お花見日和


 その問いかけは唐突だった。
「睦月君、高い場所平気だったわよね?」
「…………はい?」
 唐突過ぎて何の話題か付いて行けない睦月を他所に、スミレはひとり、そうよね猫だしよく木の上でお昼寝してるし、と呟きつつ納得の頷きを繰り返していた。聞こえた呟きの内容から、「高い場所って値段じゃなくて文字通り高所の意味か」と一拍遅れて納得する睦月に、スミレはビシッと指を突きつけ、
「じゃあ明日、お花見に行くから!」
 勢いに呑まれた睦月が半ば流されるように、うん、と頷くのを満足げに見遣ると、待ち合わせ場所と時間を伝えたスミレは颯爽と睦月の目の前から去って行った――その足取りが、ほんの少し跳ねていた様に見えなくもない。
「……いや、えーと、スミレちゃーん……?」
 我に返って呼びかけるも、当の本人の姿はすでになく、言葉と呼び止めるために掲げた手が寂しく空を切る。
 時期外れのはずの「花見」という単語と目的が出てくる理由は、ニュースを見て知っていた。そもそも「花見、絶賛開催中」なるチラシ、もとい案内状も届いていたことだし、その点についての疑問はない。
 加えて、勢いに流されての返事だったとは言え、花見に出かけること自体にも何の文句もないのだが。
 ――と言うか、ことここに至ってようやくスミレから花見に誘われていた事実に気が付いて、睦月の尻尾がゆらゆらと嬉しそうに揺れ動いたりしてしまっているのだが。
 その喜びに水を差す、小さなしこりとなっている疑問がひとつ。
「…………花見で、なんで高い場所……?」
 きっと普通のお花見じゃないんだろうなぁ、というどこか達観した感想を抱きつつ、誰も見ていないと知りながらもこれ見よがしなため息まで吐いてみせ――睦月の尻尾は相変わらず軽快なリズムで揺れていた。



 早く早く、と急かす少女の声に、どこかのんびりとした青年の声が追従する。声がした方を向いた人々の中には、そこに大きな桜の花びらが葉を伴って飛んで行く様を思い浮かべた人もいただろう。
 花見客がごった返す中を、桃色の髪をたなびかせる少女と緑の髪を揺らす青年が駆け抜けて行く。少女は小柄な体躯に不似合いな大きなリュックを背負い、青年も少女のものに劣らない大きなリュックの他に、片手にはずいぶんと大きく膨れた風呂敷包みを提げている。ちなみに、青年の空いているはずのもう片方の手は少女に引っ張られて塞がっていた。歩幅は青年の方があるのだが、動きがややゆったりとしたものになるせいかどうしても前を行く少女に引っ張られる形になってしまっていた。どうやら青年にとっての風呂敷包みが、少女にとっての青年らしい。それでも二人ともその背に負い、手にした大荷物を感じさせない足取りで、人が溢れる花見会場の中を疾駆していた。
 しかし少女にとってはそれでも不十分な速度に感じられたらしい。走る動作は止めないまま後ろを何度も振り返り、引っ張って促さなければゆっくり歩き出してしまいそうな青年を叱咤していた。
「もう、睦月君、とろとろ走らない! 全力疾走っ!」
「えー、あー、うん」 
 睦月と呼ばれた青年は生返事を返しつつ、ただひたすらに感心していた。
 たくさんの――それこそ、本数だけではなく種類においてもたくさんの、むしろ無数と呼べるほどの――桜の木が所狭しと立ち並ぶお花見会場は、桜の木々の本数を軽く凌駕する勢いで訪れている花見客でごった返している。そんな中を、睦月を引っ張って先導する少女は目的地に向かって真っ直ぐ突き進んでいると言うのに、誰にもぶつからないどころか、そもそも誰かにぶつかってしまいそうな気配すらない。一方の引っ張られている睦月の方が余程、そこら中にいる誰か、にぶつかってしまいそうになっている。もっともそれは、少女がこのまま進めば誰かとぶつかってしまうだろう時に、睦月がわざと歩調を緩めるなりして駆ける速さの微調整をしている賜物と弊害でもあるのだが、もしかしたらそんなことをする必要はまったくないのではないか、と睦月は思ってしまう。
 それにしてもどうしてこんなに急いでいるんだろうか、と睦月の胸に今更の疑問が湧き上がる。
「――ねえ、スミレちゃん」
「なによっ!」
