いのちの色
――私が恐ろしくないのか。
脈絡なく投げかけられた問いに、幼い天使は不思議そうな顔をした。
――『おそろしい』って、『こわい』ってこと?
舌足らずな言葉で確認され、そうだ、と首肯すると、天使は大きな瞳を零さんばかりに見開いて、
――どうしてユーリがこわいの?
真っ直ぐな視線で逆に問い返され、言葉に詰まったことを覚えている。
一向に晴れることなくどんよりと重く圧し掛かってくる空気に、ユーリは小さなため息と共に眉間に皺を刻んだ。
ライブは間近だというのに、準備は遅々として一向に進まない。
「……アッシュ」
練習場の片隅で肩を落とす重苦しい空気の発生源に呼びかけると、彼は床に落としそうなくらい項垂れていた頭を恐る恐る、といった様子で持ち上げた。
緑の髪は相変わらず目元までを隠す帳の役割を果たしている。
顔の上半分まで長く伸ばされた前髪に隠されていながら表情豊かな狼男は、今はこれ以上のものはないというくらい情けない顔をしていた。
「――すまねぇっス」
消え入りそうな声で謝られ、ユーリは喉元まで出掛かっていた言葉をため息に変えて吐き出した。
ここ二、三日、アッシュの不調のおかげで、まったくと言っていいほど練習がはかどらなかった。
――不調どころの話ではないな。
むしろ「惨状」とでも呼びたくなる有様を思い出し、眉間に刻まれた皺が更に深くなる。
ドラムを叩いても叩き間違える、リズムを外す、スティックを落とす。
歌は歌詞を間違える、音が合わない。
それ以上に問題なのが、傍目に見ても嫌と言うほどわかる情けない顔と、辺り一帯にたちこめる陰鬱な空気だった。これではとてもではないが人前になど出せるはずもない。
決して根が暗いわけではない、仕事にも真面目な彼がこんな醜態をさらすことになった原因は、子どもに泣かれたこと、だった。
数日前、アッシュが買い物帰りに立ち寄った公園で仲良くなった子どもに緑の髪の下――真紅の瞳を見られてしまった、らしい。それは巻き起こった一陣の風が起こしたほんの偶然ではあったが、ただの赤ではないその色に子どもが泣き出し、以来、声を掛けても逃げられ、近寄ろうにも避けられるようになってしまったと、心優しい狼男は自嘲気味に呟いていた。
――今更なことっスから、全然気にしてなんていないっスよ。
そう、笑って言ってこの話を締め括っていたが、本人が自覚している以上に心の中にしこりとして残っていたことは、現在の状況からも明らかだ。
ユーリにとって、怖がられたことをそこまで気に病むことも、元凶となる自らの瞳――身体の一部を厭う気持ちも、理解し難い遠い感情だった。周囲が自分をどのように捉え、どのように感じるか、それらはすべて客観的事実として認識してはいたし、バンド活動をする身として気を遣う、あるいは何かする時の参考やきっかけくらいにはなっていたが、だからといってその客観的事実は主観に影響を与えるような―― 一喜一憂するほどのものではなかった。
「……いい加減、気持ちを切り替えろ」
苛立ちから、口を出る言葉も自然ときつい調子になる。ますます身を縮こまらせるアッシュの姿に少しは憐憫の情が湧いたのか、マイペースにベースでロボットアニメの主題歌を演奏していたスマイルが、やれやれ、と肩を竦めて立ち上がった。
「まぁまぁ、そういうユーリも少し気分転換してきなよー。今日は天気がいいから屋上に出て日光浴をするのもいいかもねぇ」
ヒッヒッヒッ、と笑みを浮かべた透明人間は、バンドのリーダーである吸血鬼を練習場の外へと追いやった。
「おい、スマイル」
「ハイハイ、ユーリが戻ってくるまでに少しは状況が改善されるよう頑張るからさー」
抗議の声もどこ吹く風でユーリを扉の外まで押しやり、
「それに、そんな状態の二人じゃ状況はこじれるだけなんじゃないの?」
その言葉にユーリが動きを一瞬止めた隙に音を立てて練習場の扉が閉じられる。思わず顔を顰めたユーリに、扉越しから声が掛かった。
「ユーリも眉間の皺、きっちりとってきなよー?」
「……やかましい」
言われた言葉に素直に従う気にもなれず、ユーリは廊下の途中で壁に背を預け窓の外をぼんやりと眺めていた。
大きく開け放たれた窓から吹き込む風が銀糸の髪を梳く。
慰めたかったわけではないが、きつい言葉を掛ける気もなかった。
ああまで落ち込むことを不思議に思わないでもないが、その気持ちがまったく分からないわけではない、と思う。
額に手をやる。
相変わらず眉間に刻まれた皺はそのままだった。
自分でも持て余す苛立ちに深いため息が漏れた。
「……ため息ひとつでしあわせがひとつ、逃げちゃうんだよ」
風のように流れてくる軽やかな声音に、ユーリは気が付けば差し込む日差しから逃れるように俯かせていた顔を上げた。
向けた視線の先では、太陽を思わせる黄金の髪をふたつに括った天使が窓枠に腰掛けている。初めて出会った頃と比べて手足もすらりと伸び、言葉遣いから幼さが消えつつある天使はユーリと視線が合うと「こんにちは」と礼儀正しくお辞儀をした。釣られて頭を下げたユーリだったが、今更こんにちはと言うこともできず、「ああ」と曖昧な言葉を返した。
「久しぶりだな、ポエット。今日はどうしたんだ?」
「おさんぽしてたら、ユーリが見えたから」
それからポエットは心配そうに身を乗り出した。自らの眉間を指差し、
