抱きまくら
「――やっ!」
「レオくんっ?」
さなえちゃんがアルバイトをしている雑貨屋さんでカタログを見せてもらっていると、入り口のドアが開いて予想外の人物が現れた。さなえちゃんもよほどびっくりしたみたいで、商品を陳列棚に並べる手が止まっていた。
レオくんが現れること自体は普段だったら別に珍しくともなんともないことなんだけど。
――普段なら。
「え!? なんでレオくんがいるの!?」
「うーわー。なんだろうね、その珍動物か幽霊でも見かけたようなリアクションは。いくら僕でも傷つくことってあるんだよ?」
「だって、今月いっぱい缶詰だー、って言ってたのはレオくんでしょ?」
来月から始まるライブツアーの準備があるからって。ちなみにその時スギくんはと言えば、「いちいち直視したくない現実を直視せざるを得ない発言をするんじゃない」っていつの間にか用意していたハリセンでレオくんを叩いていた。
「レオくん、もう終わったの?」
「あのね、リエちゃん。人間、息抜きっていうのはとっても大切なものなんだよ」
……それはつまり、終わっていないのに抜け出して来たっていうことなのかな……?
「レオくん、ちゃんとお仕事しないと駄目でしょう」
何と言って良いかリエが悩んでいると、さなえちゃんが微苦笑を浮かべてレオくんをたしなめた。途端にレオくんは、しゅん、として――何となく怒られた仔犬が耳を垂らして項垂れる姿に似ていると思った――、「でもさ」と唇を尖らせて言った。
「さなえちゃん欠乏症でレッドランプが点灯中だったんだよ」
――あ、さなえちゃん、顔が赤い。
さなえちゃんは「――もう」って小さく呟くと、ぷいと顔を背けて商品の陳列を再開した。なんでもなかった風を装っているけれど、飾りを倒したり、置き場所を間違えたらしく何度も並べ直しているから、実のところかなり動揺しているみたい。
――さなえちゃんたら、かわいいなぁ。
そう思って、自然と笑みが零れた。レオくんも同じ感想らしく、すごく嬉しそうな笑みを浮かべている。なんだか「さなえちゃんはかわいいだろう」って自慢されているみたいだった。
「……って、あれー? さなえちゃん、相手してくれないの?」
「お客様以外は、仕事がひと段落つくまで相手をしてあげません」
「えー!?」
「駄目だよ、レオくん。さなえちゃんのお仕事邪魔したら」
「……はーい」
レオくんは大人しく返事をすると、勝手知ったる気安さでカウンターの後ろから椅子を引っ張り出してそこに腰掛けた。「いっそお客になろうかなー」とぶつぶつ呟きながらリエが見ていたカタログを隣から覗き込んできたので、カタログを譲ってあげる。
ちょうど欲しかった品物も見つかった所だったし。念のためそのページに付箋を貼って、メモ帳にページ数とか商品名、注文番号をメモしておいた。
「そう言えば、スギくんはどうしたの?」
リエがそれを尋ねたのは、商品の陳列が終わったさなえちゃんが、リエとレオくんにココアを入れるため店の奥に入っていた時だった。
最初は、遅れてくるのかな、って思ってたんだけど、全然姿を見せる様子がない。
だから思い切って――できるだけさり気ない様子を装ったつもりだけど――訊いてみたら、レオくんの答えは至極あっさりしたものだった。
「スギ? いや、さっぱり知らないけど」
「……え」
「そんな、ひどく傷ついた顔されても……今、僕はホテルに缶詰状態でさ。スギは自宅なんだよね。だから実は僕もここ一週間ほどスギの顔をまったく見てなかったりして?」
「……何で疑問系なの?」
「ミニアルバムで使用する予定の写真の中にスギの写ったものもあったんだけど、これって一応顔を見たカウント内だと思う?」
「え? えーと、一応入れないほうが良いと思う」
