季節時計
何気なくカレンダーに目をやると３月になっていた。
もしや、と思ってテレビをつけると、案の定、春一番だの桜の開花予想だのという話題が飛び交っていた。
「ということは……もしかしなくても、今って……春？」
「スギ……引きこもりが過ぎて、ついに曜日どころか季節までわからなくなってしまったのか……」
ついうっかり口をついて出たぼくの独り言を耳聡く聞きつけたレオが、しみじみとした口調で失礼極まりないことを言ってきた。ご丁寧に、読んでいた新聞から顔を上げ、チョコを齧るのまで中断して、泣き真似までしてみせる。
――というか、何なんだ、その「惜しい人を……」って。聞こえてるから。むしろ聞かせるつもりが満々か。勝手に人を故人扱いするようなこと言うな。
いや、それより何より、
「待て、レオ。誰がいつ引きこもったって言うんだ」
「スギが。つい今さっきまで。引きこもってたじゃないか――新曲作りのために」
「確かにそれは何ひとつ間違ってないけどさ。何だかさっきの『引きこもり』発言とのニュアンスの違いをひしひしと感じて仕方ないんだけど？」
「えー？ 気のせいじゃないー？」
「大体、新曲作りのための引きこもりだったら、レオも条件は同じだろ。つまりレオだって立派な引きこもりってわけだ」
「…………」
「おーい……レオ？」
「…………」
「……返事がない。ただの屍のようだ」
「…………」
途中からぼくとの会話に飽きたらしいレオは、再び新聞に視線を落としてチョコを齧り始めていた。返事がないのは会話よりチョコを優先させているためだ。普通なら「ぼくはチョコ以下か」と怒ったりするところかもしれないが、何せ相手はレオだ。レオにとって、チョコより優先順位の高いものなどそうそうありえない。
だからといって、腹に据えかねるものがないかと言えばそんなことはないので、ぼくはうっかり手にしていたダウンジャケットをレオの頭の上に放り投げた。まったくの予想外――というより、意識が完全にチョコと新聞に向いていたせいだろう、ダウンジャケットはものの見事にレオの頭に被さった。「うぉわはひゃあ！？」と珍妙な叫びが上がったかと思うと、次にはバサバサと紙のばら撒かれる音――新聞が落とされて床に広がった。
「――ぶっ！？ なに、コレ！？ 一体ナニ！！」
これにはさすがにレオも慌てて頭全体を覆うダウンジャケットを取ろうと猛然ともがき始めたけど、片手はチョコに塞がれているせいで、残ったもう片方の手だけでは上手く取れないようだった。
チョコを（何も投げ捨てろと言うわけでなく）一旦横に置くとかして両手を自由にすれば簡単に取れると思うんだけどな……言わないけど。何せチョコが絡んだレオとなると、わかってないのか、わかっているけどチョコにそんな真似はできないとか常人には理解し難い意味不明な理由であえて手に持ったままなのかが、微妙な所だし。
「じゃあ、ぼくは出かけてくるから」
「は！？ ちょっと待って、スギ！？ 出かけるならこれ取ってから行け！！」
「えー？ この季節の変わり目に起こりやすい、天候や気温の著しい変動によって相棒が風邪を引いたりしないように、と言う心遣いだよ？」
「うわ、白々しく嘘くさッ！！」
「あっはっはっは。じゃ、行ってきます」
「スギーッ！！」
最後までもがもがと蠢き続けるレオに背を向け、家を出る。
――うん。ちょっとは溜飲が下ったかもしれない。
半ば勢いで家を出てきたため、約束の時間よりずいぶん早く待ち合わせ場所に着いてしまった。
手近なベンチに腰掛けて空を見上げる。
「……春、ねえ……？」
言われてみれば、陽射しがずいぶん暖かくなって、空の色もずいぶん柔らかくなった気がする。
ここに来るまでに、町中では何度も「春」という文字を見かけた。
ぼくもそうだけど、コートとかジャケットを着ていない人の姿も頻繁に見かける。
――けれども、どうしても、
「…………春……？」
納得できなくて――頭では理解できているのに、どうしてかちっとも実感が湧かなくて、ぼくは首を傾げた。
そりゃまあ、少なくとも冬でも夏でもないとは思うんだけどさ。
そんなことを考えていたら、
「……スギくん？」
聞こえてきた声につられて空を見上げていた顔を戻すと、いつの間に来たのか、リエちゃんが目の前に立っていた。
「びっくりしたぁ……スギくん、ずいぶん早いねぇ」
