しあわせのかたち
空調の効いた部屋の外からは、最近になっていっそう大きく響き渡るようになった蝉の声が聞こえてくる。
しかし、そんな音も耳に入っていない様子のリエは、真剣な面持ちで最後のひと針をことさら慎重に抜き、布と針とを繋ぐ糸にそうっとはさみを近づけていく。
息を詰めたまま、はさみを持つ手にほんの少し力が篭った。
「――えいっ」
小さな掛け声と共に、糸がぷつりと切り離される。
未完成だったものが完成した瞬間だった。
針をしまって、はさみを片付け。
青と白を基調とした裾がふわりと広がるワンピース。それを目の前に掲げて見ているうちに、少しずつリエの頬が緩んできた。
大好きな親友をイメージして、ここ半月の間ずっとかかりきになっていた服だった。
ようやく完成した、という実感が徐々に湧いてきて、
「できたぁっ」
満面の笑みを浮かべて、思わず抱きしめる。
けれどすぐ我に返って、慌てて抱きしめていた服を引き離した。
――しわになっちゃうとこだった……
ほう、とため息を吐いて、持参していたハンガーに丁寧に服をかける。そうして、部屋の主に声をかけた。
「スギくんっ、できたよ! …………スギくん?」
視線の先には、クッションを枕にしてフローリングに寝そべる部屋の主の姿。
とりあえず、服をソファに掛けてから足音を忍ばせて近づいてみると、気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。
リエがスギの部屋で服の制作をすることになったのは、リエが新しい服の制作を始めてから数日――夏真っ盛り、最高気温を更新中のある日に、電話口で「最近クーラーの調子がおかしくて。暑くて大変」と、ちょっとした愚痴を漏らしたことがそもそものきっかけだった。
それを聞いたスギが「だったら、うちにおいでよ」と誘ってくれた。「クーラーの効いた快適なお部屋に今ならサービスで美味しいカフェオレもお付けします」と冗談めかした言葉に、リエはくすくす笑いながら、うんっ、と頷いていた。
実のところ、クーラーの効いた部屋よりもスギと一緒に居られる、ということの方が嬉しくて。
だから優しい言葉に甘えてしまったのだけれど。
熟睡しているスギの傍らに、ぺたん、と座り込む。大きく息を吸うと、口元に手を持っていき、
「スーギーくーんっ」
「…………」
「床の上じゃ、身体が痛くなっちゃうよ!」
「…………」
耳元でいくら大きな声を出そうが肩を揺すってみようが、現在、夢の中の住人はまったく目覚める気配がない。
困ったなぁ、という気持ちと一緒に、寂しい気持ちも湧いてきて、そんな自分はとてもわがままだなぁ、と思う。
スギのところで服の制作を始めるようになり、二人きりになっても、肝心のリエの方が洋服作りに夢中になって、集中していて、せっかくの時間を楽しく過ごすどころではなかった。そんなリエに気を遣ってかスギもあまり話しかけようとはせず、寝そべってCDやレコードをかけたり音楽雑誌を読んでいたりと、一見、好き勝手なことをしていた。
けれどリエは気付いていた。
リエがそろそろひと休みしようかな、と思うといつも絶妙のタイミングで冷たくて美味しいカフェオレを出してくれたこと。リエが服作りをしている間中かけていた音楽は、決まってリエの好きな、もしくは好きになりそうな曲ばかりだったこと。
「……スギくんばっかり、ずるいよ」
――自分ひとりだけ格好よくて。
惰眠をむさぼる大好きな人の頬を、人差し指でつつく。早く起きて、という想いも込めて。
それでもやっぱり起きてくれなくて、まるで赤ちゃんみたい、なんて少し呆れながら寝顔を見つめていた。
そうしている内に、リエはふと思いついた。
ちょっとした悪戯――というか、ずっと憧れていたこと。
――ひょっとして、今ならできるかな……?
服の、最後の糸を切る時よりも緊張しながら、リエはスギの頭に両手をそっと添えた。
さらさら、顔に当たる感触がくすぐったくて、スギは眉をしかめた。
――なんだよ、もう……
眠りの淵から引き上げられて、仕方なしにまぶたを開ける。
そこにあったものは、きれいなウェーブを描き、きらきら輝くチョコレート色のヴェールと。
文字通り目と鼻の先にある、大好きな少女の瞳の伏せられた顔。
――はい??
