病は気から


 ぼんやりと天井を眺めていたら暢気な問いかけが降ってきた。
「スギー、生きてるー?」
“……死んでる……”
 ぼくは息も絶え絶えになりつつ何とか答えようと口を開いたけれど、苦労の甲斐もなく口を動かすだけで終わってしまう。その上、たったそれだけのことで咳き込でしまいそうになり、思い切り顔をしかめた。
 息を吸って吐く、当たり前のその動作だけで痛む喉。更にうかつに声を出そうとすれば声の代わりに咳が出るし、そうなればもちろん喉は痛いしで。しかもそれだけ大変な思いを乗り越えても、ぼくの喉から出るのはひゅーひゅーと空気の漏れる音ばかりなのだから余計に気が滅入って仕方ない。
 身体はだるく、加えて節々が痛い。そして熱を測れば近年まれに見る記録的な数値を叩き出す始末。
 ――つまるところ、ぼくは風邪をひいていた。
 これがもう、困ったことに風邪。まごうことなく風邪。ありえないことに風邪。
 滅多にない出来事にそれなりに心配してくれてはいるのか、レオも彼にしては珍しく結構気を遣ってくれている……のは、いいんだけど。いや、飲み水とか替えのパジャマを持ってきてくれるとかはもちろん嬉しいんだけどさ、寝込んでいる病人にホットチョコレートってどうなんだ。
 まあ、チョコはある種レオの優しさのバロメーターだっていうのはわかっているんだけど。だからといって現状のぼくに出されても困るよ。そもそも病人に差し出す代物ではないっていう一般常識を持ってくれ。
 もっとも顔を合わせればレオは呆れた様子を隠しもしない。今も暢気な問いかけと共に人を覗き込んで来る顔は、どう贔屓目に見ても人を小馬鹿にしているようにしか見えなかった。とは言え、話している時の声音やら声の調子を取り除いて文面のみを追ってみれば、実は結構優しい言葉を掛けてくれている……ような気がしなくもないのは気のせいではないはずだ、と思いたい。しかし残念ながらこの感想は、高熱に浮かされている現状では熱による幻聴とか思考回路の低下による判断ミスという可能性も非常に高かったりするので注意が必要だ。
 今も、すっかりぬるくなった冷えピタをぞんざいに取り替えてくれながら――感謝すればいいのか文句を言っていいのか迷う手つきだ――、一応は慰めと思われる言葉を掛けてくれる。
「……まあ、ライブを筆頭に仕事が一段落した後でひいてる分、マシなんじゃない?」
 ああ、うん、それはまったくその通りだと思うよ。
 いやまさか相棒の慰めの言葉がこんなに心に沁みる日が来ようとは、ちょっとどころかまったく夢にも思ってなかったよ。慰めじゃなくて単なる嫌味が多分に含まれていたのかもしれないが、少なくとも現状のぼくは気付かなかったので、とりあえず親切心と受け取ることにしようと思った――が。
「ま、ぼくはせっかくのオフに家で寝てるだけなんてまっぴらだけどね。ちなみに今日のぼくの予定はこれからさなえちゃんとデートだったりします」
 ……自慢か。それは間違いなく自慢か。
 その瞬間、ぼくは確信した。奴に親切心なんてまったくない。いや、たとえあったとしても感謝してやる義理はまったくないのだ――と。
 おのれいっそ風邪を移してやる、って思うものの、思ったからって即座に移せるわけじゃないのがこの世界のままならないところだろう。
 それ以前に、天井をぼんやり眺めるくらいしかできないぼくには、そんな薄情な相棒に殺意を抱く気力さえなかった。
 ――なんてこった、これは重症。
 そんな自分に少なからずショックを受けていると、
 ――バンッ!
 突然聞こえてきたのは、ドアを勢いよく開いた音だった。何事かと起き上がろうとしたけれど、意思に反して思ったように身体は動かない。辛うじて首だけでも動かして見えたものといえば、玄関を見遣って「早かったなー」などと呟いている(更によくよく見ればすっかり外出準備を整えている)レオの姿のみだ。
 レオはぼくの視線に気が付いたのか、一瞬ぼくを見下ろすと口の端を吊り上げて、今にも「ニヤリ」という擬音が聞こえてきそうな――もの凄く意地の悪そうな、どころか間違いなく意地の悪い――笑みを浮かべて見せた。
 レオの方から何が起こったのか、あるいはレオが何を企んだのか説明する気はないらしい。しかし、何が起こったのか――レオがなにをしたのか、すぐに判明することになった。
「――スギくんっ!?」
 悲鳴一歩手前の声が聞こえてきたかと思えば、間を置かずにばたばたと駆け込んでくる足音が響く。
 いくら熱があって朦朧としてるところがあるといっても、それが誰の声かわからないはずがない。
 よほど慌てたのだろう、常の彼女らしくもなく、乱れた髪を整える様子もない。大きな瞳は涙に揺れて、笑顔が似合う顔は今にも泣き出しそうだった。
 ――ちょっと待て、レオ。お前、リエちゃんになに吹き込んだ。
 レオを睨みつけると、レオはわざとらしく視線をそらせ、実に胡散臭い笑顔をリエちゃんに向けた。
「いやー、早かったね、リエちゃん」
「……え、と……あれ? ……レオくん、スギくんは……?」
「あー、うん。風邪。熱が高くて、ついでに喉もやられて、今は声が出ないみたい。――というわけで、ぼく、これから出かけるから後のこと頼んでいい?」
「……え? うん……?」
「いやあ、助かるよ。ちなみに薬はテーブルの上で、スポーツドリンクの予備は冷蔵庫にまだ何本か入ってるから。あと冷えピタも。お腹壊してるわけじゃないし、面倒だから湯冷ましなんて作ってないけど、必要だったらその辺のヤカンとか鍋とか適当に使っていいからさ」
 半ば押し切られる形で、それでも間違いなくリエちゃんが頷いたのを確認した後、レオは「じゃあねー」と手を振りながら、軽い足取りで出て行った。
 その後ろ姿を呆然とした様子で見守っていたリエちゃんは、なぜか恐る恐るぼくに顔を向けた。
「スギくん……?」
 ――こくり、と頷きを返す。
「スギくん、お腹、痛くない?」
 ――こくり。痛いのは喉と間接だし。
「……腕、二本だよね……?」
 ――……こくり?
「あの……リエのことは、わかる?」
 リエちゃんに頷きを返しつつ、喉だけではなく頭も痛くなりそうな気がした。当然、そうなった場合の頭痛の原因は風邪ではない。
 ……いやほんと、お前どんなデマを吹き込んだんだよ、レオ。



