45.女王の間
イコが祭壇の奥に現われた扉の前に立つと扉は待ち構えていたかのように開き、イコをその奥へと迎え入れる。開いた扉の先は小さな小部屋――昇降機になっていた。イコが中に足を踏み入れると扉が閉まり、ゴウン、と低い唸り声を上げて昇降機が未知なる場所へと少年を誘う。
昇降機に乗り込んでしばらく後、短かったような気もするし反対に長かったようにも感じられる時間を経て、小さな小部屋を揺らしていた振動が止まった。着いたのか、と思う暇もなく到着を告げるように扉が開く。昇降機が上昇する間、比例するように鼓動は早まり続け、緊張は全身に圧し掛かかる重みを増していっそ重量を感じるほどだった。それは昇降機が止まった後も落ち着くどころかいっそうひどくなっていくようだった。
イコはすう、と深く息を吸い込み、下腹に力を籠める。一瞬止めた息を大きく、ゆっくりと吐き出すのに合わせて、床に張り付いたように動かない足を地面から引き剥がした。
昇降機から出たイコの目に映ったものは、これまで幾度となく目にしてきた部屋との数々と同じような場所であり、けれどあまりにも違う異質な場所だった。
石畳が敷き詰められた床も部屋の周囲を囲う石の煉瓦を積み重ねた壁も、これまで通ってきた部屋とさほど変わりない。昇降機前は四角い広間になっていたが、その更に奥にも部屋があった。奥の部屋の形は角ばっているものの四角い部屋と呼ぶには丸みがある、多角形を模った部屋だった。四角い部屋と多角形の部屋を仕切ることなくくっつけた二間続きの部屋、その部屋の奥側――イコの立つ昇降機側を下部とするならば、多角形の上部三つの辺に当たる部分――は十段にも満たない上り階段となっていた。もっとも、その程度の造りなら、イコは霧のお城を探索してきた中でこの場所以上の変わった部屋をいくつも目にしてきた。
部屋はそれなりの広さがあるが飛び抜けて広いと言うわけでもなく、ましてや少女を待たせている広間と比ぶべくもない。一見しただけなら、霧のお城のありふれた一室でしかないだろう。
けれど、違う。
これまで何度も目にし通り過ぎてきた、霧のお城のどんな部屋とも――どんな場所とも、ここは違う。
たった一つの存在が、この部屋を唯一無二の、他に在り得ざる絶対の空間だと示していた。
あるいは、そのたった一つのためだけに造られた空間ということなのか。
それは部屋の奥、数段の短い階段を上った先――多角形の部屋を見下ろせる場所にあった。
それはこれまで一度も目にしたことのないもの。
けれどそれが何であるかなど一目でわかるもの。
そう――考えてみればあれほど霧のお城中を動き回って、これまで目にしていなかったことそれ自体がおかしいはずのもの。
『彼女』がいて、それがないはずがない。
それこそが『彼女』の、女王の座する場所――玉座。
しかし、今、そこにあるべき姿は見えない。空っぽの玉座だけが、それでも圧倒的な威圧感をもってそこに存在している。
――ごくり。
嚥下する喉の動きさえ耐え難い騒音に聞こえてしまいそうな、張り詰めた静寂。
音を立ててはいけない。静寂を破ってはいけない。ここに居てはいけない。ここは、自分などが居て良い場所ではない――胸の内から止めどなく溢れ出す拒絶の言葉を押さえ込み、イコは今にも退がってしまいそうな身体を必死に留めた。剣の柄を握り直して、仰け反りそうになる意志を前のめりにすると、
――ダンッ!
