CHERRY〜恋人よ、桜色に染まれ〜
――澄み切った青空が茜色に染まる。
しかしそれも一時のこと。茜色に染まった空はすぐに濃紺へと色を変える。
陽が完全に沈み、燦々と輝く太陽の代わりに花見会場を照らすのは、月と星々から降り注ぐささやかな光と、日暮れに合わせて灯された、あるいは会場の周囲に立ち並ぶビルから漏れた地上の灯だけ。そこにあるのは、すべてを鮮明に照らすには余りにも少なすぎる、昼間とは比べ物にならない僅かな光だった。
しかし、数時間前の晴天の下の光景と比べるとあまりにも様変わりした世界で、僅かばかりの光を受けた桜――見るものを魅了してやまない、鮮やかにして艶やかに咲き誇る薄紅――は、まるでそれ自身が光を放つかのように、宵の闇に沈む世界から浮かび上がっているかのようだった。
晴れ渡る蒼穹の下で爛漫に咲き誇っていた桜の花は、僅かな光によってのみ照らされる濃紺の世界に変わっても少しも色褪せることがない。むしろその佇まいは、背景をより色濃い濃紺へと変えたことでいっそう引き立てられ、眩さを増したようにも見える。
昼間に見る桜とはまた違った、幻想的とも言える桜の姿――まるで別世界のような光景を前に誰も彼もが心を奪われる。
ぽかん、と呆けたように立ち竦むニャミも、そんな中の一人だった。
「――――――はあ〜」
息をすることさえ忘れて目の前の光景に魅入っていたニャミだったが、その状態も三十秒を過ぎた頃になれば流石に息苦しくなってくる。息苦しさを覚えたことで呼吸することを思い出し、溜まっていた空気を全部吐き出すように息を吐く。単なる呼気でしかないはずのそこには隠しようのない感嘆の色が含まれていた。
「いや、絶景かな絶景かな」
続いて口をついたのは、なんの捻りもない、けれども目の前の光景を的確に表した言葉だった。
ニャミの隣に並んだタイマーは言葉もないのか、ただひたすら首を縦に振ることで同意の意を示している。
二人仲良く並んで桜を眺めているが、実際の所二人っきりで花見に来ているわけではなかった。この花見会場の場には各々のパートナー――相方とも相棒とも色々と呼び方はあるが――であるミミもアイスも来ているし、他にも大勢同伴者がいる。やけに大所帯な理由は単純明快で、花見会場に来た理由は純粋な花見目的ではなく、バラエティ番組のロケのためだったからである。
ニャミとタイマーの花見は、ほぼ一日掛かりの撮影もようやく終わり、撤収間際の僅かな時間を利用してのことだった。
「夜桜ってのもいいもんねー」
酒もつまみも何もない、文字通り花を見るだけの花見だったが、そんなことは些細な問題だと言わんばかりに目の前に広がる光景がお気に召したらしい。至極ご満悦の体のニャミの笑顔に、タイマーも釣られたように笑みを深める。
――深めすぎて、すでににこやかとか満面の笑みとか、そういった表現に相応しい域を超えて、でれでれに溶けきってしまった顔になっていたが。
「そうだね。これを見ちゃうと、昼間の内だけで花見を済ませちゃ絶対勿体無い、って思うね」
「うんうん。これは予想以上に素晴らしい発見。花見をする時はぜひとも宵越しする計画で行くべきね」
「……いや、宵を越しちゃうのは色々まずいと思うよ。まだ夜は冷えるし、夜更かしは美容に悪いし。治安の問題はあんまりなさそうだけど」
「……むう。それもそうか」
そのまま勢いで宵越し前提の花見が計画されそうになったところで、タイマーが慌てて突っ込みを入れる。その冷静なひと言に、ニャミは不承不承ながらも頷いた。
仮にも身体が資本の芸能人として、健康と美容の面でストップを掛けられては思い止まざるを得ない。
ちなみに、あちらこちらから「くらえ、正義の力!」だの「悪は許さない!」だのという声が響いているので、治安については、どうやら悪が栄える暇も隙間もなさそうではあった。
「…………でもさ、ダーリン」
「うん?」
「翌日にしっかりオフ日を獲得しておいて、防寒対策もバッチリなら宵越しの花見計画もありって思わない? てゆーか、ありでしょ」
「えーっと……? そ、それはそうだと思うけど……」
