ないしょばなし？


　たくさんの音符で埋まりかけた楽譜を片手に、リズムに揺れる背中。
　じっと耳を済ませば、ハミングで奏でる軽やかなメロディが聴こえる。
　もっと聴いていたいと思うし、せっかくの作曲を中断させてしまうのは忍びないけれど、このまま放っておいたら曲が完成するまで何時間でもそのままだと知っていたので。
　リエは彼の大好きなカフェオレを淹れてから、揺れる背中に声をかけた。
「スギくん、カフェオレがはいったよ」
「…………」
「……スギくん？」
　返事はないけれど、呼びかける声はちゃんと届いているはずだった。
　揺れる背中は止まっていて、ハミングも聴こえない。その様子はまるでリエの言葉に耳を澄ましているようにも見える。
「スギくん？　カフェオレ、冷めちゃうよ？　スギく――」
　どうして答えてくれないのだろう、と首を傾げつつ呼びかけていたリエは、その理由をようやく理解して、口許を押さえた。
　スギが肩越しに振り返る。予想通り、そこに頬を染めてうろたえている姿を見て目を細めた。
「『スギくん』じゃないだろ？　リエ？」
　わざと名前を強調して呼ぶと、いっそう赤くなって、困ったように俯いてしまう。
　目の前の可愛い奥さんは、結婚してからそろそろひと月が過ぎようとしているけれど、未だに名前の呼び合いになれないらしい。
　これまでずっと呼びなれていた『スギくん』以外の呼び方は照れてしまうらしく、大概、顔を真っ赤にしたまま声に出せずに終わってしまう。
　これまでずっと『ちゃん』付けで呼ばれていた自分の名前を呼び捨てにされると、なんだかくすぐったい、と言ってやっぱり真っ赤になって俯いてしまう。
　だから、時々スギのいじわるが始まったりする。
　――『ちゃんと』呼んでくれないと、答えないよ。
　そう、無言の主張を始めて、スギが言うところの『ちゃんとした』呼びかけでないと返事をしてくれなくなってしまう。
　もっともスギ本人は真面目な顔をして、今後のためにも荒治療だ、と嘯いている。
　リエが躊躇っている間に、スギは視線を未完成の楽譜に戻した。
　頭の中はリエの言葉を待ち構えることでいっぱいで、音符のひとつも浮かんではこないのだけれど。
　――今日は、カフェオレが冷める前に飲めるかな？
　そんなことを考えながら、背後の様子に耳をそばだてる。
　その時、ふわり、と空気が動いた。
　スギの頬に、さらさらしたものが触れる。
　目の端に映るのは、甘いチョコレートみたいな輝き。
　耳元に、リエの唇が寄せられる。
　小さな声で、そっと。呟くように、囁くように。
　誰にも知られてはいけない、秘密の言葉を伝えるように。
　それはまるでないしょばなしをするように。
　柔らかい音が耳をくすぐる。

「ひと休みしましょ？　……あなた」

　残念ながら、振り返ったスギが見ることが出来たのは、ぱたぱたと軽い足音を響かせて遠ざかるリエの後ろ姿だけだった。
　ほんの少し呆然として、それから小さく吹き出した。もちろん、今更のようにお茶菓子の準備を始めた奥さんには気付かれないように。
　楽譜を無造作に置くと、カフェオレの甘い香りが漂うテーブルにゆっくりとした足取りで向かった。
　半ば無意識のうちに、耳に手をあてる。
　――もう一息のような、まだまだ道は険しいような。
　彼女にしても、自分にしても。
　手をあてたそこは、やけに熱く感じられた。

ＰＯＰ’Ｎ　ｒｏｏｍ