静寂を打ち破って、イコは一歩を踏み出した。
空っぽの玉座を目指し、一歩一歩慎重に歩を進める。
手に提げた剣は構えるまではしなくとも、何が起きてもすぐに反応できるようにという心情を反映してか、切っ先が僅かに持ち上がっている。
部屋の半ばまで歩を進めると今更ながらに、部屋の中央に陣取っている周囲の石畳の床よりせり上がった何か大きなものを設置していたのかと思しき土台のような一角と、その両脇に立つ二体の石像に気がついた。
それほどまでにイコの意識は玉座に向けられていたということだが、これほどまでにあからさまに在る存在に気付いていなかった自分自身に少年の顔に苦虫を噛み潰したような表情が浮かんだ。注意力散漫なのはいただけないが、だからといって周囲にまったく注意がいっていないのもどうだろう、と改めて気を引き締める。
二体の石像の間を通り抜ける前に、イコは一旦足を止めると見慣れぬ石像に視線を向けた。イコの背丈の二倍はあるだろう石像を見上げ、その石像の姿に微かに息を呑んだ。意識しないまま、ぐ、と眉間に力が入る。
その石像たちはイコにとって始めて目にするものだった。これまで霧のお城を縦横無尽に駆け回り、それでも今まで一度も見たことがない姿をした石像――にも関わらず、イコにはその石像たちはやけに見覚えがあるような気がしてならなかった。
理由はすぐに思いついた。
大きさの違う石を組み合わせて形を整えられた石像は、大雑把ながらもヒトの形を模しているようだった。辛うじて頭、上半身、下半身の三つの部分に区分できるが、腕と呼べる部分はなく、足と呼べるような造りもしていない。下半身の部分は下に向かって台形に緩く広がり、地面に近付く寸前で窄まっているから、スカート姿と見えないこともない。イコの腰ほどの高さにある広がった部分の一番端、スカートの裾の先にも見える位置に石像を囲って手すりが設けられていた。ともすれば短い二本の柱と思っても仕方のない石像が、石人形だと思えたのは頭部の作りのためだ。それは同時に、それこそが今まで見たことのない石像に見覚えのある要因でもあった。
頭部には目と鼻を思わせる彫刻がされていた。その石像の側頭部に、目らしきものと同じくらいの高さから飛び出しているものがあった。外、それもやや上方に向かって伸びるそれは、耳と称するよりもむしろ――
――そろり、とイコは己の頭から伸びるものに触れていた。
剣の柄とはまた違った、冷たく固い触感。
――これとおなじもの?
この石像もまた、形は違えどこれまで出遭って来た石像と同じなのだろうか――そうだろうとも思うし、違うとも感じられた。
イコはしばらく己と似て異なる石像を見上げていたが、やがて顔を下ろすと小さく頭を振った。それは今――今更気にすることではない、と胸の内で言い聞かせ、玉座への歩みを再開する。
石像の間を通り抜ける時に僅かに身体が強張ったが、何が起こるわけでもなく、すぐに二体の石像は視界から外れていった。
いくら少年の足といっても、然程でもないはずの距離がやけに遠く感じる。それでも足を動かし続ける限り、いつかは必ず辿り着くのが道理である。
気がつけば平らな地面が終わっていた。目の前の階段を上れば、すぐ手の届きそうな位置に玉座がある。
簡単に一段、あるいは二段飛ばしで上れそうな階段を、一段一段足場を確かめるように上っていく。
ようやく玉座の前に立ったイコは、いっそう慎重に歩を進め――
「…………」
じぃっと眼前の玉座を睨みつける。
「…………」
剣先で肘掛や座板の辺りを突付いてみた。更に一歩踏み込んで、手の平でぺたぺたと触れてみる。ひんやりと固く冷たい感触は、あまり――それが長時間腰掛けるものなら余計に――椅子に向いていないのではないだろうか、などと場違いなことを考えた。
イコは訝しげに首を傾げた。
さすがに玉座に座ろうとは思わないが、いつでも座れそうな位置に立って耳を澄ます。その間も視線は忙しなく、玉座を中心に部屋中を動き回っている。
部屋の雰囲気に慣れてきたのか、イコの肩から強張りが解ける頃になってもイコは玉座の傍らに立ち尽くしたまま、
「…………?」
困惑の表情を浮かべ、再び玉座に触れ始めた。肘掛に手をかけ思い切り押してみるが、どの方向から押してみてもぴくりとも動く気配がない。剣を振りかぶり思い切り振り下ろしてみても、甲高い音を立てて刀身は弾かれ、イコの腕を鈍い痺れが走っていくだけだ。
何も見当たらないし、何も起こらない。
道が開かれただけで、この場所に意味はなかったのだろうか?
