47.砂浜

 ――ザン……ザザ……ンッ。
 ――何か、音がしている。どこか遠くから響く、繰り返し繰り返し、耳に届くこの音は――音は、何の音だったろうか。
 些細な疑問を切っ掛けに、色も、音も、何も感じていなかった意識にひとつの色が紛れ込む。
 同時に、水底からゆっくりと浮かび上がるようにぼやけていた感覚が覚醒し始め、イコは自分の身に起こっている色んなことに気が付いていく。
 ――――白い。
 ――眩しい。
 何よりも、暑い。
「…………ぅあ……?」
 じりじりと肌を焼く熱にとうとう耐え切れなくなって、イコは薄っすらと目を開いた。
「――――ッ!?」
 そこに広がっていた余りの白さに息を呑む。
 ――白い。
 白すぎて、目が痛い。
 いや、目が痛いのは眩しいせいか。白い、というのも眩しさに慣れていなかった目が感じた錯覚だろう。
 よく見れば、イコの目の前にあるのは煤けた色の木版だった。自分が寝かされているものに見覚えがあるような気がして、古びた木の板をぼんやりと眺める。
 ――ずいぶんと硬い寝床だな――否、これは寝床ではなくて――
 ――それにしても暑い。むしろ熱い。
 ――まぶしい……あかるい……あさ?
 ――もっと暗い所に居たような――そこがどこだか思い出せない。
 ――……というか、ここはどこだろう……?
 とりとめもなく空転する思考がようやくそのことに思い至るまで、イコが目を覚ましてからたっぷり数十秒は経っていた。
 ――そういえば、前にも似たようなことがあったような……?
 その時は、もっと固くて、冷たくて、暗くて――
 断片的に浮かび上がる記憶が何かを訴える。けれど、それが何かがわからない。
 眩しさと暑さでこれ以上寝てもいられず、イコはやけに重い身体を引き摺るようにして起き上がった。
 潮の香りが鼻につき、身体中べたべたする感触が不快で顔を顰める。
 ふらつく身体を支えるようにして寝ていたものの縁に手を掛け、ようやくそれが何だったか思い出した。
「……あぁ、そっか。これ、ふなつきばにあった、ふね――」
 どうりで見覚えがあるはずだ、と納得しかけた瞬間、霞がかっていた思考が一気に晴れた。
 霧のお城のこと。
 影たちのこと。
 女王のこと。
 そして――
「――――ヨルダ!」
 白い、少女のことを。
「ヨルダ! ヨルダ――ッ!?」
 少女の名を呼びながら舟から降りようと身を乗り出す。しかし、軋みを上げる身体はまるで他人のもののように重く、少しも思う通りに動いてくれない。更に、身を乗り出したことで視界に飛び込んできた風景はどこまでも白く、あまりにも眩しく、周囲の明るさに十分慣れたと思っていた目が眩んだ。
 当然の如く、体勢を崩した身体は小舟から転がり落ちていた。
 ――ドンッ。
「――いっ…………熱っ!?」
 落ちた衝撃は思いの外柔らかく、たいした痛みは無かった。しかしそれに息を吐く暇もなく、触れた地面のあまりの熱さに慌てて飛び起き――ようとして、重く感じる身体に引き摺られて転びそうになってしまう。それを何とか堪えると、イコは改めて周囲を見渡した。
「………………………………どこ、ここ」
 ひと通り見渡した後、ようようと絞り出した声は困惑で凝り固められていた。
 そこにあったのはまったく見覚えの無い景色だった。
 目の前には、水平線を見渡せるほどの広い海原。そしてどこまでも澄み切った青空。
 足元には白い砂浜が広がり、強い陽射しを照り返して眩しいほどに輝いている。寄せては返す小波に晒された波打ち際は、海水を含んで僅かに色を変えていた。
 イコが乗ってきたらしい古びた小舟は砂浜に打ち上げられ、それは白い世界に打ち捨てられた不格好なオブジェを思わせた。
 背後に聳えるのは断崖絶壁。向かい合うとまるで天を衝く壁のようだ。絶壁は左右に、どこまでも延びていた。もっとも向かって右に延びる絶壁は、すぐに砂浜が途切れて海水の中から切り立っているため、崖沿いに進むことは難しい。反対方向、向かって左に伸びる絶壁は、崖に沿って砂浜もずっと遠くまで続いている。
 こんな広大な断崖絶壁も、白い砂浜も、何よりもお城の何ひとつとして見当たらない景色はまったく記憶に無かった。
 そうやって記憶を揺り起こしながら、ふと、記憶の縁に引っ掛かったのは夢の残滓。
 ――遠ざかる黒い少女。
 ――海に沈んでいく霧のお城。
 どくん、とひと際強い鼓動が胸を打つ。
 それが何を意味することなのか、イコはとっくに気付いている。わかっている。
 それでも――どうしても認められなくて。
 イコは、ぐ、と奥歯を噛み締めた。
 そうしないと、認めたくないことを叫んで、みっともなく泣き喚いてしまいそうだった。
 けれど、それは違う、と己に向けて首を振る。
 ――認めるとか、認めないとかじゃないんだ。
 イコが目覚めた時、ヨルダは傍に居なかった。
 起きて、周囲を見渡して、見渡せる場所にも居なかった。
 ――居ないなら探せばいい。
 ただそれだけのことなんだ、とイコは柔らかな砂浜を踏みしめる。探すと決めたならば後は動くだけだ。進む方向を決めるため、食い入るように辺りの景色に見入る。
 どこまでも続く砂浜。
 どこまでも広がる海原。
 櫂がないから舟で海に出ても流されるままになってしまう。
 泳いで周囲を巡ろうにも、今の体調では波に負けず泳ぎ進むことができるか怪しい。
 となれば、まずは砂浜を進めるだけ進んで、探せるところを探した方が良い。
 そう結論付けて、波打ち際に沿って歩き出す。波打ち際を選んだのは、乾いた砂の上より水を含んで多少は固くなった砂の方が歩きやすそうだったからだ。
 もっとも、道は歩きやすくとも天候はそうも行かない。
 太陽は中天に座しているため、せっかく間近にある巨大な壁も陽射しを遮る役には立たない。当然ろくな日陰も見当たらず、イコは砂浜を歩きながら直射日光を全身で浴びる羽目になった。
 足元から広がっていくような鮮烈な白さと、容赦なく降り注ぐ強い陽射しに、気を抜けばまた目眩を起こしてしまいそうになる。
 相変わらず身体は重くて、歩いているだけでも息が切れそうだ。
 それ以上に頭が痛い。イコの意識がはっきりすればするほど、側頭部に感じる痛みはひどくなる一方だった。
 ――そう言えば、角、折れちゃったんだっけ。
 そろそろと伸ばした指先が触れたのは、頭の横から僅かに伸びる出っ張り。イケニエの証の名残だけ。
 以前の異様をすっかり無くしてしまった箇所に触れていると、思い出すのは、労わるように、そっと、優しく撫でてくれた誰かの手。
 その『誰か』が誰だったかなんて、きっと考えるまでもない。
「――――――……ヨルダァーッ!」
 堪えきれず、姿の見えない少女に呼びかける。
 どうか応えて、と。
 返事がないのは、きっと聞こえていないからだ、と。
 何度も、何度も。喉が枯れるのも構わず、何度も。
 そうして、どれくらい歩いただろうか。振り返ると、歩いてきた跡は小波にさらわれて消えてしまっていた。少なくとも、イコを乗せた小舟は白く霞んで見えなくなっている。
 背後に向けていた視線を前方に戻し、
「――――――――ッ」
 今まで止まることの無かった、少年の歩みが止まった。
 何気なく戻した視線の先。
 白い砂浜と、白い波打ち際。
 強い陽射しを受けて、眩いばかりの白さを誇るその場所に、
「――――ァ」
 なお白く映える、そんな人を、イコはひとりしか知らない。
「――――――――ヨル、ダ――……ッ!」
 イコは弾かれたように駆け出した。
 軋みを上げる身体も、ジンジンと痺れるような痛みを訴えてくる頭も気にしている場合ではなかった。それでも駆ける速度がいつもとは比べ物にならないくらい遅くて気ばかりが逸る。
 噛み合わない意識と身体のせいで、何度も体勢を崩した。濡れて固くなった波打ち際はまだしも走りやすかったが、その代わり小波に足を攫われそうになった。
 何度も何度も転びそうになったが、イコは転ぶ暇も惜しいとばかりに倒れかける身体を起こし、ただただ、白い少女に向かって一直線に砂浜を駆け抜けた。






