幸せ未来計画
今やすっかり通い慣れた雑貨屋さんのドアを開く。
ドアに飾られていた鈴がチリンと鳴って、その鈴の音に誘われるように奥から覗いた顔は、これまたすっかり顔なじみとなったこのお店の店員さんにしてポッパー仲間のさなえちゃんだ。
「いらっしゃいませ――あら、スギくん。こんにちは」
「さなえちゃん、こんにちは。こないだ注文したやつ、届いたんだって?」
「ええ。……あ、でも、まだ届いてないものもあるんだけど」
「そうなの? んー……だったら、とりあえず届いてる分だけでも先にもらってくよ」
「それならすぐに出してくるから、ちょっと待ってもらえるかしら?」
軽やかに踵を返したさなえちゃんが、レジの向こうに見える棚(確か、取り寄せ品とか取り置き品を置いておく棚だ)へ向かおうとした時、ぼくの背後で再びチリン、リン、と鈴の鳴る音が聞こえた。さなえちゃんが足を止めて振り返るのに倣って、ぼくも背後に目を向けた。振り返った先には新たな人影。どうやら来客のようだ――いやまあ、今のぼくだって似たようなもの、というか立派に『お客さま』なわけなんだけど。
先客(ぼくのことだ)の姿にお店に入ったばかりのお客さんが躊躇する気配を感じて、ぼくはさなえちゃんに、こっちのことは後回しでいいよ、とジェスチャーで示すと、店の奥へと入っていった。
「――いらっしゃいませ」
「あのー……お訊ねしたいことがあるんですが、ちょっといいですか?」
「はい、どうぞ」
「えっと、表に飾られてるのと同じものって、売ってるんですか?」
「はい。すぐにお出しできるものとお取り寄せになるものがありますけど……」
さなえちゃんの接客の様子を背後に聞きながら、ぼくが目指す先は喫茶コーナー。
喫茶コーナー、と呼んでいるけれど、その一角の本来の用途は小さな椅子と小型のテーブルが置かれた、カタログを見るためのスペースだ。それなのになんでそんな呼び方をしているのかと言うと、店内に顔見知りの客(言わば友人)しか居ない時にはさなえちゃんが特別にこっそりお茶とかご馳走してくれるので、仲間内で喫茶コーナーという呼び方がすっかり定着しているためだった。
どうせ待つならぼーっと立っているより、椅子に腰掛け、来る途中の自販機で購入したコーヒーでも飲みながら待ってようかと思っていたら、そこにも人影があった。その人影はカタログでも見ているんだろう、ぱらぱらと紙の捲られていく音がやけに響いて聞こえる。
一瞬、相席はちょっと気まずいかな、と思ったけど、すぐにその人影が良く見知った女の子だと気が付き、向かう足取りが心なしか軽くなったような気がした。
「……リエちゃん?」
呼びかけると、ふわふわの髪の毛がびくりと揺れて、次にきょろきょろと辺りを見回し始めた。ぼくは別に隠れていたわけじゃないから、彼女の首が左右を二往復する前にばっちり目が合う。驚いた顔が嬉しそうな笑顔に変わっていくのをこそばゆく感じながら、「こんにちは」と片手をあげて挨拶した。
「スギくん、こんにちは。……えぇと、いらっしゃいませ?」
「うん。いらっしゃいました。リエちゃんもいらっしゃいませ」
「あ、はい。お邪魔してます……って、スギくんがいらっしゃいませっていうのはおかしいような」
「いや、それを言うならリエちゃんのいらっしゃいませも変でしょー」
「そっか。それもそうだね」
そこであんまりにもリエちゃんが真面目に頷くものだから、ぼくは思わず苦笑しながら、彼女の向かいに腰掛けた。
小さなテーブルの上で広げられたカタログは、家具のページが開かれている。それも、大きな棚だの広いテーブルだのと大型のものが並んでいるページだった。
「どうしたの? 模様替え……というよりは、何か壊れたから買い直しとか? それともまさか引越しするから家具を買いなおそう、とか?」
「あー、えっと、違うの。全然そういうのじゃなくて」
言い掛けて、言葉が止まる。どうしたのかとカタログから視線を上げると、リエちゃんは小さく欠伸をかみ殺していた。
「おや。寝不足かい?」
「うん……睡眠時間は充分なはずなんだけど……ちょっと、夢見が……」