 全力に近い疾走をしているにも係わらず、どこかのんびりした口調の問いに、スミレと呼ばれた少女が答える。
「アップアップたちが場所取りしてくれてるんだよね? だったら何もこんなに急がなく」
「あーまーいーっ!」
 睦月に皆まで言わせず、スミレは空いている手を振り上げて却下する。振り上げた手がすれ違った人に当たりそうになるが、当てそうになっている方、当てられそうになっている方、双方共に特に避けようともかわそうともしていないにもかかわらず、スミレの手は虚空をかき回すだけに終わる。
 ――何度見ても見事だ。
 思わず感心して頷いてしまう。
 世界征服とか物騒な言葉を好んで使う割に、やはりスミレという少女の成分の大半は誰かを傷つけたりはしない成分でできているのではないだろうか。そんなことを考えて、つい、注意がそっちに向いてしまう。
 幸いにも前を向いたままのスミレは背後の、スミレにとっては失礼極まりない睦月の様子に気付かず、ただ物分りの悪い青年に教え諭すように――と言うにはいくぶん冷静さを欠いていたが――現実の厳しさと言うものを語っていた。
「あのね、確かにあの子たちには武器も持たせたし、いざと言う時の対処法も何パターンかシミュレーション訓練したけど!」
「………………………………したんだ」
「油断してたらいつ敵に攻め込まれるかわからないんだから!」
「――いや、敵って」
 ――僕ら、何しに来たんだっけ? 花見だよね?
 迷いなく断言された言葉に睦月は思わず確認を取りたくなったが、ぐっと堪える。多分、間違いなく「花見以外の何だって言うの!」と怒鳴られる予感がする。
 もっとも、睦月におけるスミレの評価の中には、ちょっと変わった女の子、という事項もあったので、
 ――スミレちゃんの表現が、時々ちょっと物騒なのは今更だしなぁ……。
 そんな感想だけで、色々なことを案外あっさりと納得できてしまう。
 疑問に思った内容の数々を「時々」と「ちょっと」で済ませている睦月自身も傍から見れば相当変わっているのだが、もちろん当人は気付いていない。
 それに、と睦月は背負い、片手に提げた重みを想う。
 リュックと風呂敷に目一杯詰め込まれたもの、それはお弁当だった。
 ひとりでは運びきれない、ふたりで食べるにしたって多すぎる量を、スミレはひとりで早朝から一生懸命作ってきたのだ。
 それは全部、場所取りをしてくれているアップアップたちのため。
 遅刻しそうな社会人や学生もかくやという勢いで走り抜けるのも、場所の確保が目的と言うより、今も場所確保のために孤軍奮闘しているだろうアップアップたちを労うため。
 だからこそ――
「じゃあ、急がないとね」
 素直じゃない少女の、そのくせ直球の行動に気付いたからこそ、その想いを汲んでの睦月の言葉は、
「のんびりしてたのは睦月君でしょうー!」
 あまりにも明白な事実の前に、思いっきり叱られてしまった。



 着いた先は巨大な桜の木の下だった。どんな種類の桜の木も無数にあるように思える花見会場の中でほぼ唯一、数本しかない、と断言できる桜の木だ。もっとも、数本どころか一本だけで普通の桜の木何本――あるいは何十本――分だと言いたくなるくらいに巨大な桜でもあるのだが。
 その巨大さたるや、遠目から眺める分には眼福ものだが、近く、ことに木の真下、それも幹の根元近くでは花見気分が味わえないくらいに巨大な桜だ。何せ、桜の木の間近に立った二人の視界いっぱいに広がる桜の幹は、幹や柱などと言った表現では生ぬるい、いっそ壁と呼んでも差し支えないほどなのだ。加えて巨大さに比例して桜の花を咲かせている枝が生えている場所は余りにも遠く、一番近い枝でも地面から優に一軒家が入るくらいの距離がある。当然、愛でるべき桜の花はあまりに高く遠く、満開の桜に見惚れるより先に首が疲れる始末だ。
 そのせいだろう、昼も近い時間だと言うのに、巨大な桜の幹の周囲にはほとんど花見客が見られない。
 それどころか、目的地に着いたはずなのにアップアップたちの姿も見えない。しかしスミレは気にした様子もなく桜の木を見上げながら、
「えーっと、確かこのあたり……うん、そうね。よしよし、じゃあ早速」