何やら静かに燃え立つ炎を背負ったニャミの様子に気圧されたのか、及び腰になったタイマーはかくかくと頷く。ただし、同意の返事をしているものの、答える歯切れは悪いし、どこか気難しげな表情は納得しきっていない心情を如実に表している。
「女の子が夜更かしなんて危ないよ」
「……いや、まあ……何と言うか、何よりもそこに落ち着くわけね……でもついさっき治安の面だけは安心ってなこと先に言ったのダーリンだし……?」
「それとこれとは話が別ー! もー、どうしてニャミちゃんはそんな危険なことしたがるかなっ」
「それはほら、だってねえ。昼間の桜は綺麗で、夜の桜もこんなに綺麗で。そしたら夕暮れ時や陽が昇る頃の、昼でも夜でもない時間帯の桜もじっくり見てみたいじゃない?」
「――それはわかるけど……でも、危ないからダメ! ………………はっ! そうか、いっそこの会場を貸切にしてしまえばそれもあり――」
「…………あー、はいはい。ダーリン、とにかく落ち着いて?」
タイマーの過保護とも言える言動にすっかり慣れているニャミは、ほんのわずかばかり肩を落とすと軽く頭を振った。できることならこの過保護っぷりをどうにかしたいと言うのは、ニャミが日々常々思うことではある。しかし、口で言ったくらいでどうにかなるなら当の昔にどうにかなっている、つまり何をどれだけ言ってもどうにもならないことは、これまでの経験上イヤと言うほど知悉している覆しようのない事実でもあった。
ニャミとしては、時間がある時ならば無駄とわかっていても一縷の望みにかけて『説得』をすることはやぶさかではないが、今はせっかくの花見を優先させたかった。時間的にもそろそろロケバスに戻らないといけない刻限も迫っていることだし。
言葉だけでは落ち着かないタイマーを最終的には拳で黙らせてから、ニャミは改めて幽玄な美を誇る桜に見入った。美人は三日で飽きるというが、これだけ美しいものはいくら眺めていても飽きることはないだろうな、と漠然とそんな感想を思い浮かべる。
「それにしても、白っぽかったり色の濃さに差はあるけど、どれも綺麗な――これぞ桜色、って感じよね。どうしてこんな綺麗な色になるんだろ?」
返事を求めたわけではない、うっかり零れたニャミの独り言に、タイマーが自信満々に手を挙げた。
「あ、ぼく、わかるよ!」
「『わかる』ってまた妙な……言っとくけど、サイエンスちっくなウンチクも、ホラーな語りもいらないからね?」
――それ以前に、そこは普通「知っている」という表現になるのではなかろーか?
と、内心首を傾げながら、ニャミは念を押す。
「違うよ、そんなんじゃないって」
あんまりと言えばあんまりなニャミの言い分を少しも気にした様子もなく、タイマーは胸を張って、
「これはさ、みんなに褒められて照れてるんだよ!」
自信満々――そんな言葉では到底生温い、確信があるとかそういったレベルですらなく、あたかも普遍の真理を述べるが如く、タイマーは躊躇なく言い切った。
それまで疑惑に満ちていたニャミの視線が、一気に遠く――ここではないどこか――を見つめる眼差しへと変わっていく。
「…………………………………………それはまた新説ね」
しばらくの沈黙の後、ようよう絞り出した感のあるのニャミの口調は、苦々しいと言うより色々と疲れ切った人を彷彿とさせるものだった。
「じゃあ、あれか。赤っぽいのは照れやすく、白っぽいのは図太いとか表情が出にくいとかでも言う気か、ダーリンは」
「む。じゃあ、証明してみせようか?」
途端、真剣な顔をしたタイマーが、ニャミの頬にそっと手を添えた。
突然の行動に、ニャミはドキリと胸を高鳴らせながらも、表面上は口をややへの字に曲げ、眉間にもきゅっと力を寄せる――いわゆる『不機嫌そう』な表情を作る。そうやって、深く意識しないレベルで実際の感情とは反対の――あるいは、ある意味思い通りの――表情を作るという、器用なのか不器用なのか判定に困る真似をしながら先ほどの会話を思い出していた。
彼の言った「褒められて照れている」という説、そしてその「証明」。となれば、どうせ「綺麗だよ」とかそういった褒めゼリフを言って照れさせようと言うのだろう。
――そう簡単に照れると思ったら大間違いなんだから。
妙な対抗心から、ニャミはこれから続けられるだろう言葉に対し、しっかりと心構えた。
