桜の君
――なにか、きこえる……?
耳朶を柔らかくくすぐる音に、心地良い微睡みの中にあった意識がゆっくりと浮かび上がってくる。
薄っすらと開いた瞳に映るのは一面の桜色。そして、桜色の空から緩やかに降り注ぐ空の欠片――優美に舞う桜の花びら。
――ああ……さくらのふるおとが。
はらり、ひらり、と音もなく舞い落ちる花びらの、けれど空から降る音が聴こえているのだ、と少女はゆめうつつに想う。
それは穏やかな旋律とやわらかな響きが織りなす、とてもあたたかな音。
初めて気付いたその音は、聴き慣れた音楽のようで――
――とてもきれい。
いまだ抜け切らぬ微睡みの縁から眺める世界は常になく幻想的に映り、少女の口許が自然と綻んだ。
桜の花びらは降り続け、時には少女の頬を優しく撫でていく。
降り注ぐ桜色と、聴こえてくるあたたかな音。それが少女の目に映るものであり、少女の耳に届くもの。
――でも、もしかしたら。
見えているものは桜の花びらではなく、聴こえているものは桜の降る音ではなく、聴こえてくるあたたかな音の形が見えているのかもしれない。
聴こえないはずの音が聴こえて、見えないはずの形が見えて。
だとしたら、それを――形のある音を手にすることもできるだろうかと、少女は手を伸ばそうとした。けれど身体はやけに重く、思うように動かない。それでも何とか持ち上げた手を顔の前にかざすようにして、手の平を天に向けた。
はらり、ひらり。
次から次へと天から降りてくる桜色の小さな舞手たち。その内のひとつが少女の手を降り立つ舞台と定めたようにゆっくりと降りてきて――
するり、と。
桜の花びらはかざされた手の平をすり抜け、少女の鼻先と頬をそっと撫でると、静かに地面へとその身を降ろした。
――……あ…………。
落胆に、少女の口から寂しげな吐息が零れ、
「……リエちゃん?」
舞い降りてくる桜色は変わらぬままに、それが奏でていたはずの音だけが止んでしまった、と最初は想ったけれど。
「――リエちゃん」
――おと、が……?
繰り返し、繰り返し。
降り続ける花びらと一緒に、先ほどまでとは違う、けれど同じ音が落ちてくる。
だから、それは止んでしまったのではなくて、ただほんの少しだけ、旋律が変わっただけなのだと気がついた。
「――リエちゃん」
桜の降る音が、いつの間にか少女の名前になっている。
――よばれてる……?
覚めきらない意識のままでは、誰が、とか、誰に、ということまで思い至らない。それでも、呼ばれているのだから、と少女は顔を僅かに左に――音が降ってくる方に傾ける。
そこに居たのは、少女のよく知る人で、とても大切な人で――とてもとても大好きな人で――降り注ぐ音の持ち主だった。
「――――」
彼の名前を呼ぼうとして囁きにさえならなかった声は、ささやかな吐息となって少女の唇を微かに震わせた。
身体が重くて思う通りに動かせないように、思うように声を出せないでいるのか、それとも知っているはずの彼の名前を思い出せないのか。
名前を呼べない理由はわからないまま、ただ名前を呼べないことが寂しかった。
少女が茫洋とした視線を向けた先で、彼は立派な桜の木を背後にして少女を見つめていた。見つめ返せるほどの強さを持った視線を返せず、ただ向けた視界の先に居る彼を眺めている内に、桜の花びらの舞い落ちる音を奏でる彼もきっと桜の木なのだろう、そんなことをぼんやりと霞んだ思考のままに想う。もちろんそれは違うとわかっていたけれど、今日という日ならそれは彼にとてもよく似合っているような気がした。
「――リエちゃん……?」
そうして、何度呼ばれただろうか。
彼という桜の木を見つめていた少女は、掲げたままだった手が温かなものに包まれるのを感じた。
視線を彼から自分の手元へ移すと、彼の手が少女の手を包み込むように添えられていた。
今も天から舞い降り続ける桜の花のように、そっと、音もなく――けれど彼が降らせる音のように――彼から与えられる温かさが、小さな少女の手をすっぽりと包みこんでいる。
今、彼は桜の木で、だとしたら彼からもたらされたこの温かな彼の手は、彼と言う桜の木の桜の花で。
とりとめもなく浮かび続ける言葉のひとつひとつを繋げていく。
そうして、少女の至った結論は――
「――つかまえた」
先ほど掴み損ねた桜の花びらを、降り注ぐ音の形を、今度はちゃんと手にすることができたのだ、と。
それは少女にとってとても嬉しいことで、自然と頬が緩み微笑を浮かべていく過程をはっきりと自覚していてもそれを止められない――止める気もなかったのだけれど。
そして手にすることができたそれを手から零れ落ちたりしてしまわないように、少女の手を包み込む、少女の小さな手には余る大きさのその温もりを、少女は精一杯の力を籠めて、ぎゅう、と握り締めた。
