ぽかぽか
冬は寒くて当たり前だと思うけれど、でも実は案外そうでもないかも、とも思う。
例えば。
今日みたいに、おひさまがさんさんと輝いていて、風がとても穏やかな日とか。
立派な樹の幹に背をもたらせて、そんなことをぼんやりと考える。
照りつける陽射しが身体をしんから温めてくれるし、時折吹く風は身体に篭った熱を適度に奪ってくれる。
まあ、つまりはぽかぽか暖かくてとても心地が良いということなのだが。
「…………ふぁ……」
何度目かのあくびに、青年は開いていたスケッチブックをぱたりと閉じる。先ほどから鉛筆を片手にこの場所から望める景色を描こうとしていたのだが、結局、紙は白いままだった。
――こんな陽気じゃ仕方ないよね。
自分でそう納得して、閉じたスケッチブックを抱え直す。
――ほんの少しだけ……
さすがにこれ以上は睡魔に勝てず、青年はゆっくりと瞳を閉じた。
黒い尻尾が腰掛けている枝の下でゆらゆら気持ちよさ気に揺れていた。
「ここで間違いないのね!」
不機嫌さを隠しもしない、少女特有の甲高い声が響く。
海を望むことができる小高い丘、そこに生えている一本の樹の根元で、小さなクロミミウサギたちが頭を何度も縦に振っている。
高く結い上げられた鮮やかな桃色の髪が、薄い紅色の地に色とりどりの花々や蝶が染め上げられた着物に良く似合っている。着物を着崩れさせないよう、履き慣れない草履に悪戦苦闘しながら、少女はクロミミウサギたちの集まる樹へ小走りに向かった。樹の根元にいるクロミミウサギたちとは別のクロミミウサギたちも、各自担ぐようにして持っている大きな風呂敷包みを落とさぬよう、少女の後を慌てて追う。
少女が樹の下まで辿り着くと、先に着いていたクロミミウサギたちは一斉に一箇所を指差した。
そこには見慣れた帽子と鉛筆が落ちている。
少女は、ふむ、と頷いて、やおら頭上を見上げた。
案の定、ゆらゆらとゆらめく黒い尻尾と、枝からずり落ちた片足の靴の裏を目にして、少女の眉間に不穏な皺が一本刻まれる。
無言のまま指先の動きだけでクロミミウサギたちに、こちらに来るように促す。
気配だけですでに何事か察しているのか、決意に満ちたきりっとした表情でクロミミウサギの一匹が少女の前に進み出た。少女はそのクロミミウサギに手を伸ばして掴み上げると、
「……ふんっ」
少女らしからぬ気合とともに、クロミミウサギを掴んだ腕を一閃させた。
高々と放り投げられたクロミミウサギが樹の枝の上で寝そべる人影の向こうに消えるとややあって、とす、と何かが落ちた軽い音と、小さなうめき声が聞こえた。
「…………」
けれど、しばらく待ってみても頭上の人影が目を覚ます様子はない。
少女は再び指先で別の一匹を招き、同じ要領で人影目指して放り投げた。
それを更に三回ほど繰り返したところで、ようやく変化が訪れた。
ゆらゆら動いていた黒い尻尾が、突然ぴんと伸ばされる。
「え……?」
状況が把握できていないのか、間の抜けた声が降ってきた。一拍置いて、
「わ、うわぁっ!?」
驚愕の叫び声が上がり、がさりと音が鳴る。少女は落ちてくるスケッチブックやペンケースは器用に避けて、同じく落ちてくるクロミミウサギたちだけをしっかりと受け止めた。
そして目の前――というにはやや高い位置にあるが――に逆さまの状態で現れた青年の顔をきっ、と睨みつける。
つい先ほどまで寝そべっていた枝に足を引っ掛けることで辛うじて墜落を免れている青年は、唖然として目の前の色鮮やかな少女をまじまじと見つめた。よほど驚いているのか、青年の緑色の髪から覗く黒い猫耳がぴくぴく動いている。
目を見張り、ぽかんと口を開けたままの青年に、少女は何か言うことはないのかとあごをしゃくって見せると、青年はにっこり微笑んだ。
「スミレちゃん、すごい綺麗だね」
「…………」
「……えぇと……着物のことじゃないよ? あ、もちろん、着物も綺麗だけど」
「………………睦月君」
「うん、何?」