 レオから流された情報の大半がデマだと知った――なにも言われたこと全部信じなくても……リエちゃんらしいけど――リエちゃんは、まず正確な現状を知るべくぼくの熱を測ろうとして早々にぶち当たる羽目になった壁――体温計が見当たらないという現実に困り果てたようだった。……いや、これでも時々様子を見つつ熱を測っていたから、どこかに体温計はあるはずなんだけど……レオが適当に片付けたものを的確に見つけることができる人なんて、ぼくはさなえちゃん以外に知らない。
 結局、体温計を探すことはあきらめた様子のリエちゃんは「ちょっとごめんね?」と断ると、額に貼られた冷えビタを取り、汗で額にへばりついたぼくの前髪をかき上げ、そのまま柔らかい手の平を上にのせた。もう片方の手はリエちゃん自身の額に当てられている。
 ――おでことおでこで、ごっつんこ……じゃないのか。ちょっと残念。
 なんて軽口も叩けず、ただ額にのせられた手がひんやりと気持ちよくて、気が付けばぼくは目を閉じていたらしい。
 何か言いかけて言葉を呑み込む気配と、それから額に当てられていた手が離れようとする感触に、ぼくは反射的に目を開いていた。
「あ、ごめんね、スギくん。起こしちゃって」
 “平気、起きてたから”
 声が出ないから、リエちゃんには口をもごもご動かしただけにしか見えなかったんだろう。彼女は考える素振りを見せて、
「……お水?」
 その答え自体は間違っていたんだけど、言われてみれば喉が渇いているような気がしてきたので、結果オーライとばかりにぼくは頷きを返した。
「うん、わかった。ちょっと待っててね!」
 真剣な顔で頷いた後、ぱたぱたとキッチンに駆け込んでいく後ろ姿。
 いやあの別にそんな切羽詰って必要なわけじゃないんだけども……。
 一生懸命な姿があんまり彼女らしくて、思わず吹き出してしまった。もちろんすぐに咳き込んでしまったけれど。
 ――あぁ、そう言えば……。
 風邪を引いてから、こんな風に笑うこともなかったな、ってことに気が付いた。
 ……自覚していた以上に、相当風邪にやられていたらしい。不覚だ。
 そんなことを考えていたら、無意識の内に気難しい顔になってしまっていたらしい。スポーツドリンクを片手に戻ってきたリエちゃんは驚いた表情を浮かべたかと思うと、すぐに心配そうにすぐ傍まで駆け寄って来た。
「どうしたの? どこか痛い? それとも気持ち悪くなったとか……」
 “大丈夫、なんでもないよ。ちょっと考え事してただけだから”
 ぼくは慌てて否定するものの、早口な上に長めのセリフだったためいまいち上手く伝わらなかったようで、リエちゃんの表情は晴れないままだった。
「『だいじょうぶ』? 本当に?」
 それでも最初の一言は伝わっていたようだ。
 ぼくは肯定の意味を込めて何度も頭を縦に振った。リエちゃんも何とかそれで納得してくれて、「よかったぁ」と呟くと大きく息を吐いていた。
 そんなに心配してもらうほどひどい風邪でもないんだけど……やっぱり最初のレオのデマが尾を引いているんだろうか? ひどい頭痛に襲われそうだから、今は内容を知りたくないけど、風邪が治ったら訊いてみようか……やっぱり怖いような。
 想像するだけで頭痛がしそうだったので、リエちゃんをこれ以上心配させないためにもこれ以上の推考は打ち切って、持ってきてもらったスポーツドリンクを受け取る。自分としてはちょっと喉が渇いてるかな、くらいの気持ちだったんだけど、いざ水分を口にするとあっという間に500mlのペットボトルの中身を飲み干してしまった。
 その後は特にすることもなく、ぼくはベッドで寝てるだけ。いや、今現在のぼくは病人なんだから当たり前のことだけど。
「スギくん、何か音楽聴く?」
 コンポを指差しながら訊いてくるリエちゃんに、ぼくは首を振った。声が出れば子守唄歌ってよ、ってわがままを言うんだけどな。
 代わりに片手をリエちゃんに差し出して、ぼくの手につられて伸ばされたリエちゃんの手を握る。目を瞠って固まってるリエちゃんが復活する前に、ぼくは目を閉じて寝る体勢に移った。
「え、あの。スギく……っ」
 思った通り。
 なんだかうろたえた調子の声は、眠ろうとするぼくに気を遣ってだろう、尻すぼみに途切れた。
 我侭を言えない分せめてこれくらいは態度で示さないとね。うんまあ、病気になったら我侭を言わないといけない、なんて決まりはなかったような気もするが、きっと気のせいに違いない。
 ――などと考えている間にも、ぼくの意識は少しずつまどろみ始めていた。
 閉じたまぶた越しに感じる光も徐々に気にならなくなってきて――それは、眠りに落ちる寸前。
「……おやすみなさい。早く元気になってね」
 いつの間にか真っ暗になった視界の中、囁くように潜められた声と、額に一瞬だけ感じた、手の平とは違った柔らかな感触。
 ――ああ、もう、それは反則だろう。
 ……いや、自分でも何がどう反則かよくわかんないけど。
 ただひとつわかるのは、それはどんな医者や薬よりも効くだろう、ってこと。
 そのまま飛び起きてもおかしくなかったけど、残念なことに意識はそのまま眠りに引きずられて――