それともここに来るには――この場で何かを起こすには、足りないものがあるのだろうか?
もちろん、イコにそれを判断する術はない。
とにかく何もわからないまま、少なくとも現状では何も起こらない場所にいても仕方がない。落ち着いて思い返してみると、派手に現われたことからこの部屋への扉に目が向いてしまっていたが、祭壇の部屋に戻れば他の仕掛けを見つけることができるかもしれない、そう考えた。
どことなく拍子抜けした感を抱きつつ、イコは昇降機へと足を向けた。行きの時はずいぶん長い距離に感じたものだったが、戻る道程はあっという間だった。戻ったらどのあたりから調べ直したら良いだろうか、そんなことを考え始めた頃には、イコの足は部屋の半ばに差し掛かろうとしていた。
思考も歩みも止めぬまま、立ち並ぶ石像の間を通り抜けようかとした、その瞬間――
「待ちなさい」
背後から聞こえてきたのは忘れようのない、どこまでも深い闇を思わせる、玲瓏なアルトの響きだった。
弾かれたように振り返った先には、底知れぬ闇色を纏った女王の姿があった。女王はつい先刻まで空っぽだったはずの玉座に悠然と腰掛け、鋼のように硬く、冷たい視線を角の生えた子どもに向けていた。
温かみなど感じさせない、どこまでも冷え切った視線に射竦められて萎縮しそうになる心を鼓舞し、少年は真っ向から女王の視線を見返す。
部屋を出ようとしていた足を再び玉座へと向け直す。油断なく剣を構えながら一歩一歩、目の前に現われた絶対的な存在へと近付いて行く。
呼び止めておきながら女王は何かを言う気配がなかった。漆黒の闇に彩られた中で浮き立つ白い美貌は何の感情の色も窺わせない。
イコも何も言わない、否、言えない。イコにとってはこうして向かい合い、視線を真っ直ぐ見返し、近付こうと足を向けるだけでも渾身の力を必要とするのだ。
いつの間にか喉はからからに乾いていた。つばを飲み込み、少しでも喉を潤す。
そうして一呼吸。吸い込んだ空気とともに、たとえそれがほんの欠片であっても、残っている力を絞り出すためイコは腹腔に力を籠めた。そして、吐き出す息に言葉を乗せる。言葉は震えることなく、思っていたよりするりと口をついて出た。
「ヨルダをどうするつもりだ」
答える女王の言葉は、思いの外、優しい――幼子に諭すような響きを含んでいた。
「あきらめろ。もう手遅れだ……」
深みを帯びた声が、イコの知る言葉で、イコにわからない言葉を紡いでゆく。
「わたしのこの躰も、もう長くない」
それは己の未来を語る言葉ではなかった。ただ静かに、淡々と、これから起こる当然の事実を述べている。そう、それは事実なのだろうと、何も知らぬ身であったがイコは漠然と理解し、
「ヨルダには、わたしの意志をついで、城の主として復活してもらう。それがあの子の宿命。いわば、ヨルダはわが”魂の器”なのだ」
理解できたからこそ――意味がわからない。わからない、とイコは思った。ひとつひとつの単語は知っている言葉のはずなのに、その言葉が告げる意味がわかるはずなのに、わからない。
けれど――わからなかったけれど、わかってしまったから。何がわかったのか少しもわかっていないはずなのに、少年にとって一番わかりたくないことを、きっと、何よりわかってしまったから。
――違う違う違う違う!