 ポケットをがさごそ探していたかと思うと、おもむろに取り出したホイッスルを思い切り吹き鳴らした。
 事前の注意もなしに全力で吹かれたホイッスルの音量は相当なもので、耳を押さえることをもできずに間近で大音に晒された睦月の黒い猫耳は、硬直したようにピンと立ってしまっていた。釣られたように、全力疾走していた時でさえゆらゆら揺れていた黒い尻尾まで、一本の棒の様に真っ直ぐ空に向かって伸びている。辛うじてお弁当入りの風呂敷包みを落とすことはなかったが、意識も一瞬飛んでしまっていたかもしれない。
「ちょっ、スミレちゃん……え?」
 さすがに抗議しようとした睦月だったが、迫り来る風を切る音に反射的に音のする方、すなわち頭上を見上げ、
 ――ごんっ。
「――――あいたっ!?」
 タイミングよく額を直撃した物体に、今度こそ風呂敷を落として悶絶する羽目になってしまった。
 涙目を擦りつつ、何があったのかと目をやれば、そこにはいつの間にか下ろされていた、ロープに吊るされた籠にリュックを入れるスミレの姿があった。続いて、ザッと音がして、見れば縄梯子まで下ろされている。
 呆気に取られる睦月の前で、スミレのリュックを入れた籠がずり、ずり、と少しずつ上がって行った。持ち上げられて行く籠を見守っていると、上空の枝の向こうから新たな空籠が落とされる。この籠もまたロープに括りつけられており、スミレは初撃から身をかわすと、高所から落とされた衝撃で大きく揺れる籠を軽く押さえ、睦月を振り返った。
「ほら、睦月君。荷物はこっちの籠に入れて。アップアップたちが運んでくれるわ。私たちはあっちの梯子で上に行くわよ」
 言って、睦月の返事を待たずに縄梯子に手を掛けするすると登って行った。木や鉄で作られた梯子と違って登り難いだろう縄梯子を苦もなく登って行く姿に、「ああこれがいつも言ってる特訓とかの成果なのかなぁ」と、自分のリュックを籠に入れながらぼんやり眺めていたら、
 ――どごんっ。
 更に続けて落とされた籠が再び睦月の脳天に直撃する。
 しかも心なしか、最初に落ちてきた籠より勢いがあったように感じられてならない。身をもって体感した衝撃だから、ほぼ間違いないだろうと確信する。
「……えぇっと、『ぼさっとしてるな!』ってことでいいのかな」
 その通り、と頷く主従の姿まで幻視できたような気がした。
 ただひとつ確かなのは、このまま下にいようものなら、必要ないのに空籠の第二陣、三陣が降って来るだろうということだった。
 睦月はリュックに続いて風呂敷包みも籠に乗せると、スミレの後を追って縄梯子を登り出した。
 猫としての身軽さもあって、睦月はするすると縄梯子を伝って行く。
 幹から大きく張り出す何本もの枝を横目に通り過ぎ、先導するスミレを追いかけて行きながら、ちら、と下に目線を向ける。
「……これは確かに、まず最初に高い場所が平気か聞くしかないよなぁ……」
 スミレからの誘い文句のその前に出てきた言葉を、感慨深く思い起こす。
 向けた視線の先はこれまで通り過ぎていった枝に隠され、見えるのはほんの一部だけだ。そんなことはありえないとわかっていても、地面よりも今登っている真っ最中の桜の木の方が遥かに大きなものに思えてしまう。
 周囲に見えるものは桜の幹と枝と花々ばかりだった。幹や枝の異様な巨大さとは反対に、桜の花自体は特別大きいこともないごく普通の大きさの桜の花なのだが、咲いている花の量は木の巨大さに比例して非常に多い。この巨大な桜の木一本で通常の桜の木の何本、何十本、あるいは何百本分の桜の花が咲いているか想像もつかないほどの、満開と言う表現でも物足りなく感じる爛漫たる桜。逆にこれだけ桜の花に囲まれていると、周囲に無数の花が咲き誇ると言うよりも、一枚布でできた桜色の天蓋が掛けられていると言われた方がしっくりきそうだ。
 それでも、すべてが完全に桜の色に塗りつぶされているわけではなかった。桜の天蓋を通り抜けてちらちらと差し込む陽射しの欠片は眩く、わずかな隙間から覗き見える蒼穹は桜の花の鮮やかさをいっそう引き立てていた。
「とーちゃくー!」
 達成感を秘めた掛け声が上から降ってきたのは、更に数本の枝を通り過ぎた後だった。ようやく着いたのかと顔を上げた睦月は、大きな枝の上に仁王立ちするスミレを見上げ、