ひょっとして夢の続きだろうかこれって、なんてことを考えながら、驚き慌てて、そしてちょっとの(実際にはかなりの)期待に、一気に速度を増した胸の鼓動を何とか落ち着かせようと試みる。
その時、少女の唇がかすかに動いた。
「……スギくん……」
小さな呟きと、穏やかな寝息。
「…………」
――ああ、うん、そんなことだろうとは思ったけどね。
名前を呼ばれて嬉しい気持ちと、現状に納得したような不満なような、なんともいえない複雑な気分が混じりあって、思わず力のない笑みを浮かべた。
けれどすぐに、目の前の穏やかな表情に目を奪われる。
――無防備な顔してくれちゃってまあ……
多少なりともスギの嫌いな忍耐というものを必要とする状況ではあったけれど、役得とばかりに、いつになく身近にある少女の顔をじっと見つめる。楽しい夢でも見ているのか、微笑を浮かべていて、その理由がついさっき口にした名前にあるならそれはとても光栄なことだね、なんて思っていた。
寝転がったまま視線を横に走らせると、ソファの上に見覚えのある服が掛けられていた。
――そっか、完成したのか。
これで洋服に少女を独占されずにすむ、という自分でも自覚済みの見当外れの嫉妬からくる安堵感と、少し残念な気持ちとが同時に湧き上がる。
いつも色んな表情を見せてくれる彼女だけれど、普段自分が知っている彼女とは違う姿を見ることができていた、そのことがどれほど嬉しかったか、気付いていないのは当の本人だけだろう。
服に向けている真剣な眼差し。
上手くいかないのか、心持ち唇をとがらせた拗ねた表情。
思い通りにできたのだろう、どこか得意げな微笑み。
ひとつのことに集中していても、次から次へとくるくる変わる表情はいくら見つめていても飽きることなんてなくて。
カフェオレを差し出した時の満面の笑顔や、彼女のために選んだ曲をかけている時、曲のリズムにあわせてゆらゆら揺れる髪を見ると嬉しくなって。
可愛らしい声で紡がれる歌は、どこか調子外れなのだけれどなんだかとても耳に心地良くて。
ひとつひとつのことが、すべて幸せな気持ちへと繋がる。
――一緒にいられるだけで幸せ、って感じてるのは、リエちゃんだけじゃないんだよ?
きみと一緒にいることがとても幸せ。
そんなこと面と向かっていったら、きっと真っ赤になってうつむいてしまうだろうから、まだ言わないけれど。
自分の考えに苦笑しながら、少女の頬に手を差し伸べる。頬に軽く触れると、まぶたがぴくりと震えたが少女が眠りから覚めることはなかった。
ちょっと調子に乗って、今度は先ほどから頬をくすぐる少女の髪を弄ぶように指を絡め――はたと気付いた。
少女の顔が何でこんなに近くにあるのか――それ以上に、眠りに落ちる前と変わっていいる頭の感触。なんだか温かくて気持ち良くて。
――今更だけど、これってもしかしてひょっとして……?
その時、唐突に少女の瞳がぱちりと開いた。
反射的にスギはリエの髪から手を放す。
「……」
「……」
しばらく無言で見つめ合った後――
「やあ、おはよう」
精一杯の平常心を総動員した挨拶は及第点をあげられるくらいの出来だ、とスギは思った。
一方のリエはそれどころではなかったようで、みるみる内に顔を真っ赤に染め上げると、
「……きゃあっ」
小さな叫び声をあげて、間近にあるスギの顔から距離をとるように背筋をぴん、と伸ばした。
その振動がダイレクトに伝わってきて、スギの頭は床に落ちてしまった。
――リエのひざの上から。
「あ! スギくんっ、ごめんね、だいじょうぶ!?」
「あー、うん、平気?」
ぶつけたところをさすりつつ、なんとも微妙な返答を返してスギは身体を起こした。
涙目になっているリエに、「いやいや、ホント大丈夫だから」と笑ってみせながら、スギは内心、深いため息を吐いた。
――あぁ……やっぱりひざ枕……
すぐに気付かなかった自分が恨めしかった。
「あのね、リエ、ひざ枕って一度やってみたかったの」
目を開けたらリエちゃんの顔がすぐ近くにあったからびっくりしたよ、と冗談混じりに話題にすると、ひざ枕の主はりんごみたいに赤くなった顔を両手で覆って隠すようにしながら、今にも消え入りそうな声で答えた。