途端、身体中を駆け巡るのは行き場をなくした否定の言葉。
わかってしまったから否定することは間違っていると知っているのに、溢れ出して止まらない否定の言葉。
しかし女王にとって、卑小な子どもの葛藤など瑣末事でしかないのだろう。諭す口調はそのままに、疾く理解せよ、と絶対者としての尊大さを以って淀みなく言葉を紡ぐ。
「つぎに目覚めたそのときには、もはやおまえなど憶えてはいまい」
――がん、と。
イコの身に、頭を強く殴られたかのような衝撃が走った。
頭の中が焼き切れたように真っ白に染まっていく――思考が凍りついていく。
そして女王は、いっそ慈しみとも呼べる響きをもって命令した。
「――さぁ、その剣をおいてたち去りなさい」
理由は要らない。意思など関係ない。問答無用で従ってしまいそうになる、それは絶対者からの言葉だ。
――けれど。
最後の最後、付け加えられた言葉は命令ではなかった。
「あの子もそれを望んでいたぞ」
イコの顔が、くしゃり、と歪む。苦しそうな、今にも泣き出してしまいそうな顔を俯かせ、何かを耐えるように奥歯を噛み締める。
伝えられた少女の望み。だからこそ見逃してやるのだ、と言外に含まれる。
それは真実、女王が見せた慈悲の欠片だったのかもしれない。もう二度と、少年と少女は心通わすことができないのだから、と。
あるいは、縋る希望を奪い去る、この女王らしい非情さだったのかも知れない。少女の望みは少年とは違うのだ、と。少年が望むことを少女は望んでいないのだ、と突きつけて。
「――っ!」
そして、その最後のひと言こそが引き金になった。
「やああああっ!」
弾ける想いのままに、勢いよく弾き出された少年の身体は疾駆する。
あの子とは誰のことなのか――それは白い光を纏った少女。ヨルダの他に在りえない。
望んでいたこととは何のことなのか――イコを、角の生えたイケニエの子どもを帰すこと。ヨルダ自身のことはどこにも含まれない。
『望んでいた』とはどういう意味なのか――ヨルダがヨルダ自身の力でその望みのためにできることはないのだと、諦めてしまったということ。ヨルダは女王が語った己の行く末をとうに受け入れている。
イコはそれをすべてわかってしまった。だからこそ認められない。
――だから、拒絶した。
イコが拒絶するありとあらゆる事実は、つまるところひとつの形を持って目の前に存在していた。
無我夢中だった。無我夢中のまま、ただがむしゃらに、イコは目の前のその存在に、霧のお城に君臨する者に、闇を纏い影を従える女王に――白い少女の母だという黒い女性に、剣を振り上げていた。
――ギィィンッ!
いつの間にか女王の周囲を、澱んだ揺らぎを見せる透明な壁が丸く包み込んでいた。壁の向こうに居る女王の姿が鮮明に見えるくらいその壁は透き通っているはずなのに、内包した女王以外の空間が揺らいで見えるほどに歪んだ壁でもあった。歪む空間が見えたからこそ、透明なはずの壁は不可視の壁とは成りえていない。その透明な壁に阻まれ、振り下ろされた剣は切っ先は女王に触れることさえできず、甲高い音を立てて弾かれてしまった。
しかし、それだけでは終わらない。
輝く剣と闇を纏い影を従える女王の力をもって張られた壁、ふたつの力が衝突した瞬間、激しい衝撃波がイコを襲ったのだ。剣を支える腕はもとより、少年の小柄な身体もその場に踏みとどまることができず、小さな身体は成す術もなく並び立つ石像の更に向こう、多角の部屋と四角い部屋の境界近くまで吹き飛ばされてしまった。固い床に叩きつけられた瞬間、頭のすぐ横で、ガキィッ、と固い音が聞こえた気がした。イコがその音が何か、身体中に走る痛みを凌駕して、突如頭を襲った激痛が何かを理解する前に、衝撃で跳ねた身体は床の上を無様にも転がっていく。
それは時間にすればほんの僅かな間だったのだろう。転がっていた身体が止まり――
――ガシャン、と重みのある金属の音と。
――カラン、と軽い何かの音と。
自分の身体から離れて行ってしまったふたつの音を耳に収めながら、イコは身体中――特に片側だけがひどく痛む側頭部――の痛みに歯を食いしばり、震える腕で冷たい石畳に倒れ伏す自身の身体を支え、起き上がった。
必死になって足掻こうとする子どもに投げかけられたのは、冷淡な言葉だった。
「悪い子だね。そうまでして死にたいのか」
先ほどの衝撃は女王には何の痛痒も与えなかったらしい。腰掛けていた玉座から立ち上がった女王は、白い美貌に冷えた眼差しを浮かべたまま悠然とそこに在り続ける。
イコは女王の一挙一動に神経を尖らせつつ、素早く金属音がした方向へ視線を走らせた。
――あった!