それに応えるように、温もりは少女の手を握り返してくれる。
固く結ばれた手は、きっとほどけない。
そのことにとても安心したせいだろうか。
浮上しつつあった少女の意識は、再び桜色の微睡みの中へと沈んでいった。
それは偶然から派生した必然ともいえる状況だった。
朝から(ぼくとレオは少し遅れたけど)来ていたお花見会場。メンバーはぼく、レオ、リエちゃん、さなえちゃんといういつもの面々の他に、サイバーとパルのセイギノミカタとウチュウジンという異色コンビが追加されていることもあり、ぼくらのお花見は早い内から宴もたけなわという盛り上がりだった。
もっとも、そんな全力疾走的盛り上がりを維持し続けることは難しい。昼食後、時計の長針が二回りもする頃には盛り上がりの最初のピークもずいぶん落ち着いていた。
で、気がつけばぼくらの周囲だけずいぶんまったりとした閑静な空間となっていたのだ。閑静といってもぼくらが陣地取ったシートから一歩外に出れば、世界の大半は賑やかな喧騒に包まれているし、その喧騒はぼくらの元にも充分過ぎるほどに届いている。それでも、そんな喧騒が少しも気にならない、まるでぼくらの周囲だけ別世界になってしまったような、耳や肌で感じられる静けさとは違う、けれども確かに静かだと感じられる空気で辺りが満たされていた。もちろん、それはぼくらだけのことではなくて、同じようにまったりしているところもちらほら見えるけど。
ちなみにサイバーとパルは自主的に花見会場の巡回パトロールとやらに出かけていた。セイギノミカタというのも大変だ。
それはともかく。
まったり静かな空間でぼくらも自然と無口になって、していたことと言えば爛漫の桜をじっくり眺めてみたり、お弁当のおかずやお菓子をつまんだり。
何かのきっかけで簡単に崩れてしまうだろう偶然生まれたもの静かなひと時を、ぼくらは揃って無言のまま思い思いに過ごしていたのだった。
――ところで、昼食後でお腹は満たされ、晴れ渡る空の下は春の陽気でぽかぽかと暖かい、とくれば、必然的に引き起こされる現象というものがある。
それは目蓋がやたら重くなったり、思考がぼんやりとしてきたり、気が付けば身体が斜めになっていたりという現象――つまり、睡魔に襲われる、ってやつである。
その現象は当然ぼくにも例外なく襲い掛かり、ぼんやり見上げていた桜の木が二重三重に分裂を始めた辺りで、ぼくは抗うことなく眠気に身を委ねようとして――ついでに同じく隣で桜を見ていた女の子側に身体を傾げて、ちゃっかりそっち側に倒れこむように小細工をして。
そうしたらうっかり先を越されてしまったのだ。
さあ目を閉じてしまえ、と思った矢先に、とすん、と左肩に感じた重み。
それは温かいものであったにも係わらず、冷水を浴びせられたようにぼくの眠気は一気に吹き飛ばされてしまった。
それが何であるか見なくたって予想できるし、その予想は天変地異が起こるか魔法でも使われない限り外れないってわかってる。それでも確かめずにはいられなくて、恐る恐る首を下げて左下に目線を向ければ――
――そこには予想通り、ふわふわの茶色い綿菓子が。
……って、いやそれ違う。あぁ、いや違わないんだけど……どっちだ。落ち着け。
予想通りなのは間違いなかった。だからつまりぼくの左肩に見えているのは茶色い綿菓子じゃなくて正真正銘隣に居た女の子、リエちゃんの頭ということになる。妙な所で現実逃避して事実誤認するな、ぼく。
――さて。
正しい現状把握ができたところで……どうしたらいいのかと途方に暮れた。
俯き加減のリエちゃんは、幸いなことにと言うか残念なことにと言うか、ぼくの肩越しからでは寝顔がよく見えない。でも、左肩は相変わらずあったかいし、微風にふわふわと揺れる髪の毛がくすぐったいし、無音と言うわけでもないのに彼女の微かな寝息は良く聞こえてくるし。
つまり、近い。ものすごく近いんですが。いつもなら君が真っ赤になっちゃうくらいの近さなんですが、リエちゃん。
一瞬、声を掛けようかとも思ったけれど気持ち良さそうに寝入っているリエちゃんを起こすのは躊躇われ、何よりこんなに近くで、こんなにも無防備なままでいてくれる彼女を惜しいと思ってしまって――そうしたら、起こす、なんて野暮なことできるはずもなかった。
どうしたものかと視線を彷徨わせていると、広げた重箱やらランチボックスやら謎の鍋やらを挟んだ向かいに座っていたさなえちゃんと目が合った。
――ああそうか、さなえちゃんも居たんだっけ。
ぼくとリエちゃんの二人きりと言うわけではないことをわかっていたはずなのに、わかっていた現実がすっかり忘却の彼方にあったことに気付かされる。
――というか、そうだ、そうだよ。さなえちゃんがいるじゃないか!