リエちゃんは心なしか肩を落として、ため息とも欠伸ともつかない息を吐いた。夢見が良くなかった――つまりは、悪かったと言う割には、リエちゃんからあまり深刻な印象を受けないので、少なくとも悲しい夢とか辛い夢ではないのだろうとだけ当たりをつけたぼくは、
「どんな夢だったか聞いても良い?」
軽い調子で訊ねてみたけれど、これでも八割九割は「心配」で構成された質問だ。
ぼくの言葉にリエちゃんは「いいよ」とあっさり頷いた。
「夢の中で、リエは真っ白い所にいるの。空も白くて、地面も白くて。……うん、踏みしているから足元には地面があるはずなのに、遠くを見れば見るほど地平線も何も見えないから、ちゃんと立ってるのか、もしかしたら浮かんでるんじゃないかって思っちゃうくらい、そこは真っ白な世界だったの。でも、モノクロの夢って言うわけじゃなくて、リエにはちゃんと色があって、着ている洋服もいつもの洋服だったんだけど」
「…………はあ」
何と答えて良いかわからずぼくは曖昧に頷いた。リエちゃんはそんなぼくの様子を気にしていないのか、それとも気付いていないのか、時折、手の甲で目を擦る仕草が思いのほか幼く見えて、つい緩みそうになる口許をぐっと引き締める。
リエちゃんが語る彼女の寝不足の原因となった夢の内容が予想外で、正直な所、ぼくは困惑していた。ぼくは別に夢占いを商売としているわけでもないし、そういったものに詳しいわけでもないから、リエちゃんの夢の意味なんてわからないけど――
――天と地の境目すら曖昧になるくらいの、白に埋め尽くされた世界で……一人きり。
それは、なんだかとても彼女らしくない、ずいぶんと寂しい夢に思えて。
けれど、ぼくのそんな感想も、リエちゃんの次のセリフであっという間に吹き飛んでしまった。
「それでねぇ、もう、すっごい大変だったの」
「…………はい?」
心なしか、頬を膨らませ、どことなく憮然とした表情を浮かべるリエちゃんの言葉に、話題の前後の繋がりが見えないぼくは呆気にとられ、勢いに飲まれた頷きを返すのが精一杯だった。
「真っ白な世界――って思ってたら、実はそこは天井も床も壁も、全部が白い部屋で」
それからリエちゃんは、夢だから理由とか過程とかまったくないのは当たり前だと思うんだけどねぇ、と小さく苦笑を浮かべ、
「『そうだ、今日はお店の開店日なのに、全然準備ができてない!』って思い出して大慌て。何せ、お店の準備どころか窓もドアもないから早く取り付けなくちゃいけないし。あ、でも夢のご都合主義のおかげかな? 早く用意しなきゃ、って思ってたらリエがこれまで作った洋服だけじゃなくて、まだデザイン画にしかしてない洋服もどんどん出てきてね、しかもさっきまで何もなかったのに、洋服を並べようとしたら台とか棚とかマネキン人形が普通にあったから、急いで並べたり飾ったりして。それに、絨毯だとか、壁紙だとか……もちろん、窓とかドアのデザインもね、こんなのがいいなぁと思ったら、白い部屋がどんどん思い通りになっていくの。だから普通なら眺めるだけの高そうな絨毯とかカーテンとか、テーブルとか……すごい贅沢しちゃった」
そこまで話して、リエちゃんは楽しそうに目を細めた。けど、すぐに表情が一転して、疲れの色が滲むため息を吐くと、
「でもねぇ……やっぱり、リエひとりだと思うように進まないし。洋服がたくさんあったのは良いんだけど、飾ったりしていくのが間に合わなくて、時間がないー、ってばたばたしながら、結局準備ばっかりでお店を開ける前に目が覚めちゃったんだ」
「あー……それは……ご苦労、さま?」
最後まで聞いてみれば、なんとも彼女らしい、まるで未来の予行練習のような夢の内容に、安堵交じりの苦笑が零れた。
――ああ、だから白だったのか。
白い夢は、色の――何もない世界ではなくて、何だって思い描ける白紙の未来だったということか。
「でもさ、夢とは言え開店準備にそれだけ苦労したなら、次はもっと上手くできるようになるよ」
「……そう、思う?」
「もちろん」
『次』があるのが、もう一度夢の中の出来事であっても、きっとそう遠くないだろう未来――夢を叶えた時の出来事であっても。
絶対と断言してもいい確信を持って頷くぼくに、リエちゃんは嬉しそうに口許を綻ばせ、