すぐ傍らに落ちていた剣にイコが手を伸ばし――
「――――はっ」
女王の口から鋭い呼気が零れ――
剣を手にしたイコが女王へと顔を向けた時、緑色の線がすぐ眼前に迫っていた。線の向こう側の世界はあまりにも暗く、闇に色と言う色、音と言う音が呑み込まれている。緑色の線は世界と、世界を呑み込む闇の境界線に違いない。
「――っ!」
――これは、触れてはいけないものだ――!
身体中から――魂さえ震わす予感に、イコは咄嗟に身体を庇うようにして、剣を持った手を上げていた。しかし剣はイコを隠す遮蔽物になるような大きさはなく、何より目の前に迫った闇は物陰に隠れれば防げるというようなものではない――はずだった。
ギィィィンッ!
金属が擦れ合うような音が聞こえた。まるで激流の中に身を晒したように、剣を構えた腕に衝撃が走る。今にも弾き飛ばされてしまいそうな剣の柄を必死で押さえた。
閉じることを忘れていた瞳が捉えた光景に、イコは信じられない面持ちで息を呑んだ。
女王から放たれた世界を呑み込もうとする闇、その境界線が剣から放たれた光に弾かれたのだ。
境界線が少年の身体を呑み込もうとした瞬間、イコの周囲がこれまで何度も目にしてきた光に覆われた。イコを包み込んだ光、それは間違いなく剣から放たれたものだった。
先刻、耳に響いた擦過音の正体は闇と光のせめぎ合う音だったのだろう。
闇が通り抜けていったのは一瞬だった。
境界線が通り過ぎてすぐ後、夜の帳を下ろしたように暗くなった――色を無くした空間から、ほんの僅かな時間の経過とともにすぐに闇が薄れていった。闇が薄れ行くに連れ、剣から放たれる光も弱まっていく。部屋が無音ではない静寂を取り戻す頃には、イコの周囲を包んでいた剣の光も刀身を輝かせる程度に戻っていた。
何が、と考えている暇はなかった。
突然の闇の奔流からは足を止めて身を守ることが精一杯だった。闇が完全に薄れていく前に身体に掛かる圧力は消え失せていたが、変わり果てた世界の有様を目の当たりにして僅かに身じろぐ余裕さえなかった。
しかし、その闇が薄れて消えた今なら、これまでと変わりなく動くことができる。
イコは玉座へ――そこに在る女王へ向かって駆け出した。しかし階段を上りきる前に再び鋭い呼気が部屋に響く。
そうしてイコが目にしたのは、女王を中心に瞬時に膨れ上がった闇だった。
床を、壁を、天井を、緑色に輝く線――闇と闇に侵されていない空間を隔てる境界線――が走っていく。
境界線がイコに触れようとした瞬間、再び掲げた剣が光を放ち、境界線を、その向こうに満ちる闇を弾く。
嵐のようなその一瞬をイコは息を潜めて耐えると、
「――やあぁっ!」
闇が薄れ散った時を逃さず、女王が更に闇を放つ前に剣を振り下ろした。
――ギィィンッ!
