あたたかいひと
唐突に目が覚めた。
目が覚めたばかりの時は、なぜ目を覚ましたのかなんてわかっていない。
目を開けても真っ暗な視界の中、秒針の音がやけに耳に付く。まず思い浮かんだのは「いま、何時だろう?」という疑問だった。それからすぐに「寒いな」と思い、「寒いから目が覚めたんだ」と思い至った。
誘われるように顔を横に向けると窓が目に映った。ちゃんと閉められていなかったカーテンの隙間からは夜明けに程遠い暗い空が見える。
――あれ……は。
ちら、と一瞬見えた暗い空に不似合いな色に、思わず起き上がって窓辺へ駆け寄った。
窓の向こうでふわふわと舞い落ちるその色は、浮かび上がるような鮮明な――白。
――雪?
音はなく、唇だけが、言の葉を紡いで動かされる。ただなんとなく、辺りを――世界に満ちる静寂を壊してしまうのが忍びなくて、自然と音を立てないように行動をとってしまう。ふ、と吐く息すらも密やかに、静寂を壊してしまわないよう、窓の向こうの白を見ていた。
屋根も、車も、道路も、うっすらと白く雪化粧が施されていく。
その間にも、雪に吸い取られたかのように、静寂ばかりが増していく。
静かな、舞い落ちる雪以外のすべてが動きを止めてしまったかのような中で。
――逢いたいな。
無性に、そう思った。
そーっと。
静かに。
こっそり。
「――って、泥棒か」
「なにがさ」
思わず呟いた言葉に、思いもしなかった返答が返されて、スギはぎくり、と身を竦めた。声のした方へ顔を向ければ、開いた扉にもたれかかった相棒の半眼としっかり目が合ってしまい、とっさに視線を逸らしてしまった。
「あー……レオ、おはよう?」
「……この時間帯はまだ『こんばんは』で通じていいと思うね、僕は。常々、世の中は24時間なのに敢えて前日の日付のまま25時だの26時だのという表現をすることに疑問を抱いていたけど、今この瞬間、僕は25時や26時の存在意義を思い知ったよ。さすがに30時という時刻はありえないだろうと思うけど、冬場なんかは29時まであってもいいんじゃないかって思うよ」
長台詞をしゃべってはいるが、相変わらず半眼のままの――時には欠伸を噛み殺しても居る――レオに、根深い不機嫌の気配を感じたスギは引き攣りつつの笑みを無理矢理浮かべた。確かに、こんな時刻に起こされたのでは不機嫌にもなるだろう――というか、被害を受けたのが自分だったら、当然のごとく怒っている。
――だから起こさないように静かに動いていたんだけどな。
その目論見は脆くも失敗してしまったらしい。
「あー……やっぱ起こしちゃった原因、僕?」
「ごそごそ物音がするから、すわ泥棒か、それとも巨大な家庭内害虫かと思った」
「後者は勘弁して欲しいって本気で思うよ……。起こす気はなかったんだけど」
「あったら家中のコーヒーと牛乳捨ててやる」
「……食べ物は大事にしろよ」
「んで、そんな格好してどうしたのさ」
ダッフルコートに厚手のズボンはどう贔屓目に見ても室内でくつろぐ姿には見えない。
そんな格好で、よもや「これから休むところ」などと思う者はそうそういないだろう。
「どうもなにも……散歩?」
「……」
さて、どんな返答――ツッコミともいう――が来るかと身構えるスギの前で、レオは眉間に皺を寄せてじっくり考え込んでいた。
『なんで疑問系』『こんな時間に』『聞いてるのはこっちだし』『外の状態、わかってんの?』等々、恐らく一度に浮かんだであろうツッコミを吟味していた風であったレオが、ようやく、おもむろに顔を上げた。レオは真顔で、やはり真顔のスギを真正面から見返し、
「――変態?」
「……せめて『酔狂』って言ってくれ……」
似たようなもんじゃん、とわかってて言ってくるレオに、がっくりと肩を落としたスギはそのまま玄関へと足を進める。玄関のドアを開けると、冷えると思っていた室内がとても暖かく感じるほどの冷気が押し寄せてきた。
「……寒ッ」