「じゃあ、『まったく見てない』に訂正。もっとも、メールや電話でやり取りはしてるけどね、さすがに」
「じゃあ、今日、スギくんもここに来るとは限らないんだ」
レオくんは一週間見てない、って言ったけど、リエは半月近く顔を見ていないし声も聞いていない。その分、CDはたくさん聴いていたけれど。
「……あー、そう言えばリエちゃんにぜひ貸したいレコード、この間ようやく返してもらえたって言ってたなー。スギに出かける余裕はないから、リエちゃんが家に行ってくれると喜ぶんじゃないかな」
唐突な言葉にきょとん、とすると、レオくんはにやりと笑って見せた。
「別にリエちゃんに対する善意だけで言ってるわけじゃないよ? スギが『貸したいけど貸しに行く時間がない』って喚いていたのは事実だし、何よりこれからリエちゃんがスギの所に向かってくれればさなえちゃんとふたりっきりになれるし?」
最後に「スギに対する陣中見舞いの意味が込められていないわけでもない」と付け足して、さあどうする、って試すような笑顔を向けられる。
――そんな風に言われたら。
「――じゃあ、素敵なきっかけをくれたお礼に、さなえちゃんとふたりっきりにしてあげるためにもスギくんのところに行ってこようかな」
――答えなんて決まってるでしょう。
チャイムを鳴らしても返事ひとつなく、もちろんドアには鍵が掛かっていた。出かけているのかなと思って以前もらったスペアキーを取り出す。レオくんに「鍵が閉まってたら勝手に入って中で待っててあげてよ。前にスギから鍵をもらってただろ?」って言われていたからできる行動だ。
いくら鍵があっても、いつ来てもいいよって言葉があっても、なんの切っ掛けもなしに訪ねることは難しくて、スペアキーを使って鍵を開けるのはこれが始めてだったりする。
鍵はすんなり開いて、それはあたりまえなのことなのだけれど、それが無性に嬉しくて頬が弛むのが自分でも良くわかった。
中に入り、玄関のドアを閉めながら、
「――さむい」
思わず呟きが零れ落ちて、コートを脱ごうとボタンにかけた手が止まってしまった。
季節の変わり目のこの時期、夏が間近まで迫ったような陽気になったかと思えば、一転して冬に逆戻りしようとしているとしか思えないくらい冷え込んだりもする。
今日は冷え込んだ日で、春物のコートでは少し肌寒く感じるくらいだったけれど、陽射しはとても暖かかったから外を歩いている時にはたいして寒さは気にならなかったのに。
部屋の中の方が外より寒いなんて、変でしょう。
すこし逡巡して、でも中に上がるのだから、と着ていたコートを脱ぐとやっぱり寒くて、脱いだばかりのコートを抱きしめるようにして抱え込んだ。体温のぬくもりが残ってほんのりと温かいコートはちょっとしたカイロの代わりみたいだった。
「おじゃましまーす……スギくん?」
居間に行くと、ソファにもたれて熟睡しているスギくんがいた。その周囲――ソファとかテーブルとか足元――に楽譜と鉛筆が落ちているから、作詞とか作曲中にうたた寝をしてしまったんだろう。
もちろん、居間も玄関ほどではないにしろ、薄手のシャツでは寒いと感じるくらい冷え込んでいる。そんな中、彼は半そでのTシャツとジーンズという、肌寒いこの部屋にあまりそぐわない格好をしていた。眠っている彼も寒いと感じているのか、ほんの少しとはいえ眉間を寄せている表情は、あまり穏やかな寝顔には見えない。
確かに、昨日までは夏物の服でちょうど良いくらいの気温が続いていたけれど、今日みたいな日にそんな格好をしていたら風邪を引いてもおかしくない。
そんなことになったら大変。