「そうだったの?」
「うん。でも、スギくんが起きてる時に言うのは恥ずかしくて……そうしたら、スギくん、ぐっすり眠って全然起きそうになかったから、ちょっとだけ、って思ったんだけど……」
いつの間にかリエも眠っちゃってたみたい、ごめんね、なんて心底申し訳なさそうに謝られたものだから、別の時にひざ枕のお願いをしたとしても、リエは真っ赤になって首を振るだろうことが容易に想像できてしまい、スギはがっくりと肩を下ろした。
それでも一応、ちらりと彼女に目を遣ると、
「ぼくは大歓迎なんだけどね」
案の定、リエは顔をうつむかせて、唇の動きだけで何事か呟いた。
たぶん、「ばか」とか「知らない」とかそんな言葉。
その様子があんまりにも可愛らしくて、スギの顔が自然とほころぶ。
「いー雰囲気のところ悪いんだけどね、そこのお二人さん」
その雰囲気をぶち壊す憮然とした声が突然、降ってきた。
ますます慌てるリエに、落ち着いて、とジェスチャーを返しつつ、スギは平然とした態度で振り返った。
「やあ、レオ、お帰り。今日は早かったね」
暢気な相棒の言葉に、レオはぐらり、と身体を傾がせてドアにすがりつくと、はぁ〜……とわざとらしく盛大なため息を吐いた。
「早かったね、じゃないよスギ……今日のことすっかり忘れてるだろ」
疑問、ではなくて断定。
リエが「あっ」と声を上げる横で、スギも「あぁ」と頷く。
「そう言えば、今日は四人で食事をしようって言ってたっけ。そうか、ぼくたちが遅いから迎えに来てくれたのか」
「……理解してもらえて嬉しいよ」
「いえいえ、どういたしまして」
澄ました顔の相棒に向かって蹴りつける真似をした後、用件は済んだとばかりにレオは身を翻し、
「そういうわけだから、さっさと用意して来るよーに。さなえちゃんも玄関で待ってるし」
一度だけ振り返って、人差し指を突きつけていった。
はーい、と行儀の良い返事を返して手を振っていたスギは、よっこいせと掛け声を掛けて立ち上がると未だ座り込んだままのリエに手を差し出した。
ところがリエは困った表情を浮かべてその手を取ろうとしない。
「……リエちゃん?」
近づいてきて顔を覗き込もうとするスギに、精一杯身を縮こませたリエは、
「足、しびれちゃった……」
「…………」
「…………」
「…………ぷ」
思わず吹き出したスギに、先ほどからずっと赤みの消えない頬をふくらませたリエは、小さなこぶしを振り上げた。
「もう、スギくんっ、笑わないっ」
「あぁ、うん、ごめんごめん」
スギは笑みを噛み殺してできるだけ真面目な顔を作ると、一生懸命足をさすっているリエの傍らにひざをついた。小首を傾げて見つめてくる少女の瞳に映る自分は、どう見ても企んでる顔をしているな、と他人事のように思う。
「じゃあ、これは笑っちゃったお詫び、ということで」
「!!?」
そして有無を言わさず、少女を横抱きにして抱え上げた。
いわゆる、お姫様抱っこ、というやつである。
リエが何も言えずに金魚みたく口をぱくぱくさせている内に、器用にカバンと帽子を手に取った。
「さて、行こうか」
あんまり待たせるとレオが怖いしね。
口笛でも吹きそうな調子で楽しそうに呟いたところで、リエの方も我に返りじたばた暴れだした。
「スギくん、降ろして〜っ!」
「でも、まだ歩けないんだろ?」
「も、もう平気だもんっ。腕、悪くしちゃうよ! リエ、重いんだからっ」
「そう? ぼくとしてはもう少し重みがあってもいいけどね」
「スギくんっ!!」
暴れる少女を落とさないようにしっかり抱え直し、それに、と片目を瞑る。
「ぼくも一度やってみたかったんだよね、これ」
結局リエは、『お姫様抱っこ』の状態で親友たちの待つ玄関まで連れて行かれた。
さなえは最初、少しだけ目をみはり、その後にっこりと微笑んだ。
レオはやれやれと呆れた様子で肩をすくめていたが、人の悪い笑みを浮かべるとおもむろに携帯電話を取り出した。もちろん、写メール機能付き。
何を撮ったのかは言うまでもなく。