「…………えーと、スミレちゃん?」
「何よ。早くしなさいよ。早く来ないとお弁当食べちゃうわよ」
 そう言いつつも睦月が登り切るのを待つ体勢でいてくれる少女と、少女の周囲で同じように待ちの体勢で睦月を出迎えてくれる、見慣れない色の見慣れた小さな影たちの姿に、思わず止まりかけた睦月の手足の動きも自然と早まる。
 ――見慣れない色。
 周囲の桜に当てられたかと思ったけれど、どうやらそういうわけでもなかったらしい。
 睦月は遅れを取り戻すように急ぎながらも、危なげなく少女たちの待つ桜の枝まで登り切った。そこで待ち構えていた違和感の正体たちに、それが何だかわかっているはずなのに、つい問いかけてしまう。
「………………あっぷあっぷ?」
 見間違いようがないはずなのにどうしても自信を持てなくて、口にした言葉は自然と不器用な発音になっていた。
 それに対して返された答えは、予想通りに至極明瞭なものだった。
「それ以外のなんだって言うの」
 そうだそうだ、と周囲のアップアップたちも頷きを返す。
「え、あーうん、そうなんだけどね……耳が……?」
 アップアップ。
 スミレに付き従う手下の小さなウサギたちは、黒い耳をしていることから通称クロミミウサギ隊とも呼ばれている。しかし今そのウサギたちは、通称を覆す色合いになっていたのだ。
 耳が黒ではなく薄紅、すなわち桜色。
 それ以外に変わった様子はないというのに、まったく違うものの様に見えてしまう。
 スミレは最初何を言われているかわからなかったらしい。しかし、しばらくアップアップたちを見つめた後、ぽん、と手を打ち納得したように頷いた。
「そっか。そういえば睦月君に言ってなかったっけ。ほら、アップアップたちの耳が黒いのは地毛じゃなくて耳を守るための耳袋でしょう?」
 ――あー、そんなこと言ってたなぁ、と思い出し、睦月はこくこく頷いた。
「今日はお花見だから、お花見に合わせた耳袋にしてみたの」
 極々明瞭に答えられたら、頷く以外のことなどできよう筈もない。
 それ以上何かを疑問に思おうにも、すきっ腹を抱えたアップアップたちの「ごはんまだ」攻撃の前には納得するしかなかったわけだが。
「よし! それじゃあ、睦月君も納得した所で、総員!」
 掛け声に、わらわらとお弁当箱の周辺に集まっていた桜色の群衆が、ピンと背筋を伸ばして司令官の前に整列した。
「――花見の準備、開始!」
 スミレの朗々たる号令一下、この時だけサクラミミ部隊と化したアップアップたちが一斉に動き始める。
 睦月が口を開けたまま、余りにも見事な連携を惚けて見ていると、
「……って、睦月君! 何をぼさっとしてるの!」
 怒声と一緒に腰の入った突きと、文字通り全身全霊をかけた体当たり――それも複数が同時に――が飛んでくる。言うまでも、確認するまでもなく、スミレとアップアップだ。
 どうやら、総員、には睦月ももれなく入っていたらしい。



 もともと木登りが好きな睦月はもとより、戦闘機で高空を行くこともあるスミレやアップアップたちも、高所の、それもいくら巨大とは言え桜の木の枝と言う地面と比べてあまりにも不安定な場所での花見を自然に楽しんでいた。
 お昼の真っ最中はおかずの取り合いが熾烈を極め(睦月は傍観者でいたかったのだが周囲がそれを甘受させてくれていなかった)、肉団子やおにぎり、デザートの林檎などが重力に引かれるまま桜の木の枝や花の影に隠れていってしまったことも一度や二度ではなかった。
 そんなおかずのいくつかは、より上を目指して移動中の鳥やら妖精やらお化けやらに取ってもらったり、食べられてしまったり。飛べる人たちはより上空に席を取っているらしく、普通はあまり花見に利用しないであろう場所に陣取っているにも関わらず、すれ違いざまに挨拶を交わす花見客を何度も見かけることになった。
 もっともいくら上を見上げても、極太の枝と大量の桜の花に視界は遮られ、他の花見客の姿などちらりとも見えない。それでも上を見上げたスミレは、悔しそうに口許を引き結んでいる。例え姿が見えようとも見えまいとも、自分たちより絶好の花見ポイントをとられていると言う事実だけで、対抗心が十分すぎるほどに轟々と燃え盛っているようだった。