しかしイコの渾身のひと振りは、またもや女王の周囲を包み込む透明な壁に阻まれてしまった。
伝わる衝撃に、僅かな間とは言え麻痺してしまったように両腕の感覚が失せる。止める力を失くした手から剣が、右へと大きく弾き飛ばされる。
「――くっ」
イコは痺れを残す腕に構わずに剣が飛ばされた方へ踵を返すと、階段の途中に落ちている剣へと駆けた。階段を駆け下りる勢いを止めずに剣へ手を伸ばす。少年の手が柄に触れる、無理な体勢で身体のバランスが崩れる、そして膨れ上がる闇の気配を感じたのはほぼ同じだった。
階段を転げ落ちながら柄を握る手だけは放さない。
一拍遅れて甲高い音を鳴らす、せめぎあう光と闇の摩擦音を聞きながら、イコは膝をついて奔流が収まるのを待った。
全身に掛かる圧力が失せると同時、視界に色が戻る前に女王に向かって階段を駆け上がる。
その勢いのまま今度は女王の左側から渾身の一撃を振るうも、これまでと同じように透明な壁に弾かれる。腕の痺れが残ったまま振るったのが悪かったのか、受けた衝撃に少しも抗うことができず、剣は左後方へ大きく弾き飛ばされてしまった。
「――しま――っ」
同時に、飛ばされたはずの剣を見失い、焦りの色が強くなる。
飛ばされた方向へ視線を飛ばすがどこにも剣は見当たらない。剣が飛ばされていったのは部屋の中央にある石像の向こうだった。どうやら、振り返ったイコから見てちょうど右側の石像が視線を遮る遮蔽物となる場所まで飛ばされてしまったらしい。
しかしそんなことを冷静に考える暇もあらばこそ、イコはただ一直線に剣が落ちているはずの場所へ向かって駆け出した。
立ち並ぶ石像の間を抜けるように駆け――
「――はっ」
石畳を駆けるイコの足音に混じって、鋭い呼気の音が耳朶を打った。
ぞわり、と背筋に走った悪寒は、背後で膨れ上がり今にも解き放たれようとする闇の気配だ。振り返る暇などない。闇の奔流は数呼吸分の間も置かず、駆ける少年の背後に迫り呑み込もうとする。
足は止めない。全力で駆け続けている。
剣を見つけられないまま石像の前を斜めに横切ろうとして――視界の端で、世界が闇に呑み込まれたのが見えた。
迫り来る終わりの気配にイコの身体が強張る。
――間に合わない……!
闇の速度はイコの全力の速さを上回っている。闇を弾いてくれる剣はない。だからそれは、予感でも推測でもなく確信――
――ギィィィンッ!
呑まれた、と思った瞬間、聞き慣れた音が響いた。
「…………え?」
目前を通り過ぎていく闇の奔流に足を止めた。つま先の、ほんの僅か先で光と闇の境界が生まれている。
闇を弾く光が辺りを覆っていた。
なぜ、と浮かんだ疑問に、イコは惹かれるように振り返った。そこにあったのは今にも通り過ぎようとしていた石像だ。
闇は、石像を呑み込めずにいた。
石像は剣と同じ光を放ち、闇を弾いていた。それだけではなく、石像から伸びた光に覆われた部分も闇を弾いている。それは影ができるのとよく似た、けれど反対の光景だった。横から強い光を浴びせられた物体からは、光の強さによって色濃く長い影が伸びる。それと逆だ。強い闇の波動を弾いた石像から、玉座を背にする石像の前方へと光が奔流に流されるままに伸びていた。光はイコを包むほどまで伸び、その結果、運良く光に守られた空間内にいたイコも闇から守れたのだ。
見れば、境界を越えた闇に呑まれた世界の中で隣の石像も同じように光を弾いている。
思いもよらなかった安全地帯に、安堵すると同時に心が落ち着く。落ち着いてあたりを見渡せば、イコはすぐそれに気がついた。
闇の向こう、壁際に闇を弾くもうひとつの光がある。
石像の放つ光より小さいが、決して闇に呑まれない強い光――剣の光だった。
せめぎあいの音が小さくなり、闇と光がほぼ同時に薄れた瞬間、イコは剣に向かって駆けた。
――届く――!
