Present
ごろり、とソファにだらしなく寝転がり、まずカレンダーに目を向けた。
赤いペンで丸が何重も書き込まれている日付は、いよいよ明日に迫っている。
次はテーブルに置かれた時計。
ただいまの時刻は22時40分。
約束の時間まで、あと13時間20分。
テレビ番組を信じる気になってみて、設定した目標時間まであと20分。
「やっぱりウソくさいよ……」
陰鬱なため息を吐いて、視線を天井に向ける。なかば覚悟の上とはいえ、やはり「騙された」という気持ちは拭えない。
うー、とか、あー、とか唸っている間にも時間は刻々と刻まれていき、時計の表示が23時を示したところで部屋のドアがバタン、と大きな音を立てて開かれた。そんなことをする人間の心当たりはひとりしかいなかったのでレオは顔を向けることすらせずに、
「スギ、こんな夜更けに騒音を撒き散らしちゃダメだろう……」
面倒くさそうにそれだけ言って目を閉じる。
明日に備えてきちんと睡眠をとらなければとは思うが、こんな状況ではそれも難しそうだな――そう思っていると相棒の咳払いが聞こえた。
しかも何度も繰り返してくるから鬱陶しいことこの上ない。
――何なんだ、一体。
訝しく思い、仕方なくそちらに目をやって――レオは物凄い勢いで飛び起きた。
スギは滅多に使われないトレイを手にしていた。トレイの上ではチョコレートが小山を作っている。しかもそのチョコがけっこう有名どころのチョコレートだったりするわけで。
「何なにナニ!? それはぼくへの差し入れ!!?」
「exactly(もちろん)」
今にも飛びつかん有様の相棒に、スギは鷹揚に頷いて見せた。
レオの反対側のソファに腰掛けテーブルの上にトレイを置くと、ポケットから小さなクラッカーを取り出した。
何それ、とレオが疑問を口にする暇も与えず、クラッカーをレオに向けて糸を引き――
パーンッ
自分に向かって鳴らされたクラッカーに目を丸くするレオに向かって、スギは片目を瞑って見せた。
「禁煙3日目到達、おめでとう」
「……thanks」
先程までの不調はどこへやら。
ニヤリ、と不敵な笑みをスギに返して、レオは小山に盛られたチョコの一つを口に放り込んだ。
チョコレート好きのインパクトに隠れて意外と見落とされがちだが、レオはかなりのヘビースモーカーでもある。
そのレオが禁煙を始めた。まず目標として3日。これは偶然見ていたテレビ番組で、3日間禁煙を続けられれば中毒症状もだいぶ和らぐというようなことをやっているのを見たためだ。そして何より大事なのはその翌日、カレンダーに何重もの赤丸を書き付けたその日に禁煙して、かつ、禁煙が原因のイライラなどを起こしたりしないこと。
「しかしまあ、よくもったもんだよね。3日も」
「レオ、君がそれを言うのか……」
カフェオレを啜りつつスギが呆れて呟いた言葉を耳聡く聞きつけ、
「だってまさかホントにできるとは思わなかったし」
「だから君がそれを言っちゃあおしまいだろ」
「つっかかるなぁ。それじゃあ、スギはできると思っていてくれたのかい?」
「いや全然。だからそれはぼくの台詞だって言いたかったんだ」
「……人に言われるとムカつくよね」
「わがままだなぁ」
スギは苦笑を浮かべると、ちらり、とカレンダーに目をやった。
「いよいよ明日だね」
「うん」
頷きを返し、レオは静かに微笑む少女の姿を思い浮かべた。
明日はさなえの誕生日。
だからきっと、禁煙だって頑張れたのだけれど。
「で? 効果のほどはどう?」
「…………」
ずっとチョコレートと自分の口許を往復していたレオの手がピタリと止まる。ちなみにチョコレートの小山はすでに半分以下に減っていた。もちろん、スギは一つたりともチョコに手は出していない。
「一応……禁煙初日とかと比べると楽になった……気がしなくもない」
それだけ言って、レオの手が再び往復を始める。つい先刻までタバコ切れで唸っていた手前、つい言葉が途切れがちになってしまった。
ふむふむ、と頷きながら聞いていたスギはおもむろに断言した。
「なるほど、つまりあれだね。心頭滅却すれば火もまたすずし」
「ちがう」
レオは憮然とした表情で即答する。
その様子にスギはけらけらと一通り笑った後、カフェオレを飲み干したカップを手にして立ち上がった。時計の表示はすでに0時を過ぎている。
「レオ、そろそろ寝た方がいいよ。明日……もう、今日か。寝坊したらそれこそ様にならないし」
「わかってるよ」
レオはスギの茶化すような言葉に、素直に頷いた。
