ふわ、ふわり − side S −
――ふわふわ、ふわり。
――ふわ、ふわり。
目の前を横切って青い空へ吸い込まれるように舞い上がっていく白に、ぼくは思わず足を止めてしまった。最初は焦点を合わせることができなくてぼやけて見えた白も、何度か瞬きをする内にその白は小さな綿毛がたくさん飛んでいるんだということに気が付いた。
手を伸ばすと、指先にふわりふわりと空を舞う綿毛がひとつ着地した。とは言っても、軽く振っただけで綿毛はすぐに放れて再び空へと飛んでいってしまったけれど。
「……それにしても、一体どこから……?」
綿毛の流れてくる方へ目を向けると、どうやら土手の下から飛んできているようだった。ちょっと道を外れて土手の下を覗き込むと、そこには見慣れた女の子たちがいた。
「リエちゃんに……あれはポエット?」
二人はすっかり白い絨毯のようになった地面に埋もれるようにしゃがみこんで、綿毛に息を吹きかけては飛ばしていた。珍しいような、けど、違和感がないような組み合わせの二人にぼくが声を掛けるタイミングを逃していると、彼女たちの方がぼくに気が付いた。
「あ、スギ君!」
「こんにちはー!」
一人はふわふわした髪を揺らしながら土手を駆け上り、もう一人は白い翼を羽ばたかせ風に舞うようにふわりと飛んでくる。
色も形もまったく違うのに、どちらも特大の綿毛のように思えるから不思議だ。
「あー、ごめん。何か邪魔しちゃったみたいで」
「ううん、そんなことないよ。ちょうどさっきのが最後のひと吹きだったし」
――ね、と頷き合う女の子たちに、ほっと安堵の息を吐く。ずいぶん楽しそうだったから、邪魔をしてしまったのなら申し訳ない気分になるところだった。
珍しい組み合わせだね、と訊いたら、そもそも最初はポエットが一人で綿毛を飛ばしているところに、さっきのぼくみたく綿毛に目を留めたリエちゃんが出くわしたということらしい。
「ポエットちゃん、たんぽぽの綿毛が飛ぶのをお手伝いしてたの」
「あー……」
そう言えば今日は風が吹くといっても本当に微弱なものだから、綿毛が飛び立つのには不都合極まりない日だろうなぁ。納得できるような、できないような。
「それをリエちゃんも手伝ってた、っていうことか」
「うんっ」
「リエおねえちゃんが手伝ってくれたから、早くおわったんだよ」
楽しそうに話す二人は、手伝い云々より純粋に綿毛飛ばしが楽しかったんだろうな、と思う。ぼくが見た光景も、何百歩何千歩、どれだけ譲った所で二人で仲良く遊んでいるようにしか見えなかったし。
この二人って、けっこう似た者同士だよなぁ、とそんな感想を思い浮かべていたら、
「スギ君は? どうしてこんなところにいるの?」
リエちゃんが不思議そうに訊ねてくるのも当然だろう。何せこの辺りは家とは離れているし、買い物に行くにしても普段利用しているコンビニやスーパーだとかは全然方向が違う。
……などと言いつつ、ぼくの手にはスーパーの袋が握られているわけだが。まあつまるところ、普段全然利用しないようなお店に買い物に行った帰り、ってことなだけど。
「うん、まあ、何と言うか……とりあえず、日ごろの運動不足解消のためにちょっと遠出して買い物に行ったんだ、と思ってもらえるのが一番嬉しいかもしれない」
「……スギ君が?」
自分で言ったものの我ながら説得力ないなと思っていたら、案の定向けられたリエちゃんの疑わしそうな視線が痛い……。
「実のところ、これが理由及び原因」
スーパーの袋から缶を2個取り出して二人に放る。危なげにキャッチした(これは絶対に落とすと思った)二人は、缶に書かれた名前をほとんど同時に読み上げていた。
「「ココア?」」
「そう。あっちのスーパーでしか売ってない、限定品のココア」
「スギ君が、ココア?」
「いやいや、それはもちろんレオの希望品さ」
「買ってきてあげたの?」
「……まさか7回連続でグーを出してくるとは……あの時パーを出していれば……」
「……じゃんけんに負けて買い物係になったんだ」
ぼくはぼくでコーヒーミルクだのカフェオレだのを大量購入しておいたけど、こっちは別に限定品でもなければ普段利用するお店で充分買える品だったりするから、微妙に――いや、かなり悔しい。
理由を知った女の子たちにも可笑しそうに笑われて無意識の内に不機嫌な顔になっていたようで、ごめんなさいと謝られてしまった。……謝りつつ、二人ともやっぱり笑いは収まっていなかったけど。
このやるせない憤りはやはりレオに向けるべきだろうと決意も新たに思っていたら、女の子たちは律儀にも渡したばかりのココア缶を返してきた。
「いいんだ。それはひと仕事終えた二人への差し入れってことで」
「え、でも……」
「気にしないで。どうせレオのだし。あ、ココア嫌いだった?」
「ううん。ポエット、ココア大好きだよ!」
「それは良かった。缶はちゃんと中をゆすいでからリサイクルゴミに出すんだよ?」
「はーい。ポエットちゃんと知ってるよ!」
「お。偉い偉い」
ぐりぐりと頭を撫でるとくすぐったそうに首をすくめる。その後「ありがとう」と礼儀正しくお辞儀までしてくれて、ココア缶を手にした天使はふわりと宙に舞い、そのまま風に乗るように空高く飛んでいった。ふわりふわりと飛んでいくその姿がやっぱり綿毛と重なって見えて、危うく吹き出してしまう所だった。