 ――そして、辿り着いた。
 ヨルダは白い砂浜の上でうつ伏せになって倒れていた。
 砂浜の上、と言っても波打ち際だ。完全に陸の上にあるわけでもなく、倒れたままの少女の足元を小波が繰り返し揺らしていく。イコとは違い浜辺に打ち上げられたのだろう姿は、むしろ生まれたばかりの赤子を思わせた。
 けれど、たとえどんな風に見えたとしても、そこにいたのは間違いなくヨルダだった。
 夢で見た、黒い影ではなく。
 最後に見た、色をなくした石像でもなく。
 潮風に晒されてもなお艶やかな銀糸の髪も、眩い陽射しの中いっそう白さを増す白磁の肌も、たおやかな肢体を包む白い服も――その身に纏う輝きさえも、寸分変わらず記憶に刻まれたままの姿だった。
 白い少女は――ヨルダは、確かにそこに居た。
 イコが恐る恐る覗き込むと、穏やかに呼吸する音が聞こえる。
 少女は眠っているだけで、それはつまり、ヨルダはちゃんと生きているという証に違いなかった。
 ヨルダは生きている。
 生きて、ここに居る。
 生きて、居るからこそ――



 ――息を潜めて見守るイコの目の前で、ヨルダの睫毛が微かに震えた。閉ざされていたまぶたが薄っすらと開いていく。
 そして――

「――――セ、イ」

 ――花びらのような唇から零れた旋律。
 それもまた、イコの知らない異国の響き。
 イコにはわからない異国の言葉。
 けれど。
 その言葉は、精一杯伸ばした手の向こうで遠ざかる少女を見ていることしかできなかった時、耳に届いたものとは違う旋律を持っていた。
 その言葉は、夢の中、真っ黒に変わり果てた姿でイコを見送った少女の呟きとも違う旋律を持っていた。

“――――セ、イ”

 その言葉は、まるで。



 始まりを告げる兆しのように、イコの胸に――世界に――響き渡った。




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