聞こえてきた鋭い呼気も、あっという間に迫り来る闇の波動にも恐れることはなかった。
闇がイコを呑み込まんとする寸前、イコは拾い上げた剣を構えた。
光が闇を弾く。闇の奔流に流されないよう、両足に力を籠めて全身で流れに抗う。
動けるようになるや否や女王へと駆け、剣を振り上げ――そしてまた弾かれる。
それでもイコは諦めなかった。何度弾かれても剣を取り戻し、時には石像の影――光――に隠れて闇の奔流をやり過ごし、何度も何度も女王に向かっていった。
そうして女王に向かうこと五度目。
諦めずに向かい向かい続けた意志は、ついに女王を守る壁を打ち破った。
――パリン!
音を立てて壁が壊れ、消えていく。
しかし同時に剣を弾く力はこれまでの比ではなかった。勢い良く弾かれた剣は、遥か後方、立ち並ぶ石像は優に越えて昇降機近くにまで飛ばされていた。
いい加減卑小な子どもが鬱陶しいのか、身を守る壁を壊されたことで焦りが生まれたのか、女王が闇の波動を放つ間隔は非常に短くなっている。剣を弾かれた後、ほとんど間を置かずに放たれた闇から石像の安全地帯に飛び込んで身を守ったのは良いものの、ほぼ隙間なく連続して放たれる闇の波動に身動きが取れなくなっていた。
それでも、とイコは決意を滲ませた瞳で剣を見据えた。
慎重に歩を進め、光が伸びるぎりぎりの端、光と闇の境界線間際に立つ。
それでも剣までは遠い。闇の奔流が部屋を蹂躙する速度はイコの駆ける速さを容易く上回っている。イコが今立っている場所と玉座の女王との間に空いた距離も、一度闇が放たれれば彼我の程もない。
境界線が走り抜け、一部を除いて目に映る世界から色が消える。
何度目になるのか、すでに数えるのも億劫になるくらい繰り返され、それでも耳に馴染むことのない、世界のせめぎあう音が響く。
息を止める。僅かに腰を落とす。重心はやや前に。
そうして、音が薄れ――部屋中を満たした闇が薄れ始めた瞬間――
――ザッ!
イコの足は、力強く地面を蹴りだしていた。
しかし、走り出し、出発点から剣まで半分の距離にもならない内に、背後から終わりを意味する音が聞こえた。
一歩。背後で開放された気配に背筋が泡立つ。
一歩。迫り来る気配。振り返って確認している場合ではない。それが何かはわかっているのだから、足を緩めてはいけない。もっと速く、もっと早く――!
一歩。意識に身体が追いつかない。抗いようのない強大な流れはもうすぐ間近まで近付いている。このままでは呑み込まれてしまう。
剣はまだ遠い。伸ばした手は届かない。
「――ぅっ」
届かない、伸ばされた手――それは、いつかどこかで見た光景を思い起こさせた。
けれど、いつかのどこかとは違う。
なぜなら今、イコは間違いなく近付いている。
だから、どれだけ手を伸ばしても遠ざかっていった、そんないつかの時とは違う。
遠かった距離は、あとほんのひと跳びだ。だから、
「……っわあああああ!」
イコは跳んだ。
全速力の助走がついた跳躍は、一瞬とは言えイコが駆ける速さを、迫り来る奔流の速度さえも超えていた。今にも少年の足に触れようとしていた境界線を振り切る。
跳ぶというより、飛ぶように。駆けるというよりも翔けるように。イコの全身全霊を懸けた跳躍は、ぐん、と一気に距離を縮め、イコの目の前には石畳の上に落ちている剣――
「…………ぅあっ!?」
――の上を跳び越えてしまった。
手を伸ばすが僅かに遅い。柄を掴もうと伸ばした手は虚空を引っ掻くようにして滑っただけだ。
どすん、と地面に倒れこむ。着地を考えずに跳んだため受身もろくに取れなかった。
それでも剣を手にしようと身体を起こしかけ、眼前に広がる闇に覆われた世界に息を止める。
――間に合わない……!
一瞬で心が萎縮する。けれど、身体はそれでもあがき続けるように剣に向かって手を伸ばそうとした。
眼前に迫っていた闇がすべてを飲み込んだのは、その一瞬後のことだった。
――ギィィィンッ!