気が付いた所でさっそくさなえちゃんに助けを求めようとして、そこにあった光景に目が点に――むしろ思い切り目が据わった。
「……さなえちゃん、何してるの?」
「……見ての通り……かしら……?」
――うん。確かにものすごく見ての通りだ。
満開の桜にあてられたようにほんのりと肌を染めたさなえちゃんは、困惑気味ではあったけれどどことなく嬉しそうにも見えた。その原因はさなえちゃんの膝元。
そこには、ああこいつも居たっけな、と存在を思い出したレオの頭。
レオはこれ見よがしに、さなえちゃんの膝に頭を乗せて――すなわち、俗に言う膝枕で爆酔していたのだ。
――おのれ、レオ! レオの分際でぼくが逃したシチュエーションをよくもちゃっかりと――!
レオの鼻先でもつまんでやろうか、それとも濡れタオルでも被せてやろうかと、思わず立ち上がりかける。そうしたら……ああ、当たり前といえば当たり前。その身体の動きで、リエちゃんの頭がぼくの左肩から滑り落ちてしまった。
「――――あ」
「――――あら」
手を出して支えるのも間に合わず、ぼくとさなえちゃんが見守る先でリエちゃんの頭が落ち着いた先は――なんだ、その……ぼくの膝の上、だった。
…………うん、何なんだ、この状況。
「スギくんも私と同じね」
さなえちゃんも何なんだ、その微笑ましいわーっていう声が聞こえてきそうな笑顔は。
「いや、あのね、さなえちゃん――」
これは同じとかそういうのではなく何て言うかほらあれなんだ、と自分でもわけのわからない弁明をしようとして、
「…………不満?」
「まさか」
心配そうに訊ねられたさなえちゃんの言葉に即行で否定を返した。
何となく、しまった、と思ったけれど後の祭り。
「そう? 良かった」
と、親友を気遣う笑顔を浮かべるさなえちゃんに前言を撤回できるわけもなく、そもそもそれは撤回する内容でもなく。そして撤回しなければそれは確定されるわけで。
「……うん。そうだね、よかったヨカッタ」
ぼくは浮きかけた腰をどっしりと下ろす。
どうやらさなえちゃんの中では瞬時に決定事項になっていたらしい、ぼくがリエちゃんに膝枕をするという現状をぼくも大人しく受け入れることになったのだ。
まあ、受け入れること自体はやぶさかではなかったんだけど、どうにも気まずい。
レオはともかくとして、眠り姫となっているリエちゃんを起こしてしまうのは憚られて、さなえちゃんという話し相手がいるというのに無言のまま時間だけが過ぎていく。もちろん身動きなんてもってのほか。自由に動かして支障がなさそうなのは腕と頭だけ。仕方なく、ぼくは上を向いて頭上を覆う桜の天井をぼーっと眺めていた。
何で上なのかと言うと……下を向いてるとついリエちゃんの寝顔に視線がいってしまい、女の子の寝顔をじっと見るというのはあんまりよろしくないんじゃないか、という自制を目一杯利かせての苦肉の行動だったりする。
しかしここでひとつ問題が。
ぼくにも確実に睡魔が襲ってきていた事実は変わっていない、ということだ。
ぼーっと桜を眺めていると、一旦吹き飛ばされたはずの睡魔が再びにじり寄ってくるのを感じた。かと言って、己を膝枕と定めた状況で睡魔に屈してしまっては膝枕の責務を果たせなくなる可能性が高い。別に膝枕の役割を果たせなかったところで誰に責められることでもないんだけど、こうなったからには膝枕としての職務を果たしきってくれる、とぼくはほとんど意地になっていた。
とにかく眠ってしまわないように、かと言ってぼくの膝枕で安眠中のお姫さまを起こしてしまわないよう、ぼくは歌を小声で口ずさむ。ついでに脳内の活性化も目指して、ひとりで古今東西、テーマは『桜』または『春』で歌を選曲する。
しかし何だ、上を向きっぱなしで歌うというのは案外堪える。加えて、空から舞い散る桜が、気を付けないと開いた口に飛び込んできてしまいそうだ。うっかり口に入ってきた桜の花びらのせいでむせました、歌が中断しました、咳き込んだせいでリエちゃんを起こしてしまいました――なんてことになったら目も当てられない。当てられないので、精一杯気をつけて降ってくる桜をかわすように時折首を傾けたり、振ってみたり。