眠っているスギくんの前まで行くと、彼を起こさないよう、抱えていたコートをそっと掛けた。ただ、リエのコートだと上に掛けるだけといっても少し小さすぎるし、春物の布地が薄いものだからそれほど暖かいというわけでもない――現に、コートを着たままでも室内が寒いと思ったのだし――はずなのだけれど、彼の寝顔から眉間の皺が取れたのを見て嬉しくなった。
ばらばらに落ちている楽譜を拾い集めながら、もう少しちゃんとしたものを――スギくんの部屋から毛布を取ってこようか、でも無断で私室にまで入って良いものだろうかと考えていたら、小さなくしゃみが聞こえた。
……うん、やっぱり毛布を取ってこよう。部屋を漁るわけじゃないもの。
一度起こしてベッドで寝るように言おうかとも思ったけれど、薄っすらと残る目の下の隈を見ると起こしてしまうのはどうしても忍びなかった。
楽譜と鉛筆を拾い終わり、彼の部屋に行こうと立ち上がり、
――ぐい。
「――きゃあ!?」
突然、腕が引かれて後ろに倒れ込んでしまう。
部屋の景色が前へと流れ、倒れ込んだ身体は温かい腕に抱きとめられる。その拍子に、手に持っていた楽譜と鉛筆を手放してしまい、放り出された楽譜がばらばらと宙に舞った。
うぅ……拾う前よりひどい状態に……。
「……………………あれ、リエちゃん?」
その時、耳元で未だ寝惚けている調子の声が聞こえて、思わず焦ってしまった。
ちょうどリエがスギくんの膝の上に座るような体勢で、スギくんが背後から肩越しにリエを覗き込もうとするものだから、ふたりの顔がとても近い。
「あ、ご、ごめんね、スギくん。リエ、起こしちゃったみたいで」
いくら大好きな声だからって、大好きな声だからこそ耳元で聞こえてくるのはちょっと――ものすごく心臓に悪いと思うのですが、スギくん。
慌ててスギくんの上からどこうとしたのに、彼の腕はいつの間にかリエのお腹の前にしっかり回されていて、つまり、背後から抱きしめられている状況ではそれもままならなくて。
「あの、スギくん?」
「んー……」
まだ眠りの縁に立っている状態らしいスギくんは、ぼーっとした調子で返事を返しつつ、すぐにうつらうつらと船を漕ぎ始める。
「えっと、ほら、眠るんだったら、リエ、重いでしょ? どくから放して?」
今度は返事がなくて、代わりに肩口に温かな重みを感じた。
リエの肩に顔を埋めたままのスギくんから、すやすやと心地よさそうな寝息が聞こえ始める。
――どうしよう。
抱きしめられているこの状態は、温かいというよりむしろ熱いくらい。
そのおかげで、寒いのなんか少しも気にならなくなったけれど。
「……すーぎーくーん」
どうしたら良いかわからなくなって、呼びかける声も泣き声混じりになってしまう。
「んー……」
「お願いだから、放してー……」
「んー……? だいじょーぶー……あったかいー……」
会話になってないよ、スギくん……。
ほとんど寝言に近いくぐもった呟きと同時に、抱きしめる腕に更に力が籠められた。
それはまるで、放さない、って返事を言われたみたいで。
そこから自力で抜け出すなんて、絶対、無理。
うん、絶対。
――だって。
起こしたくない、とか。
力じゃかなわないから、とか。
そんな理由以前に、今この状況が嬉しいって気持ちが確かにあるから。
「――もう、仕方ないなぁ」
何とか抜け出そうともがくのをやめて、あきらめのため息ひとつ。ため息を吐きながら、口許は自然と弛んでしまうけれど。
力を抜いて後ろに体重を掛けて、スギくんに寄り掛かる。
ふたりの間の、ほんの少しの隙間さえも埋めるように。
そうして背中に感じる、彼の体温。
……同じだけの温かさを彼も感じていてくれるのだろうか。
相変わらず肌寒いはずの部屋の中。
――せめて貴方が目覚めるまでは、あたためあっていましょうか。
そんな理由を思い浮かべて瞳を閉じた。