「ユーリ、すごいむずかしい顔してる。なにかあったの?」
ユーリは苦笑すると答えることは避け、ただ肩を竦めて見せた。
それだけで全てを察することができたわけではないだろうが、ポエットは追求してくるようなことはせず「ポエットにできることがあったら言ってね」とだけ言って笑顔を浮かべた。
それを見ていたユーリは、唐突に苛立ちの原因に思い当たった。
――やはりわかっていなかったのかもしれない。
無言のまま窓に腰掛ける天使に歩み寄る。ポエットは恐れる様子もなく、黙ったままのユーリの様子に首を傾げた。
「ユーリ?」
吸血鬼が間近に迫っても逃げ出そうとするどころか、天使は顔を覗き込もうとますます身を乗り出してくる。腰はほとんど浮いて、腰掛けている、とは言い辛い体勢になる。
――拒絶などされたことがなかった。
――もし拒絶されたら、そんなことを考えたこともなかった。
――だからこそ、落ち込む彼の姿が、起こるかもしれないその時のことをいやが上にも思わせるから。
――気付きたくないから苛立ち、考えたくないから目を背けていたのだ、と。
しかし気付いてしまったからには無視するわけにもいかない。
気が付けば自然と口が開いていた。
「――お前は、私が恐ろしくないのか」
いつかと同じ質問を口にした。あの時は気まぐれに。今は、確固たる意志を持って。
窓枠に腰掛けた天使は、いつかの時と同じように、光を閉じ込めたような瞳を零れそうなくらいに見開き、いつかの時より滑らかな口調で、それでも同じ問いを返した。
「……どうしてユーリが怖いの?」
やはり言葉に詰まるユーリに、ポエットは、前にもそんなことを言ってたね、と小さく笑う。
なんとはなしに気まずい気持ちで視線を彷徨わせていたユーリは、ふと思いついた言葉を口にした。
「羽とか」
「かっこいいよね」
「…………そうか」
あっさりと即答され他の言葉を探す。
その時、窓ガラスに映った自分の姿が目に留まった。
そこに映るものを見据え、天使と視線を合わせぬまま呟くように零れ出た言葉は、自分の口から発せられたとは思えないほど弱々しいものだった。
「――目、とか」
「綺麗な色だよね」
再びあっさりと即答されたユーリは、半ば呆気に取られてポエットをまじまじと見つめた。
「……血の色だぞ?」
無意識に、反論するように口をついて出た一言に、結局自分も気にしていたのだな、と胸の内で自嘲した。しかしそんな思いも、少女の次のひと言でものの見事に消し飛んだ。
「うん、だから、いのちの色でしょう?」
「……何?」
耳慣れない言葉に言われたことを咄嗟に理解できず、思わず問い返していた。
それでも目の前の天使は少しも気を悪くした様子もなく、だからね、と同じ言葉を繰り返した。
「いのちの色だよ」
「いの……ち?」
呆けたように、オウム返しに呟くユーリに天使は、うん、と勢い良く頷いた。
「だって、生きてるってことは血がからだの中を流れているってことだよ。……そうじゃない人もときどきいるけど。でもふつうは血がからだの中を流れてて、だから生きてて、それはつまりいのちが身体の中を巡ってるってこととおなじでしょ?」
だからいのちの色なんだよ、と降りそそぐ陽射しそのままの笑顔を見せた。
「いのちの色……か」
「うん」
得意気に頷く天使は、いきなり両手を天にかざして見せた。
「あのね、こうするとからだの中を流れるいのちが見えるんだよ」
ポエットのかざした手が赤く透ける。
それは真紅と呼ぶには薄く淡い色だったが、確かにそれも紅い色だった。
暖かい色だな、と素直に思う。
「――そんな歌もあったな」
「えー? どんな歌?」
「……今度、アッシュかスマイルにでも歌ってもらえ」
「ユーリは歌えないの?」
「柄じゃない」
それから思い出したように、傍らの天使を抱き上げた。突然のことに身体のバランスを崩したポエットは、小さな悲鳴を上げてユーリの首に腕を回した。
「――もうっ、ユーリ、あぶないなぁ」
頬を膨らませてむくれて見せる天使に苦笑する。外見も中身も大分成長したと思ったが、こういうところはやはりまだまだ子どもだ。
ユーリはこれ以上ポエットの機嫌を損ねないよう、真面目な表情を浮かべて天使に『お願い』をした。
「ポエット。せっかくだから助けてくれないか?」
ポエットは、自分よりよほど何でもできる青年からの頼み事に不思議そうな顔をした。
助けになることがあれば何でもする気だったことに偽りはないだろうが、まさか素直に『お願い』をされるとは思っていなかったのだろう。珍しく逡巡して見せ、躊躇いがちに確認してくる。
「それ、ポエットにできること?」
「ああ」
ユーリが間髪居れずに頷くと、それだけで不安が払拭されたのだろう、見習い天使の顔が晴れ晴れと輝いた。
「うん、いいよ! ポエット、何をすればいいの?」
誰かの役に立てることが嬉しいのか、目を輝かせて何度も首を縦に振る天使に、ユーリの瞳が優しく細められる。
「……さっきの話をアッシュにもしてやってくれないか?」
「さっき? いのちの色のお話?」
「ああ」
「そんなことでいいの?」
そんなこと、と言い切れる腕の中の存在の眩しさに一瞬目が奪われる。
「――ああ」
ユーリは微かな笑みを口許に浮かべ、力強く頷いた。
戻る途中、ガラスに映った自らの姿をもう一度目に留めた。
初めて、紅を綺麗な色だと感じた。