ようやく応えてくれたスミレに、睦月はほっとした表情を浮かべ――何故かスミレがクロミミウサギの一匹を掴んでいることに気付いた。そのクロミミウサギがやけに神妙な顔をしていることにも。何となく嫌な予感がして、スミレの顔色を窺うようにして恐る恐る呼びかけた。
「あの……スミレちゃん……?」
スミレは睦月の言葉には答えず、クロミミウサギを掴んだまま大きく振りかぶった。
そして睦月に向かってクロミミウサギを思いっきり投げつける。
「まずは! 『あけましておめでとう』でしょう!!」
「……うわっ」
見事顔面に当たったクロミミウサギは、落下を免れるために睦月の顔に必死にしがみつく。そうなれば当然睦月の視界も遮られるわけで、顔に受けた痛みも相まって睦月は大いに慌てた。
「ちょ、ま、スミレちゃん、落ちる落ちる!」
助けを求めるが、当のスミレはすでに後ろを向いてしまっている。
辛うじて開けた視界の先で、着物の衿から覗く首筋がほんのり赤く色付いているのが見えた。
冬はあっという間に日が暮れる。
空も、海も、目に映る全てが赤く染まっていく中で、睦月はさてどうしたものかと思案していた。
あの後、何とか体勢を立て直して樹から降りると、早速スミレのお説教が待っていた。
曰く――
――せっかくおせち料理を持ってきてあげたのに、家にいないって言うのはどういうことなの!
――お正月だというのにこんなところで寝こけているなんてどういう了見!?
――ちゃんと家でコタツに入ってみかんを食べつつ正月番組を見てなきゃだめじゃない!
――だいたい、まずは『あけましておめでとう』でしょう! それでも日本人なの!
そのお説教を睦月はきちんと正座をしながら聞いていた。もっとも始終、にこにこ笑っていたが。
スミレのお説教は、ほとんど言いがかりに近い八つ当たりではあるけれど、つまり自分をずっと探していたということであり、照れ隠しでもあるということが分かっていたから少しも苦ではなかった――どころか、嬉しいやら可愛いやらで頬が緩むのを止められなかったのだ。
もちろん、笑顔のままの睦月に「何がそんなにおかしいのー!」とスミレの怒りが爆発したのは言うまでもない。そのために、謝り倒してスミレの機嫌を直すのに苦労したのは、まあ、自業自得だろう。
それから改めて新年の挨拶をして、クロミミウサギたちが運んできた風呂敷の中身、おせち料理の入った重箱を広げ、それをみんなで食べて、今年の抱負を語り合ったりして――ちなみにスミレの抱負は「今年こそ世界の平和を乱しまくってみせるわ!」だった――
「どうしたものかなぁ……」
困った様子もなく呟く睦月の膝を枕に、スミレが健やかな寝息を立てていた。その周囲で、寄り添うようにしてクロミミウサギたちも夢の世界を旅行中だ。
あまりにも気持ちよさそうに寝ているものだから、どうにも起こすのは忍びない。
睦月は開いていたスケッチブックを閉じて、鉛筆をペンケースに仕舞った。スミレたちが寝入ってからその様子をずっとスケッチしていたのだが、もう全て使い切ってしまっていた。
――明日は新しいスケッチブックを買いに行かないと……画材屋さんはやってるかな?
することもなくなったので、そんなことをぼんやり考えながら沈みつつある夕日に目を向ける。
画材を片付ける時、すこし動いてしまったけれど相変わらず少女も、クロミミウサギたちも目を覚ます様子はない。気温は急降下の一途を辿り寒さも増してくる中、本当は早く起こした方が良いのだけれど、寄り添う温もりがあまりにも温かいものだから。
あと少し。
もう少し。
せめてあの夕日が水平線にかかるまで。
言い訳するように、睦月は胸の内で何度も呟く。
――もうしばらく、このままで。
冬は寒くて当たり前だと思っていたけれど、案外そうでもないと確信する。
だってほら。
暖かい陽射しがなくても、冷たい風が吹いていても。
君がいると、こんなに温かい。
その後、スミレに「人をカイロにしないで!」と怒られたのは言うまでもない。