「いいわねー。本当はもっと上の方を制圧したかったんだけど」
「制圧って、穏やかじゃないよ、スミレちゃん」
「ふんっ! 本当ならこの桜の木はあたし達が占領しても良かったんだけどね!」
 そんなことすると邪魔が入るだろうし、ゆっくり花見をしたかったから妥協してあげたのよ、と胸を張る少女に睦月はくすくすと笑みを漏らした。
 アップアップたちは食後の運動とばかりにあたりを駆け回り、桜の木をよじ登り、スミレや睦月をよじ登っている。その様は桜色なのは耳だけとは言え、巨大な桜の木に相応しい大きな桜の花弁を思わせた。
 ざあ、と風が通り抜ける。
 それまでちらちらと粉雪のように舞っていた花びらが一斉に舞い踊り、桜色が視界を埋め尽くす。前後左右どころか上下の感覚すら怪しくなりそうな桜の乱舞。
 腰を下ろし背中を預けている幹も、枝の上に広げられたお弁当箱も、花の隙間からちらちらと覗いていた透けるような蒼穹も、花びらよりも元気に動いていたアップアップたちさえも、例外なく桜色の中に埋もれてしまう。
 そんな中、
「――うわ、すごい風ね」
 周囲を舞い踊る桜色より色濃い、桃色の髪を押さえた少女の姿だけは、やけに鮮明に見えていた。
「これは、なかなか壮観ね……」
「――うん」
 ほう、と感嘆のため息を吐くスミレに同意を返す。
「こんな機会、滅多にないわよね。ほら、睦月君。ちゃんと堪能しておくのよ?」
 桜色に染まった世界をうっとりと眺めていた視線が、まっすぐ睦月に向けられる。
 その一挙一動にまで見惚れていた睦月は、傍から見ればぼんやりとしているように見えたらしい。スミレは、むう、と気難しげに眉根を寄せると桜色の世界を闊歩し、睦月の間近まで来ると腰を屈めて顔を近付ける。
「ちょっと、睦月君、聞いてる?」
 鮮やかな桃色が風に弄られ、翻り、そして近づいてくる軌跡をぼうと見つめていた睦月は、いつの間にか目と鼻の先に近付いていた明るい虹彩に映る緑色に我に返った。
「――へ? って、うわあ!」
 ――ゴィン、と聞いているだけで痛みを訴えてきそうな音が響く。
 緑色は自分の髪の色――つまり、少女の目に映った己の顔が視認できるくらいスミレが近付いている、そのことに気付くと同時に、驚いた身体はとっさに仰け反り、背後の幹に強かに頭を打ちつけてしまったのだ。
「な、何してるのよ睦月君、大丈夫?」
「え、あ、う、うん」
 何もそんなに驚くことないじゃない、とむくれる少女にごめんと頭を下げる。実際的な被害を受けているのは睦月なのだが、悪いのも全面的に自分だろう、とすんなり謝罪の言葉が口をついていた。
「……で、なに?」
「……はあ。聞いてもいなかったの? あのね、こんな普通じゃ見れない桜の花見なんて滅多にないことなんだから、ぼーっとしたり昼寝したりしちゃわないで、ちゃんとお花見するのよ、ってことを言いたかったの」
「へ? あぁ。うん、それはもちろん」
「本当にわかってる? もう、ほっとくとそのまま昼寝しちゃいそうだし。そりゃ季節がら、ここは日向ぼっこにもお昼寝にも向いてるけど、今日はお花見に来てるんだからちゃんとお花見するんだからね!」
「わかってるってば。ちゃんと、花を見てるよ」
 そう、こんな時でも持ち歩いているスケッチブックを取り出す暇さえ惜しんで、見ている。
 惹かれて止まない花。そんな花を前に、ほんの僅かでも目を逸らすことなどできよう筈もない。
 前も後ろも、右も左も、上も下も、目に映るすべてが桜色に染まっている中、決して埋もれることのない、桜の色に限りなく似て非なる、桜の色より鮮烈な色の花。
 目の前にあるその花を睦月は目を眇めて眩しげに見つめる。その花はあまりにも鮮やか過ぎて、例え覚えようとしなくてもその色彩は目に、そして心に焼きついて、いつまでも色褪せることはないのだろう。
「せっかくの花見日和なんだし、もちろん花を見るに決まってるじゃないか」

 それは、桜、という名前の花ではなかったけれど。
「――――――スミレちゃん」
 それもまた、花の名前には違いないのだから。






お花見部屋