 ――ぱちり。
 そんな音が似合う勢いで目を開けた。自分ではっきりわかるくらい、眠る前より体調が良い。少なくとも身体の節々で感じていた痛みがずいぶんと和らいでいるし、喉の痛みもそれほどひどくない。
 窓から差し込む色は赤くなっている。ほんの少しのつもりが、すっかり寝入ってしまったようだ。
 ちょっと姿勢を変えようと身じろぐと、片手から何か離れていきそうな感触にとっさに手を握り締めた。
 ――あー、寝る前にリエちゃんの手を握ってたっけ。
 今思うと、我ながら子どもじみた我侭だなぁと苦笑したくなったけど、その我侭に付き合ってずっと手を握っていてくれたのかと思うと、素直に嬉しい。
 そう言えば目を覚ましたぼくに対して何の反応もないな、と顔を横に向けると、案の定そこにはうつらうつらと船を漕いでいるリエちゃんがいた。
“リエちゃん”
 思わず呼びかけて、相変わらず声は出ない。
 そして今更に気付く。
 今日は一度も彼女の名前を呼んでいない。
 何度口を開いても、言葉は形にならず消えていく。
 ――呼びたいのに呼ぶことができない。
 そりゃ、リエちゃんの名前を口にしない日だって、ないわけじゃない。仕事で缶詰中とか、旅行中の時とか。ぼくにひとり言を垂れ流す趣味はないし。
 だけど今は違う。呼ばないんじゃない。口にしないんじゃない。
 できないんだ。
 当たり前のようにできていた、君の名前を呼ぶことが。
 気付いてしまうと、今すぐにでも呼びたくなって、それでもどうしても声は出なくて。
 ――こうなったら是が非でも、どんなに遅くても明日には完治してやる。
 決意とともに空いてる方の手を固く握り締める。
 そうして風邪が治ったら。
 声が戻った、その時は。

 ――リエちゃん。

 何よりも、一番に君の名前を呼びたいと思った。





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