反射的に出てきた言葉に、背後から、ふん、と小馬鹿にしたような――むしろ確実に馬鹿にした――鼻を鳴らす音が聞こえた。もっともスギ自身、馬鹿な真似をしているという自覚はあったので、肩を竦めるだけで済ませる。
「じゃ、暖を取りに行って来ます」
意味不明なことを承知の上で投げつけた言葉に、案の定「はあ?」という不審気な声が返される。
それを無視してドアを後ろ手に閉めると、そこはドアの閉じた音だけがやけに響く、しん、と静まり返った世界。
相変わらず雪は空から降り続け、世界を覆う白はより深みを増して。
つい先刻まで相棒と話していたというのに、そんなことはなかったような静けさしか周囲には存在していない。
静かで。
静か過ぎて。
居るのは、自分ひとりだけ。
そんな錯覚を起こしそうになるくらい、音も、温もりもなくて。
――君が、いなくて。
途端、勢いよく横に流れて行く景色と、静寂をぶち壊して無遠慮に響く足音を他人事のように思いながら、スギは走り出していた。
ころん。
ころんころん。
――はあ……。
何度目になるかわからない寝返りをうった後、これまた何度目になるかわからないため息を吐いて、リエは枕元の携帯電話に手を伸ばした。折りたたみ式の携帯電話を開き、そらで打てる電話番号を押していって――結局かけることができず、携帯電話を閉じて再び枕元に戻すのも、何度も繰り返してきたこと。
――はあ……。
暗くてわからないけれど、いま吐いている息は白いんじゃないだろうか、そんなことをつらつらと考えながら、胸元まで下がってしまったかけ布団を引き上げた。
僅かに覗いたカーテンの隙間からは、目が覚めた時からずっと降り続けている夜目にも鮮やかな白雪が見える。
怖いくらい、静かな部屋。凍えそうなくらい、寒い部屋。
――音楽でもかけようか。
ふと思い立ってほんの少しだけ身体を起こす。
――お気に入りのCDをかけて、もちろん時間が時間だからヘッドフォンをつけて、それに暖房もつければ暖かくなるに違いない――
違いない、はずなのだけれど。
本当は違うのだとわかっていたから。
聞きたいのはCDから流れる歌ではなくて。
布団にくるまっていれば充分暖かいのに、それだけでは足りなくて。
なんでこんなに寂しくて心許ないのか。
どうしてこんなに逢いたいのか。
「……逢いたいな」
零れた呟きが泣き声みたいに思えて、リエは小さな唇をぎゅっと結んだ。
せめて声だけでも、と思うけれど、こんな時間に起きているはずがない。起きていたとしても、それは仕事のためのはずだから電話をかけたら邪魔になってしまう。
――だから、ずっと我慢していたのに。
唐突に鳴り響いた音楽はリエの大好きな曲だった。音の発生源がどこかなんて、探すまでもない。その曲が流れている意味がわかりすぎるほどわかっていながら、リエは信じられない面持ちで青い明滅を繰り返す携帯電話に見入っていた。
けれどすぐに我に返ると、慌てて携帯電話を開いて――ディスプレイに表示された名前に泣きそうなくらい嬉しくなって――恐る恐る通話ボタンを押した。
『……あー……ごめん、やっぱり寝てた……よね』
「……スギ、くん……?」
苦笑交じりに聞こえてきた大好きなハニーボイスをやっぱり信じられず、夢見心地のままリエは呆然と呟いていた。
「――なんでわかっちゃったの?」
『……え?』
「リエ、声、聞きたいって思ってて」
ふ、と電話の向こうで優しく微笑む気配があった。それから、ふふん、得意気に鼻を鳴らす音。
『じゃあ、僕の勝ちだね』
「……何が?」
『僕なんて、逢いたいって思ったから――逢いに来ちゃった』
そのひと言に、白々とした間が空いた。
「…………はい?」
言われた意味が理解できず、リエがようよう搾り出せたのは自分でもそれとわかるほど間が抜けた返事だけだった。
『だから、逢いに来ちゃった♪』
楽しげに、妙なリズムまでつけて話す電話向こうの声に、リエは止まりかけた思考回路を何とか動かそうと必死になった。
「……だれに?」
『リエちゃんに』