「……うん。リエもね、もう準備だけで終わらないように――それと、もっともっと素敵なお店にできるように、って思って」
ぱらり、と捲られるページに、彼女がカタログを見ていた理由を悟る。早速、夢で得た教訓を生かすために、未来のお店のレイアウトを考えていたのか。
どんなお店にしようとしているか興味を覚えて、ぼくも一緒になってカタログを覗き込みながら、
「それで? 今のところ、リエちゃんは店内をどんな風にする予定なの?」
「あ、うん。広さはここの半分くらいあると嬉しいんだけど、やっぱりもう半分くらいになっちゃうかな? 窓はこんな感じのにして、カーテンは明るい色合いがいいから、これとか。お店の真ん中にはこの棚を持ってきて……」
楽しそうに話す声を聞きながら、捲られていくページごとに指差される家具をひとつひとつ追いかけて、リエちゃんの言葉通りにそれらが置かれた部屋を思い浮かべていく。それこそ、先ほどの夢の話のように、何も浮かんでいなかった真っ白な空間に次から次へと物が置かれ――何ともリエちゃんらしいと思える店内の光景が浮かび上がってくる。
「それとねぇ……座っておしゃべりができるように可愛い椅子とか……さなえちゃんはこういう椅子、好きかなぁ?」
ふと、聞こえてきた名前にカタログから顔を上げた。真剣な表情でカタログを見ているリエちゃんは、ぼくが顔を上げたことには気付いてないようだ。それに、と小さく首を傾げ、
「レオくん用に喫煙スペースってあった方がいいかな? でも、洋服にタバコの匂いがついちゃうと困るし」
そこで、ようやくじっと自分を見つめるぼくに気付いたリエちゃんは、どうしたの、と首を傾げた。
「え……あー、うん。レオに気を遣う必要はないんじゃないかな。まったく。ミジンコほども。むしろ店内禁煙でいいよ。代わりに『チョコOK』ってなってれば文句言わないだろうし。んーと、その代わり『チョコを食べた手で服に触れないでください』とかそういう張り紙は必要だと思うよ」
ぼくの提案に、リエちゃんは小さく吹き出した。くすくすとひとしきり笑った後、
「でも、そうすると、今度はお店の中がチョコの香りでいっぱいになるのかな」
「あー……それは否定できないね……甘いの苦手な人には酷な空間だね……ダイエット中の人にもね」
もっとも、ダイエット中はともかく、リエちゃんのお店に来る人で甘いものが苦手な人なんてそうそういないだろうと思うけど。いや、単なる偏見だけどね。
「それとね、スギくんが来たとき用に、コーヒーメーカーと冷蔵庫を置いておくつもりなんだ」
その、本当にごく当たり前みたいに繋げられた言葉に、ぼくは何だか無性に胸がいっぱいになって、
「……うん。ありがとう」
思わず真面目にお礼を言ってしまった。むしろリエちゃんの方が慌て出して、顔を真っ赤にすると、
「え、あ、えっと、もしもお店を出したら、っていう仮定の話で」
「うん。それはもちろんわかってるけど」
意識しなくても自然と口許が綻ぶのを感じる。湧き上がる思いのまま、優しい表情ができていれば良いと思う。
それは、今すぐに、という話題ではなくて、それどころか実現すると決められたわけでもない不確かな――けれど、確かに訪れる未来の話で。
だからこそ、君の未来に当たり前のようにぼくらが居ることが、何だか無性に嬉しかったんだ、と。
そう告げる代わりに、もう一度、ありがとう、と言葉を乗せた。
リエちゃんは真っ赤になったままの顔を俯かせ、あー、とか、うー、とか所在無げ呟いていたけど、唐突に顔を上げて、
「そ、そういえば、さっきの夢の話なんだけどね。すっごく大変だったの。それなのに、スギくんたら」
照れ隠しが見て取れる急な話題転換よりも、そこに出てきた自分の名前にぼくは目を丸くした。
「え、ぼく?」
「うん。リエが急いで準備している最中に来ちゃうんだもん」
いや、そんな、夢の中に出てきたぼくの行動にまでぼくは責任持てないよ……。それとも夢に出たことを喜ぶべきか。いや、そもそもぼくじゃない『ぼく』の分際で、勝手にリエちゃんの夢に出没するとはなんたることか、って腹を立てるべき?