呑み込まれた、そう思った瞬間、甲高い音が響いた。
「……………………え」
まず真っ先に思ったのは、どうして無事なのだろう、ということだった。
呆然としたイコの手が、冷たい感触に触れた。
見れば、剣は光を放ち、呑み込まんとする闇を弾いていた。そして剣が発する光はイコをも包み込んでいた。
「たすけて……もらっちゃたんだ」
闇を弾く剣の光に覆われる一角に落ちることができた、事実はそんな偶然だったんだろう。思い返せば、担い手がなくとも剣の光が闇を弾いていたのをイコは何度も目撃している。
しかしイコは包み込む光にただひと言、ありがとう、と呟いた。
音が止み、闇が薄れる。
イコは手に触れた冷たい感触を力強く握り締めた。
立ち上がり、剣を構える。
すぐに新たな闇の波動が襲い掛かってきたが、少年の手にはすでに防ぐ手段がある。
一歩、一歩。
闇の波動を防ぎながら、玉座へ、女王の下へ近付いていく。
闇に浮かぶ白い美貌を真っ向から見つめる。
すでに女王への道を阻む隔たりは失せている。
階段を上った。
女王の前に立つ。
女王は逃げない。ただ、これがこれまで何度も繰り返してきたように闇の波動を放ち、イコは何度も繰り返してきたように、光を放つ剣で自身を守る。
そして、恐らく最後になるだろう、闇の奔流が収まる。
イコの身体の自由を奪う圧力が失せ、闇に呑まれた世界が色と音を取り戻す。
イコは剣を女王に向け――
――きっと、憎しみがあったと思う。
――きっと、怒りがあった思う。
――きっと、悲しみがあったと思う。
――きっと、消せない畏れがあったと思う。
理由はいくつも挙げられるかもしれない。けれど剣を振るった理由は、本当はたったひとつなのだろう、とイコは思う。
ただ、目の前の存在が許せなかった、それだけのこと。
それは憎しみでも怒りでも悲しみでも、恐れでさえもなく。
目の前の女王が、あの白い少女の辿り着く果てだというのなら、そんなものは許せなかった。
――だから、きっと。イコは否定したかったんだろう。
女王が居なくなれば、ヨルダは女王にならずに済む、そう確約されたわけでもなかったけれど、どうしても許せなかったのだ。
――剣を、女王に突き刺した。
剣は女王を貫き、背後の玉座に深く突き刺さった。
女王の身体が玉座に沈む。
女王は、どこまでも自らに逆らう角の生えた子どもに何を見たのか、胸に剣を埋めたまま、苦しそうに言葉を漏らした。
「あの子は けっしてこの城から出ることができないのだ……」
そこに浮かんだのは――憐憫、だろうか。
「たとえ、おまえが、わたしの……命を、奪ったとしても……」
――どういう意味だ。
そう、問いかけることはできなかった。
女王の言葉の終わりと同時に、イコの身体をすさまじい衝撃が襲ったのだ。
最初に、女王に切りかかり弾き飛ばされた時のような、あるいはそれ以上の衝撃は、小さな子どもの身体を容易く吹き飛ばした。
浮遊感はほんの一瞬。
次の瞬間、イコの身体は二間続きの部屋を飛び越え、昇降機の扉の上、天井近くの壁に叩きつけられていた。
イコ自身、自分がとても固いものにぶつかったのを感じていた。しかし全身を襲うはずの痛みを感じるより先に、あまりの衝撃に息が止まる。
そして再び側頭部から――ただし、最初の時とは反対側から――聞こえたガキンッ、という何かが割れるような音、そして激痛。
――どさり。
何かが、地面に落ちた音。
その、何か、が少年自身であることも、己が倒れ伏していることさえわからぬまま。
――ヨルダ、を。
遅れて全身に広がる痛みと、それを瑣末に感じられるほどの頭を襲う激痛、そして痛みに混じって側頭部から何かが流れ出ていく感触――そのすべてが感じられなくなっていくことにも気が付かず。
――むかえに。
最後には光も闇も感じられなくなって。
――ヨル、
そして、何もわからなくなった。
――――――城が、震えた。