そうして膝枕役に徹してどれくらいたっただろうか。口ずさむ歌が5曲目になろうかと言う頃、膝元で動く気配を感じた。起きたのかと思って歌を止めて上げっぱなしだった首を下げる。すると、真っ先に目に入ってきたのは予想に反して、空に向かって差し向けられた手の平だった。
白く柔らかそうな手の向こうに見える彼女の顔は、お世辞にも目が覚めているとは言い難かった。確かに目は開いてるけど、現状を把握しているとは思えないし――していたら見ていて相当楽しいことになるんじゃないだろうか――、ぼんやりと空に向けられた眼差しは、途中経過にあるぼくの顔に気付いていないようだった。
はらり、ひらり。
舞い散る桜の花びら。
その内の一枚がゆっくりとリエちゃんの手の平へと落ちていく。けれど花びらは彼女の手の平に納まる間際、まるで気紛れを起こしたようにするりと落ちる軌道を変えて、僅かに広がった指の隙間をすり抜けてしまう。
「――――ぁ……」
リエちゃんの口から、寂しそうな溜息が零れ落ちる。
「……リエちゃん?」
何でそんなに寂しそうな目をするんだろう。
今のリエちゃんは、まるでひとりで途方に暮れる迷子みたいだ。
ぼくはここにいるのに。こんなに近くにいるのに。だから寂しがる必要なんてないのに。
「――リエちゃん」
大丈夫、ここにいるよ、と教えるように、何度も彼女の名前を呼んだ。
やがてようやくぼくの呼びかけに気付いた様子で、リエちゃんの視線がほんの少し、ぼく寄りにずれる。ぼくが真っ直ぐ彼女を見つめるほどにリエちゃんの視線の焦点は合っていなかったけれど、その澄んだ瞳にぼくの顔が映り込んでいた。そして、花が綻びるように口許には柔らかな笑みが刻まれる。
そして桜色の唇が微かに震えて。
―― ス ギ く ん
声になり損ねた言葉は掠れた吐息となってしまったけれど、唇の動きは確かにぼくの名前を呼んでいた。
「――リエちゃん……?」
でも、リエちゃんとしては声に出なかったことが不満だったらしい。ほんの少しだけ眉尻の下がった表情が哀しそうに見えてしまった。
届いているよ、ちゃんと聴こえたよ、そう伝えようとして……果たして今のリエちゃんにこそぼくの言葉は届くのだろうかと、ちょっと不安になった。声自体は聴こえているみたいだけど、言葉の意味、つまり自分の名前が呼ばれていることを理解しているかどうかについては、ぼんやり夢見心地な表情ではかなり微妙だと思う。
さて、どうやって伝えようかと頭を悩ませていると、未だに頼りなく掲げられたリエちゃんの手に気が付いた。
花びらを掴み損ね、それでもなお桜に向かって――すぐ傍らのぼくを素通りして伸ばされる、リエちゃんの小さな手。
それが無性に癇に障って、ぼくの手でその小さな手を包み込む。
もっと確かなものがここにあるよ、と教えるように。そして、ぼくの手以外のものが彼女の手に飛び込んでいかないよう、そんな独占欲を織り交ぜて。
ぼくの手に気付いたリエちゃんの視線が、天に伸ばしていた手の方へと向けられる。
……じっと注がれる視線がくすぐったい。
やがて、ぼんやりとしていたリエちゃんの表情が少しずつ変わっていった。
どこか眩しいものを前にしたように目元は細められ、口許は緩やかな弧を描き――満開の桜よりも綺麗な微笑に、ぼくは思わず息さえ止めて魅入る。同時に、その時になって今更だけど気が付いた、桜に彩られたリエちゃんの姿に胸が高鳴った。はらり、ひらりと空を舞う花びらが服だけでなく彼女のふわりとした髪も飾り立て、その姿はまるで桜の精のよう。
そして――
「――つかまえた」
そんな言葉をこの上もなく嬉しそうに、幸せそうに、花びらみたいな唇が確かに紡いで。
その瞬間、ぼくは呼吸どころか意識まで止まっていた。
ぼくが我に返ったのは、この手で包み込んでいたリエちゃんの手が彼女自身の意志でぼくの手をぎゅう、と握り締めてきた時だった。ほとんど反射的に自分からも握り返して、でもとっさのことだったから強く握りすぎたかもしれないと思って慌てて握る力を緩めようとしたら、そこにはすごく安心しきったリエちゃんの寝顔があったりして。
――うん、いや、だからぼくにどうしろと……?