最初、驚いた表情をしていたリエちゃんは、すぐに花が綻ぶような、ふんわりって効果音が似合う笑顔を浮かべた。
それを目にした瞬間、すとん、と胸に落ちて来るものがあった。
それから同時に、納得もした。
「……春が来た」
「――はい？」
ついさっきまで全然そんなことなかったのに、今なら素直にそう思える。いや、少し違うか。今なら、じゃなくて、今だから。それは、つまり――
「………………うわぁ」
辿り着いた結論に、参ったなぁ、と思わず苦笑。
さっきから、彼女にとっては意味不明だろう呟きの連続に、リエちゃんはすっかり戸惑っていた。
「え？ なに？ どうしたの、スギくん」
答えないまま、彼女の装いを指差すと、リエちゃんはちょっと困ったようにスカートの裾をつまんで、
「？ えぇと、春らしくって思って……変かな？」
桜色のワンピース。
純白というより、淡くクリーム色に色付いたカーディガン。
柔らかな陽射しを受けて、いつもよりオレンジがかって見える茶色の髪には、ワンピースとおそろいの桜色のリボンが揺れている。
これでさっきの笑顔が浮かんでいれば完璧だったんだけど、今現在リエちゃんに困った顔をさせている原因はぼくなんだから仕方がない。
「……スギくん？」
「――あー、いやいや。春が来たなぁ、って思って」
ぼくがしみじみと言うと、リエちゃんはきょとんとして、
「リエの服で？」
「春の装いのリエちゃんで。そうか、そうだよね、春なんだよなぁ。ほら、ここのところしばらく会えてなかったから、一番最近の記憶のリエちゃんがまだ冬服だったもんで」
「え？ え？」
「うんうん。いやー、やっぱりリエちゃんが衣替えすると、その季節になったなぁ、って思うよ」
「えぇと、リエが衣替えしなくても、桜とか、ひまわりとか、紅葉とか、雪とか、季節ものっていっぱいあると思うんだけど……？」
「そうなんだけど、どうも実感が湧かなくてさ。いやー、春だねぇ」
ぼくはようやく、今が春だということを実感して感慨深く頷いていた。けれども、晴れ晴れとしていくぼくの内面とは裏腹に、リエちゃんの表情は困惑の色合いが深まっていた。
「あの、スギくん？ なんだかその話って、リエが夏になっても春服のままだったら、スギくんは夏が来たってわからないって言われてるような」
「うん、まったくもってその通りだ。反論できないね！」
「えええ！？ リエだって、気分で選んだりしてるだけから……そんな、はっきり春が来たとか、夏が来たとかわかってるわけじゃないよ？」
「いいんだよ、それで。ぼくが勝手に実感してるだけだし。なんていうか…………」
何と言って良いか咄嗟に思いつかず、言葉が途切れる。
「……時報？」
「スギくんに季節を知らせる？」
本当は、ちょっと違うんだけど。
君は春を知らせてくれたんじゃなくて、春を届けてくれたんだってこと。時報どころか、君自身が春だった――そのことに、さっき気がついた。思い知らされたんだ。
――だから、春だってことがわからなかったんだ、って。
さすがに思ったままを素直に言うと、リエちゃんをきっとますます困らせてしまうだろうから――けれどもいい言葉も思い浮かばず、ほんの少しだけ意味合いを変えた言葉にすり替えた。それでもやっぱり、リエちゃんを困らせるには充分すぎる言葉だったようで、
「なんだか、責任重大……」
何となく途方に暮れた表情に見えるのは気のせいじゃないんだろうなぁ。
ぼくとしては困らせたいわけでも、深刻になって欲しいわけでもなかったので、できるだけ軽く聞こえるように、
「ははは。まあ、そんな気負ったりしないで――」
ただ、一言だけさり気なく付け加えた。
「――今後ともよろしく」
だって、きっともう、君がいないと季節は巡ってこないから。
季節の感じられない毎日なんてまっぴらごめんだ。
だから、今後とも。
夏も、秋も、冬も。そうしてまた次の春になって、そうやって、何度も巡ってくる季節に出会えるように。
よろしく、と差し出した手を、リエちゃんはきょとんとして目を瞠った後でぎゅっと握ってくれた。それから、花のような笑顔を見せてくれる。
――今後とも、これからも、ずっと。
その言葉が示すところの意味を、そしてそこに込めた想いがどこまでちゃんと伝わったかわからないけど、頬がほんのりと桜色に染まって見えるのは、春だからというだけじゃないはずだ。