チョコレートの小山の威力は抜群だったようで、イライラはだいぶ収まっていた。これならぐっすり眠れそうだった。
昼前、レオは街中を必死になって走っていた。
さなえとの待ち合わせ時間は11時。
腕時計の針はそろそろ11時20分を過ぎようかというところで。
こんな日に限って携帯電話が見当たらず、もちろん探す暇もない。
「ああ、もう、ホント、サマに、ならないっ」
息を切らして待ち合わせ場所の公園に駆け込むと、急いでさなえの姿を探す。
日頃から待ち合わせには遅刻しがちだったが、それでもこれだけ遅れたことはない。
――まさか、愛想をつかして帰っちゃった、なんてことはないと思うけど……
「……レオ君?」
きょろきょろと周囲を見回していると、背後からためらいがちな声が掛けられた。
振り返ると、そこには探していた少女が目を丸くして立っていた。新品のロングスカートは、恐らく彼女の親友からのバースデープレゼントなのだろう。既製品にはない温かみがあって、さなえにとてもよく似合っていた。
「さなえちゃん――」
遅くなってごめん、とレオが謝る前に、さなえはふんわりとした笑みを浮かべた。
「レオ君が待ち合わせ時間より早く来るの、珍しいね」
「…………へ?」
慌てて腕時計を見ると、時間は確かに11時25分――
はっとして公園にある時計台を見上げる。そこの長針と短針が指し示す時刻は、さなえ言葉を証明するように10時50分前を指していた。
「えぇ!?」
もう一度腕時計覗き込む。こちらの時間はやっぱり11時を当の昔に過ぎている。しかし昨日までは時間はちゃんと合っていたし、今日も家の時計は同じ時間を示していた。
自分の腕時計と公園の時計台を交互に見やるレオの行動を不審に思ったさなえは、一緒になってレオの腕時計を覗き込んだ。やはりその時刻に目を見張り、自分の時計を確かめ――
「あ」
「? どうしたの? さなえちゃん」
「それね、きっとスギ君が原因だわ」
「え? いやまさか」
突然くすくす笑い出したさなえに、レオは戸惑いつつ否定の言葉を返した。
こういうことをしでかさない、というわけではないが(何せ自分も時々スギに同じようなことをしでかしている)、まさか今日という日にわざわざそんないたずらをするような相棒ではない――レオがそんなことを考えていると、
「昨日、スギ君から電話があったの」
――明日は珍しいレオが見られるよ。それがぼくからの誕生日プレゼントだから。
「何のことかな、って思ってたんだけど、このことだったのね」
確かに待ち合わせ時間より早く来るレオ君て珍しいもの、未だ笑いの収まらない様子でそう続ける少女の前で、レオは頭を抱えていた。
――ということはきっと、携帯電話が見つからなかったのもスギの策略に違いなく。
――スギのやつ……今度牛乳の中身、全部飲むヨーグルトに入れ替えてやる。
そんな復讐を固く心に誓ってから、すぐ隣の少女に声をかけた。
「あー……行こうか」
「ええ」
さなえはこくり、と頷き、しかし唐突に足を止めてすぐ傍らの青年を見上げた。
――いつものレオ君と、どこか……違う?
レオから感じる違和感に、目の前の青年をまじまじと見つめ、そしてすぐにその違和感の正体に思い当たる。
――タバコの臭いがしない。
もちろんレオもさなえの様子に気付いており、照れくさそうに頬をかいてから、
「つまり、これがぼくからのバースデープレゼント」
さなえはタバコの臭いが苦手で、それは慣れれば苦手でなくなるというものでもなくて。
だからレオからタバコの臭いが強くする時は、少し困った微笑を浮かべることが多くて。
そんな少女にタバコの臭いのしない自分を一日くらいプレゼント。
そのためだったら禁煙にだって耐えてみせるよ、と決意してからの苦闘3日間。
目の前のとびきりの笑顔に、耐え抜いた甲斐がありました、レオは心からそう思った。
「レオ君、なんだか知らない人みたい」
「……そこまで言う?」
「うん」
くすくす笑い合いながら普段と変わらない会話を交わす。
禁煙と言っても、日頃、目の前の青年がどれだけタバコを吸うか知っているだけにそれがどれだけ大変なことか容易に想像がついた。
嬉しくて、嬉しくて。
涙まで零れ落ちそうになる。
「ありがとう、すごく素敵なプレゼントよ」
ああもちろんちゃんと別のプレゼントも用意してるけど、と綺麗にラッピングされた袋を見せてから、レオはさなえの耳元に顔を寄せた。
「まだ言ってなかったよね」
「え?」
「happy birthday」
微かに漂うチョコレートの甘い香りと耳をくすぐる甘い囁きに、少女の頬がほんのり赤く色付いた。