「来ちゃった、って……」
『窓の外を見てごらん♪』
言われるままにカーテンを開き――息がかかって白く色付く窓の向こう、雪化粧に染められていく世界に立って、楽しそうに手を振る人の姿に、リエの手からぽとり、と携帯電話がこぼれ落ちる。
電話から、リエちゃん? と呼びかける声が聞こえたけれど、言葉を返す時間も惜しんで、リエは適当に目に付いた衣服を手に取ると急いで着替えた。そして、身だしなみを整えるのもそこそこに、掛けてあったマフラーだけを手にして、白く染まった世界へ飛び出した。
いつの間にか、辺りはちっとも静かではなくなり、寒いことも気にならなくなっていた。
――その時のリエは、まだそのことに気付いていなかったけれど。
電話を切っていかほども経たないうちに、深々とした世界がにわかに騒がしくなった。
辺りに響き渡る足音を気にした様子もなく、白い絨毯の上を白い息を弾ませて駆け寄ってくる姿に、スギの顔が自然と綻ぶ。
雪化粧に白く染め上げられた景色に、少女の着ているオレンジ色のセーターが良く映えていた。
それはまるで、ぽうっと灯された暖かな火のようにも見えて、寒さに強張っていた頬が、ふ、と緩み、表情が柔らかくなったのが自分でも良くわかった。
触れ合わなくてもこんなに暖かくて。
触れたらどれだけ温かいんだろう。
そんなことを考えていたら、気付いた時には少女の顔が間近にあった。
「スギくんっ」
駆け寄った勢いのままマフラーを掛けようとする少女の手を取ると、スギは華奢な身体を引き寄せ力いっぱい抱きしめた。可愛らしい悲鳴が上がったけれど、あえて無視。
抱きしめた身体は思った通りに温かくて心地よかった。それが無性に嬉しく、なぜだかとても安心できる。
「あー……やっぱりあったかいなー」
思わず、スギがしみじみと呟いた言葉に怒ったような声が返された。
「リエがあったかいんじゃなくて、スギくんが冷たいのっ」
「えー? だってリエちゃん、すごくあったかいし」
暖かくて、温かくて、溶けていく。
雪が降り積もるように、どんどん積もっていくどうしようもないくらいたくさんの想いが。
積もりすぎて、凝り固まってしまいそうな綺麗なばかりじゃない感情が。
雪が溶けるみたいに、溶けて綺麗な水になって、そうして残るのは優しい気持ち。
ずっとずっと昔からあった、君と初めて会った時に生まれた、一番綺麗で優しい想い。
ぎゅう、と抱きしめていると、背中に手が回された。腕の中で微苦笑を浮かべる気配があって、背中をあやすように優しく叩かれる。
「もう……スギくんって時々すごく甘えん坊よね」
可笑しそうに言われ、スギは咄嗟に「いや、そんなことは」と言いかけた。しかし現在の自分の状態を鑑みるに「そんなことはあるな」と思い直し、だからと言って素直に頷くこともできず正当化できそうな言い訳を探す――までもなく、それは腕の中にあったと気付く。
「……リエちゃん、甘やかすのが上手だからね」
そう言ったら「スギくんのほうが上手だよ」と返された。
だとしたら、それはやはり自分が甘やかし上手なのではなく、彼女が甘え上手なのだと思ったが。
その時、小さく聞こえたくしゃみに、スギは今更ながらに腕の中の少女がほとんど室内着のままであることに気付いた。
「……そっか、リエちゃんのほうが寒いね」
名残惜しいけれど離れようとしたら、背中に回された手に力が篭められて、胸に顔を押し付けるようにくっつかれる。
「リエちゃん?」
「リエも」
顔を上げないまま、呟くような言葉は少しくぐもっていたけれど、それをかき消すような雑音はすべて深々と降る氷の結晶に閉じ込められている。
澄んだ音だけが存在する世界の中で、その言葉は思いのほかクリアに聞こえた。
「リエも、スギくんがあったかいから、もう少しこのままで平気――かな」
伏せられた顔は見えない。でも、どんな顔をしているのかは見えなくてもわかるから。
言葉に甘えて、もう少しだけ互いの温もりで暖をとることにした。