是非とも返答を、と願った所で肝心の回答者が夢の中の住人と化してしまった現状ではそんな願いが叶えられるわけもなく、つまりは自分で解答を出せという――っていうか、だからそれができないからこそ返答を求めているわけで――ああ、悪循環。
そんなぼくの様子がよほどおかしかったんだろう。ぼくと似たような状況に陥ってるさなえちゃんから掛けられた声は、多分に笑いの成分を含んでいた。
「……スギくん、大丈夫?」
「……大丈夫に見える?」
「あんまり」
小さく首を振りながら、ぼくの半ば八つ当たり気味な半眼の視線をさらりと受け流すさなえちゃん。
……似たような状況でありながら、ぼくの方は内心かなりいっぱいいっぱいであるにも係わらず、さなえちゃんは余裕綽々に見えてしょうがないというのはどういうことだろうか。これが男女の差と言うやつなのか。男女差別反対。
ぼくが理不尽さを感じて口をへの字に曲げていると、ふ、と優しげな微笑を浮かべたさなえちゃんから、さらりと追加のひと言が投下された。
「大丈夫に見えないくらい嬉しそうに見えるわ」
「……うん、さなえちゃん、酔ってるね。ちなみにきっとぼくも酔ってる。というかみんながみんなして酔っていてもおかしくない日であるわけだからね」
そう、酔っているからして、予想外のさなえちゃんのひと言に思わず空いてる方の手で押さえた頬がやけに火照っているように感じるのも、頬がだらしなく緩んでいるような気がするのも、酔いのせいだから仕方がないことなのだ、うん。
この際、ぼくらはまったくお酒の持ち込みをしてないとか、だからといって周囲からお酒をもらうようなこともなかったという事実は、ひとまず横に置いておくことにした。
でないと精神衛生上よろしくない。主に、ぼくの。
相変わらず楽しそうなさなえちゃんに更に言葉を重ねようと口を開きかけた所で、一陣の風が吹き抜けていった。
ざあ、と音を立てて桜の枝葉が揺れ、辺りを染める桜色がいっそう色濃くなる。風は地面に落ちた桜花も舞い上げ、一時、上からも下からも桜が吹雪いてくるようだった。
その光景に何となく毒気が抜かれた。口に花びらが入らないよう口を閉じたせいもあったけど、口にしようとした言葉は呑み込んで、かといってさなえちゃんと顔を合わせるのも気まずくて、こっちの気も知らず健やかに眠るお姫様に視線を落とす。
女性の寝顔をまじまじと見てしまうのは――なんて考えはいつの間にかどこかに消えていた。いや、消えたというより、当てはまらなくなったんだろうか。
だって、ここにいるのは桜の精で、今だってふんわり鼻先を掠める桜の花は上からではなく下から――彼女から降ってきたもの。つまり彼女は桜なのだから、花見に来ていて桜を愛でるのは道理だろう、そんな理屈。
……まあ、何だ。我ながらアルコール分をまったく摂取していないにも係わらず大層な酔いっぷりだな、とは思うけれど。
だけどしょうがないじゃないか。
桜降るこんな日は、綺麗な桜に魅入られて、酔いしれて。
――そうしてぼくは容易く桜(きみ)に捕われるんだ。