隣で手を振っていたリエちゃんは、ポエットの姿が見えなくなると改めてぼくに向き直り、「本当にいいの?」と問い掛けるようにココア缶を持ち上げた。ぼくは当然、「もちろんだとも」と頷きを返し、
「さっきも言ったけど、どうせレオのだし」
「……えぇと、レオ君のだから勝手にもらっていいのかなって思うんだけど……?」
「平気平気。ぼくは長年組んだ身として、レオはそんなことで文句は言わないと信じている。むしろ立派にひと仕事していた女の子たちを労うためにココアを差し出した行動に文句を言えるものなら言ってみろ?」
ぼくが胸を張って答えると、リエちゃんは微苦笑を浮かべているような、あるいは笑い出すのを堪えているような表情で、
「じゃあ、ありがたくいただきます。スギ君、ありがとう。レオ君にもお礼言っておいてね」
「いえいえ、どういたしまして。ちなみにこれ、レオの返事も込みね」
当然のようにそう言ったらそれがよほど可笑しかったのか、俯いたリエちゃんは肩を震わせてくすくすと笑っていた。
しばらくして笑いの収まったリエちゃんは顔を上げると、何かに気付いて口許が小さく開き「あ」と呟いた。ぼくが、どうしたの、って訊く前に伸ばされた指が髪に触れる。
見ていなければ触れられたことに気付かないくらい、そっと。
そうして引き戻された彼女の指先には、白い綿毛がちょこんと乗っかっていた。リエちゃんが小さく指を振ると、綿毛は簡単に彼女の指先を放れてふわりふわりと飛んでいく。
「――髪にくっついてたよ」
「ありゃ。気付かなかったよ」
青空へ吸い込まれていく綿毛を見送り、ありがとう、と言いかけて、よく見ればリエちゃんの方が髪といわずけっこうな数の綿毛をくっつけていることに気が付いた。考えてみれば、綿毛畑の真ん中で綿毛を飛ばしていれば嫌でもくっつくだろう。
「リエちゃんもいっぱいつけてるね」
「え、ほんと!?」
リエちゃんは慌てて自分の身体を見回しながら、頭を振った。けど、そんなことじゃ綿毛はほとんど取れなくて、ふわふわの髪の上で一緒に揺らされるだけだ。
「リエちゃん、それじゃ無理だよ。……ちょっと、じっとしてて」
さっきのお礼とばかりに、彼女のふわふわしたについた綿毛をひとつひとつ取っていく。ふ、と息を吹きかけると綿毛はふわりと空を舞って行った。
それを何度か繰り返し粗方の綿毛を取り終わってから、「もういいよ」とふわふわの髪をくしゃりと撫でる。ぼくの邪魔にならないよう俯いていた顔が上げられて、ほんのり赤く染まった顔が「ありがとう」と微笑んだ。
その笑顔に思わず見惚れて――
――ふわり。
感じたのが先か、目に留めたのが先か。
吹き飛ばしたばかりの綿毛がふわりふわりと舞い戻って、ぼくの鼻先にちょこんと乗っかった。
「……おや?」
何だか水を差された気分になって眉根を寄せていたら、リエちゃんが鼻先の綿毛を掬い取り、
「そこは違うよ」
笑みを含んだ声で囁くように言い、もう一度綿毛を空へ飛ばした。ふわりふわりと飛びながら、小さな綿毛はあっという間に空の青に溶け込んで見えなくなる。
「スギ君の鼻にお花が咲いたら大変だもんね」
「……それって、だじゃれ?」
いやまあ、確かに大変だけどさ。くすくすと楽しそうに笑っているリエちゃんを見ていたら、ぼくの口許も自然と緩んできて、ようやく笑いの発作が収まった頃にもう一度空を見上げた。もちろん、綿毛なんて欠片も見えなくなっている。
「たくさん飛ばした?」
「うん。二人掛りだもの。『綺麗に咲きますように』って想いながら飛ばしたんだよ」
「じゃあ、咲いてたらすぐにわかるね。ぼくらのとこにも届くかなぁ」
「……届いたら、嬉しいなぁ……」
――ふわり。
聞こえてきた呟きに見上げていた視線を下ろすと、真っ赤になって口許を押さえているリエちゃんがいて、
「……えっと、リエちゃ」
「――あ、その、だからね! 綺麗なタンポポが咲いて、それを見て心が和んだりしたら嬉しいなとかそういう意味で、だからそう! プレゼントみたいなもので……えっと、そうだスギ君、そろそろ帰った方がいいんじゃないかな。レオ君、きっと首を長くして待ってると思うし。それにその……そう、リエも帰って課題をやらないといけないから!」
一気に捲くし立てて、こちらの返事を聞かずに「じゃあね!」と手を振って背を向ける少女の姿は、やっぱりどこか空を行く綿毛に似て――見ているだけでは、どこか知らない場所へ飛んでいってしまうかもしれなくて。
手を伸ばすだけでは、少し触れただけですぐに離れて行ってしまいそうで。
――だから、だろうか。
ぼくは咄嗟に彼女の手を掴んでいた。
「……スギ君?」
驚いて振り返る彼女にどんな表情を浮かべれば良いのかわからないまま……けれど、今のぼくは笑みを浮かべているんだろう。
「届くよ」
手に取った、ぼくとは違う柔らかな手を引き寄せて胸に当てる。
「いや、違うな。届いてる、ちゃんと」
ふわりふわりと飛ばされた想いは、確かにこの手の中にある。
どんな花が咲くのだろうか。
どんな花が咲いて欲しいのだろうか。
自分でもあやふやなまま、それでも自身で望んでこの手を伸ばしたから――そう、これだけはわかる。
ふわ、ふわり。
飛んできた種が花咲かせるその時は――
――きっと、綺麗な花が咲く。