いたリエが郵便受けを覗き込むと、そこには今やすっかり見慣れたエアメールが届いていた。
「リエ宛だ……誰かな?」
 あて先は英語の筆記体で書かれていたため、見覚えはある気がするのだが誰の字だかいまひとつ判断が付かない。判断が付かないだけで、予想は付いているのだけれど。
 例えば、スギやレオは旅行に出かければ、必ず旅行先の絵葉書や切手を貼った手紙を送ってくれる。ベルもフランスの実家に戻った時は、日本ではあまり見かけない可愛らしい便箋で手紙をくれる。
 他にもポップンパーティで知り合ったたくさんの友達(何せ無国籍の桁が違う)のおかげで、エアメールは決して珍しいものではなかった。
 誰からだろう、と封筒を裏返してみれば、そこには雨で少し滲んでしまった『S』の一文字だけが書かれていた。けれど、リエにはそれだけで充分だった。
 予想通り、ヨーロッパ諸国を周遊中のスギからだ。
 リエは急いで家に入ると、着替えもそこそこに届いたエアメールを机に置いた。すぐに封を切ってしまうのは勿体無い気がして、小さなテーブルに置いた封筒をまずはじっくり見つめた。
 綺麗な空色の封筒に、白い文字。まるで晴れた日の空と、そこに浮かぶ雲のようで、眺めていたリエの口許が嬉しそうにほころんだ。
 封筒の厚みはそれなりにあり、持ち上げようとしたケロよんはよろめいて倒れてしまった。ちょうど封筒の下敷きになってしまいじたばたと暴れるケロよんをリエは封筒を持ち上げて助け出すと、封筒を手の平に乗せてまじまじと眺めた。手紙だけにしては重く感じる。軽く振ってもあまり音がしないことから、何かが封筒に目一杯詰め込まれているようだった。
 次に、ペーパーナイフを取り出すと封筒を開き始めた。
「――なんだろう? 写真?」
 封筒にぎっしり詰まっているのはほとんどが写真のようだ。ただ、一枚だけメッセージカードが入っており、リエは写真を見る前に、まずはメッセージカードを手に取った。メッセージカードにはなぜか写真が一枚だけクリップで付けられている。
『旅先の青空を贈ります。さすがに丸ごと封筒に詰めるのは無理なので一部を切り取っただけなんだけどね』
 メッセージに首を傾げつつリエがその下の写真を取り出すと、写真には『証拠写真』とマジックで書かれており、右手にハサミを、左手に青空の写真を持ったスギが写っていた。手にした青空の写真付近に同じくらいの大きさの黒い四角が浮かんでいて、良く見ると黒い四角と青空の写真を持った手の間に細い線がある。細い針金か何かで四角く切った黒紙を支えているようで、どうやらこの黒い四角が『青空を切り取った跡』ということらしい。
 リエは、スギくんらしい、とくすくす笑いながら他の写真を取り出した。
「わぁ……っ」
 現れた、たくさんの青に目を瞠る。
 それはすべて青空の写真だった。そのどれもが微妙に違った青さを持っていて、同じ空であるはずなのに、全部が違う空なんだ、と素直に感じられた。
 写真の裏には日付と時刻、それから撮った場所が書き込まれていた。ただし、国名は省略されていて、書かれているのは町や山や川――地名だけだ。何となく、名前の雰囲気で大まかな国はわかるような気がしたけれど、ほとんどの地名が欧州のどの辺りになるのかさっぱり分からない。
 ――後で地図で調べてみよう……図書館に行ったほうが良いかなぁ。
 そんなことを頭の片隅に思いながら、リエは久しく目にしていなかった色鮮やかなたくさんの青に魅入っていた。



 青空が届けられてから数日後、天気予報に反して空は久しぶりに目が覚めるような青を広げていた。
 日差しは暑いくらいだが風は涼しく、出かけるのに絶好の天気だった。久々の傘を差さずに出かけられる日、リエはケロよんと一緒にお気に入りのカフェテラスにいた。
 前に青空の下でカフェオレを飲でんからずいぶん日にちが経ったように感じる。実際は一月も経っていないものの、今日のような青空を待ち焦がれていたリエは気持ちよさそうに背伸びをし、思い切り初夏の空気を吸い込んだ。自然と空を見上げるような体勢になり、視界いっぱいに広がる綺麗な青空にリエの表情が嬉しそうなものに変わった。
「……あれ?」
 じー、と空を眺めていたリエは、なんだかその青空に見覚えがあったような気がして首を傾げる。もちろん、梅雨入り前には何度も見てきた青空だったけれど、そうではなくて、もっと最近目にしたような――
 そこまで考えて、はっと気付いたリエはカバンから青空の写真が入った封筒を取り出した。
 たくさんの写真の中から見つけた一枚を取り出すと、それを天に掲げてみる。
 手にした色は、写真の向こうに広がる空の色とまったく同じ色だった。
「……わぁ」
 手の中の事実に、陽射しのせいではなく身体が火照る。
 ここではない場所で、今ではない時間、あなたがいた空の色。
 今、同じ色が自分の上に広がっている。
 それは、どんなに離れていたとしても、それでも同じ空の下にいるという確かなしるしで――そのことが、そんな当たり前のことが、何よりも嬉しくて。
 晴れ渡る青空の下、笑顔の花が咲いていた。





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