……いや、自分でも何を言ってるんだか何を言いたいんだか。
とりあえず、念のため確認はしておいた方が良いだろう。
「えっと、それ、ほんとにぼく?」
「うん。あの足音とドアの叩き方は絶対にスギくんだったもん」
「…………」
ぼく自身を見たわけではなくて、足音とノックの仕方、そんなことで判別してもらえて、どことなく照れくさいような……いや、嬉しいんだけど。あぁ、でも。リエちゃんが大変なとき真っ最中に、何を暢気に訪ねてるんだ、『ぼく』……リエちゃんの夢の中の『ぼく』に文句を言うのは筋違いだとわかっていても、やはり恨めしく思ってしまう。
大体、そんな時、ぼくなら――……
……………………ぼくなら?
『ぼくなら』。
そんなことを考えていたら、すとん、と胸に落ちてくるものがあった。
リエちゃんの夢に出てきた『ぼく』は、ぼくじゃない。でも、リエちゃんがそれは確かにぼくだったというのなら。
「スギくん、外で待ってるから早くドアを開けないと、って思ったけど、でも部屋の準備も終わってないし」
「――それはね、開けて良かったんだよ。というか、むしろどうして開けてくれなかったの、というか」
「……スギくん?」
「だってお店の飾り付けだろ? ぼくも一緒にやりたかったなぁ。ぼくだったらさり気なく年代物のいいギターを飾ってみたり? お店で流すのにぴったりのおすすめレコードだってあるのに」
ちなみに、コーヒーメーカーはこれがオススメです、とカタログをめくって見せる。
「今度から、そういう時は呼んでね。一緒にやろう」
「でも、スギくん」
「嫌かな?」
ぼくの言葉に、リエちゃんはすごい勢いで首を振った。せっかく綺麗にまとまっていた髪がもったいない。ぼくは手を伸ばしてリエちゃんを止めると、彼女のふわふわの髪を撫でるように手で梳いた。
リエちゃんは撫でられるまま、俯き加減に大人しくしていた。しばらくして梳き終わったぼくの手が離れると、
「スギくん……本当に?」
呼んで良いの?
迷惑じゃないの?
期待と不安と心配で揺れる眼差しに、ぼくはしょうがないなぁと小さく笑った。引き戻した手をもう一度伸ばし、宥めるようにリエちゃんの頭を、ぽん、ぽん、と軽く叩く。
「良いも何も、呼んでね、ってお願いしてるんだけど」
当たり前のように君の未来にぼくがいるのなら、一緒に未来を描いていきたいと想うから。
絶対だよ、と小指を差し出すと、一拍置いて、リエちゃんの小指が絡められた。「ゆびきりげんまん」とどちらともなく呟いたまじないの言葉は、奇しくもふたり同時で、ぼくらは顔を見合わせてこれまた同時に吹き出した。
それからは、カタログを挟んで、まだ見ぬお店の内装に、ふたりであーでもないこーでもないと話し込んでいた。
ぼくらはすっかり話に熱中して気付いていなかったけど、その頃にはレオもお店に来ていたらしい。
さなえちゃんにこっそり耳打ちしていたそうだ。
「なに……あそこにいるまるで新居の間取りを相談している新婚さんもどきは」