ぬくもりをくれる人
真っ白なキャンバスの上に、同じようで少しずつ色合いの違う青が何度も何度も重ねられていく。
描かれているのは遠くに見える冬の海。
描いているのは、黒い尻尾をゆらゆら揺らしている青年。
海と町が見渡せる丘の上で、スミレは大勢のクロミミウサギことアップアップたちを抱えて座り込み、青年が絵を描き上げていく様子をじっと見つめていた。
見晴らしが良い分、冷たい海風がふいても遮ってくれるようなものがないから、スミレとアップアップたちは寒さに顔を真っ赤に染めて、おしくらまんじゅうよろしくぎゅうぎゅうと身を寄せ合っている。
時折、押し出されて転げ落ちそうになるアップアップを拾っては元の位置に戻しつつも、スミレはキャンバスから目を離そうとはしなかった。青年に話しかけることもせず、眼下に広がる景色がキャンバスに描かれていく様子を楽しそうに眺めている。
しばらくして、青年の手が止まった。けれど、キャンバスには布地の白い部分が残っている。
「睦月君、今日はもうおしまいなの?」
不思議そうに訊ねてくるスミレに、青年――睦月は微苦笑を浮かべて振り返った。
「うん……スミレちゃん、退屈でしょう?」
「あら、そんなことないわ。とても面白いわよ?」
そう答えて、スミレは睦月越しにキャンバスを、キャンバス越しに冬の海と町並みとを見比べる。
夏、強い陽射しを受けて眩しいくらいに輝いて見えていた海は、あの時と同じ場所から見渡している同じ海であるはずなのに、その青さすらまったく違って見える。
それは眺めているだけで寒さが忍び寄る冬の色だ。
――けれど。
キャンバスに描かれた海は、寒くない。
そこに描かれている海は、冬の色で彩られているのに何だかとても暖かい――優しい海だった。
それはきっと、睦月が見て感じている世界のありのままの姿なのだろう。
「面白いかなぁ?」
「面白いわ」
首を傾げる睦月にスミレはきっぱり頷き返した。
そして、「それに」と胸の内でこっそり呟く。
――それに、嬉しい。
キャンバスを通して睦月と同じ世界が見えるから。
そのことを教えてあげる気なんてないけれど。
「だからちっとも退屈じゃないわね」
重ねて言っても睦月に納得した様子はなく、相変わらず絵筆は止まったままだった。
スミレがむっとした表情で「それとも私がじっくり観賞するのは似合わないとでも言うつもり」と睨んで見せると、睦月は「滅相もない」と首を振った。勢い良く首を振りすぎて、被っていた帽子が落ちて黒い猫耳がぴん、と立つ。
「……そんな大袈裟に首を振られると、私が脅してるみたいじゃない」
「え、いや、そんなつもりじゃ」
「もうっ! いいからさっさと再開しなさい!」
帽子を被りながら弁解しようとして今度は手にした絵筆を落としそうになっている睦月に、スミレは普段アップアップたちにするように、びしっ、とキャンバスを指差した。
スミレを真似て、アップアップたちも目一杯身を乗り出して、びしっ、と指差す。
睦月は一瞬、ぽかんと呆気に取られたかと思うと、思わずといった様子で小さく吹き出した。
「うん、じゃあ、お言葉に甘えて」
笑いの残滓をそのままに答えると、睦月はスミレに背を向けて絵筆が再び動かし始めた。
スミレも何も言わず、先ほどと同じように静かにキャンバスに描かれていく海を見つめている。
結局、その日はすべて描き終わらず、日が傾く前に睦月は画材を片し始めた。
「もういいの?」
「うん。昼の海を描くつもりだったから。これ以上は夕方の海になっちゃうし」
ふーん、と相槌を返しながら、アップアップたちを抱えたままスミレは立ち上がった。抱え切れなかったアップアップらは自力でスミレの背中や足にしがみついている。
くしゅん、という小さなくしゃみが聞こえてきたのは、片づけを終えた睦月が画材を入れたカバンを肩にかけた時だった。
「睦月君、大丈夫?」
「――うん、やっぱり今の時期は冷えるね――くしゅっ」
そう言って鼻を啜っている睦月は、絵を描いている時は少しも寒そうな素振りは見せなかったのだが。
スミレはそんな睦月の様子を見て、ふむ、と頷いた。
「睦月君」
スミレはやおら睦月に近寄ると、唐突に睦月が着ているコートの襟元を掴んで引き寄せた。コートのボタンを器用にも片手で外し、胸元をあけるようにする。
「……え、ス、スミレちゃ……うひゃあ!?」
睦月が奇声を上げてしまったのも無理はないだろう。
あけられた胸元めがけて、数匹のアップアップが投げ込まれたのだ。
一瞬、宙を舞ったアップアップたちは、睦月にしっかとしがみついて亀のように縮こまってしまう。
しかも、上手く服を掴めていないため今にも落っこちてしまいそうなアップアップもいて、睦月は慌ててアップアップたちをしっかり抱え込んだ。
何とか上手い具合にアップアップたちを抱え、しかしほっと安堵する暇もなく、今度は居心地のよい場所を求めてアップアップたちが懐でもぞもぞ動くものだから、くすぐったい。
けれど寄り添うぬくもりたちはとても温かくて――気が付けば寒さがまったく気にならなくなっていた。
「お裾分けしてあげる」
「いいの?」
「ただし! 家に帰るまでだからね!」
真顔で釘を刺す少女に苦笑を浮かべて頷き返す。
ふたりでアップアップたちを抱えながら、肩を並べて丘を下る。
「あったかいよね」
「でしょう」
「うん。ありがとう、スミレちゃん」
「どういたしまして」
澄まして答えるスミレに思わず笑みを零した睦月は、続いた言葉にきょとん、とした表情を浮かべた。
「だって世の中、ギブ・アンド・テイクでしょう」
「――えーと、スミレちゃんは何か温かい飲み物を御所望ということでしょうか」
あたたかいものを分けてあげたからあたたかいものを奢りなさい、という意味だろうかと思って尋ねてみると、「違うわよ」と否定の言葉を返され、ますます睦月の周りに疑問符が飛ばされる。
その、なんだか情けなくも見える表情に、スミレはくすくすと楽しそうな笑顔を浮かべた。
「私の方が、先にあったかくしてもらったのよ」