お互いの鼻と鼻が触れ合うほどの至近距離。互いに目を逸らさず、相手の視線を真っ向から受け止める。
そこには巷でいう所のバカップルが醸し出す甘ったるい気配など微塵も感じられず、傍から見ても、決闘中の番長、と言った言葉が相応しい様相である。少なくとも、睦言を言い合う恋人同士にだけは見えない。
もっとも、ニャミを紅く染める――照れさせる――ことが主題で、照れたらニャミの負けという勝負だとするなら、勝負はとっくについているようなものだった。
目を逸らさないことに必死のニャミは気付いていなかったが、すでにニャミの頬は薄っすらと色付いていたからだ。ニャミとしては異様に熱く感じる頬を冷ましたかったが、ここで下手に動くこと――特に、そのために頬に添えられたタイマーの手を払い落とすような真似――はできなかった。
真剣勝負じみた空間内では、目を逸らすことも、頬に感じる手の感触を振り払うことも、それはすなわち内心の動揺を、ひいては負けを認めることも同然なのだから、とニャミは思っている。
――何とも色気のない話ではあったが。
やがて、真剣な表情を浮かべていたタイマーの顔が、ふわり、と緩んだ。
「――――ニャミちゃん」
名前を呼ばれただけで、ニャミの瞳が揺らいだ。タイマーの唇がゆっくりと動き、一字一句を刻み込むように、ゆっくりと、囁くようにその言葉を紡いでいく。
「愛してる」
そうして告げられた言葉。その一字一句が確かにニャミの耳に入ってくる。一拍遅れて、言葉の意味が脳内に、心に刻まれる。
「――――――――――ッ!」
ぼっ、と火がついたようにニャミの顔が桜色を通り越し、真っ赤に染まった。
身構え、固く握り締められていたニャミの拳が、わなわなと震えだす。
その震えは不意にピタリと止まり――しかしそれは、大噴火の前兆にしか過ぎなかった。
そして前兆はほんの一瞬。
ひと呼吸ほどの間も置かず、一気に爆発した。
「――それ! 褒め言葉じゃないでしょー!」
――ドカ。バキ。グシャ。
怒号と共に響き渡る、人体から発せられるものとしては、おおよそ不適切極まりないだろうものも混じった音の三連発。
ニャミは、正しいけれど方向性をどこか間違ったツッコミと共に、満足げな笑みを浮かべる目の前の男を有無を言わさず殴り倒す。
ミミが現われたのは、そんな凄惨な瞬間が終わった直後、大きく肩で息をするニャミの目の前でタイマーが大地に沈んでいく最中のことだった。
「ニャミちゃーん、タイマー。そろそろ片付け終わるから戻って………………おおう」
「……あー、ミミちゃん。そう、そんな時間なの。それじゃ行こっか。さっさと行こっか。とっと行こっか」
「え? あのニャミちゃん? でもそこの…………………………ううん。なんでもない。じゃあ、行こうか」
折りよく、出発の時間を伝えに来たミミをそのまま引き摺りつつ、倒れたままのタイマーを放置してロケバスに向かう。肩を怒らせ、欠片の未練も見せず歩を進めるニャミとは反対に、ミミは引き摺られながら、ちら、と背後を振り返った。もっとも、だからといって、ボロ雑巾のように倒れ伏す人影を目にしても眉一つ動かさないし、ニャミを止めようとかいう素振りは微塵もない。
「あと10分以内に戻ってきてねー」
こういった光景がすでに日常茶飯事であるせいか、ミミの方もタイマーを気遣う様子はなく、時間だけをしっかり伝える。
タイマーが身体を起こした時には、ニャミとミミの姿はすっかり小さくなっていた。
「……褒め言葉と違うのはわかってたけど、しょうがないじゃないか」
先ほどのことを思い出す。最初は、ちゃんと普通に褒めるつもりだったのだ。可愛らしいのに、今ひとつ自覚の足りない恋人に。
けれど、何かを言う前にも関わらず薄っすら色付いていくその姿を見て、褒め言葉より先に口をついて出たのは、とてもじゃないが押さえ切れない彼女への想い。
その言葉をそのまま口にしたら、彼女がどんな反応をするか火を見るより明らかだったが、だからと言って止められない――止めようと思わなかった。
どの桜の木よりも綺麗な薄紅に染まった恋人を、もっともっと、色鮮やかに染めたくなってしまったのだから。