44.祭壇2
突如、並び立つ石像の奥から溢れ出した幾筋もの光が、薄闇に覆われた空間を切り裂いて迸った。
閃く光を受けた石像は音を立てて左右に動き出し、その奥に隠されていた昇降機の出入り口が露わになる。迸る光はその更に奥、昇降機の中から放たれたものだ。
光が収まる頃には石像の動きは止まり完全に道を開けていた。現われた出入り口、昇降機から姿を現したのは刀身を薄っすらと輝かせる剣を手にした少年――イコだ。
かつて神官たちに連れられるままやって来た場所に、イコは自らの意志で、ただひとりで足を踏み入れようとしていた。
そこはイコにとって終焉の場所だった。彼の人生とはこの場所に辿り着くまでのひと時のことだったのだから。
けれど同時に始まりの場所でもあった。もう終わりだろうと受け入れて、それなのにその終わりから文字通り放り出された。そして放り出されたからこそあの少女に出会えたのだから。
イコは郷愁にも似た思いを胸に、再び目にすることになった終わりと始まりが混在する部屋へと足を踏み出した。
昇降機から降りてきたばかりのイコの正面には高い壁が聳えている。否、この部屋の中でひと際低い位置にある昇降機の出入り口近辺は、正面だけでなく四方を高い壁に囲まれていた。
もっとも、目に付くのは壁だけではなかった。まず、正面の壁に沿って架けられたふたつの階段。ふたつの階段はそれぞれ左右に延び、左右対称になるように緩やかな弧を描いて上へと続いている。
また、昇降機から出てきたばかりのイコの頭上には、上の広間からイコの正面向かいの壁の上へと続く階段が架かっている。
そのどれもがイコにとっては見覚えのある光景で、ここは確かに最初に訪れた、祭壇とたくさんのカプセルがあった部屋だと確信する。
そして、正面の壁を見据えたまま視線を上げていくと、手を伸ばしても、例え跳んでも指先さえかすりもしないような位置に、ぽっかりと口を開いた出入り口があった。
その出入り口は、イコの頭上に架かる階段のちょうど真下にあった。一見しただけなら、壁の高い位置にある細長い窓、と見えないこともない。しかしイコはひと目見てそれが扉の開かれた出入り口なのだとわかっていた。最初にこの部屋に連れて来られた時にこんな出入り口があったかどうかまでは思い出せないが、それは確かにこの部屋に最初からあった出入り口だった。
階段の下の扉。
それは倉庫へ、そして少女が囚われていた鳥籠のような檻があった塔の中へと続くものだったのだから。
だとしても、どうしてその扉があんな頭上にあるのか。
――そういえば……。
運良くカプセルから出られた――放り出された時のことを思い出す。
イコが嵐の夢から覚めた時、今イコが立っている昇降機前の空間はなくなっていた。昇降機があったという事実そのものが夢幻だったかのように、何にも無くなっていたのだ。
カプセルから出られてもこの部屋から出られないのでは、結局の所カプセルの中に居た時と意味は同じはずだった。しかし次の部屋へ続く扉、そして閉ざされていた扉を開く仕掛けがあったから終わることはなかった、が。
再びこの道が消えてしまったら、ヨルダと船着場へ行くことが難しくなってしまう。イコのすぐ背後にある昇降機を使わずして船着場に辿り着けたのはまったくの僥倖でしかないのだから、同じ道筋を辿ってヨルダと共に船着場に向かうことは不可能――とは断言したくないが、かなり難しいだろう。
この空間を消してしまう仕掛けでもあるのだろうかと、周囲を探して首を巡らしていたイコは、
「あ、もしかして……」
思い付き、改めて周囲を見渡す。同時に、最初にこの部屋に足を踏み入れた時の、カプセルから放り出された後にはどこかに道はないかと部屋中を駆け回った時の記憶を掘り起こす。
そうして気が付いた。
見覚えのある正面のふたつの階段。これは、もっと高い位置へと繋がるものではなかっただろうか。
壁には擦れたような、変色した跡がある。それはちょうど、イコが今立っている地面から、背後の昇降機の上に広がる広間の高さまでの間に見られる痕跡だ。
そして、届かない、次の部屋への出入り口。
記憶通りのひとつひとつの部屋の部位。
記憶通りの場所にあるものもあれば、記憶と重ならない場所にあるものもある。
それから、残されている痕跡。
そして、元通りだった道を塞ぐ角の生えた子どもの石像。
――そうか。
同じようで違う理由、同じ部屋なのにあったはずの昇降機が消え、届かないはずの出入り口を通れるようになった理由、それに気が付いた。
つまり、出入り口が高い位置にあるのではなく、昇降機がどこかへ移動してしまったわけでもなく、イコが立っている地面が下がっている、そういうことだったのだろう。昇降機前の空間の床は、本来もっと高い位置にあって昇降機を隠している。もしかしたら昇降機を使用し昇ってきた時に床が下がる仕掛けなのかもしれない。逆に、昇降機で下に行くと床が上がり昇降機を隠してしまう仕掛け、そう考えればイコが目覚めた時に様子が一変していたことにも理由がつく。何せ、あの時はすでに神官たちが昇降機で下りて行った後だったのだから。
今、昇降機を使おうとするのはイコとイコが取り戻そうとする少女だけ。それならば船着場への帰り道が断たれることはない。
だから。
だから、心配することはない、はずで。
心置きなく進むことができる、はず――
「…………ッ」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
何を躊躇しているのか。これ以上進むことを拒絶するかのように身体がひどく重く感じる。そんな己を叱咤し、イコは身体を左に向けて広間の上へ通じる階段へと足を掛けた。
窓ひとつなく、薄暗い部屋。
そこはとても静かで、まるで空気も、時間さえも止まってしまったかのようで。
初めて連れられてきた時と変わらない光景――の、はずだ。
――……なに?
徐々に膨れ上がっていく焦燥感に、自然とイコの顔に不安げな表情が浮かぶ。
息苦しさを覚えるような――圧迫される、というよりは、得体の知れない何かが身体に染み渡ってくような不快感。
意識して息を深く吸い、吐き出す。それだけのことでも汗が浮かんだ。
進みたい、その想いに反して鈍る足を無理にでも動かし、震えそうになる手を押さえつけて階段を一段一段上っていく。
時間をかけて上った先で広がるのは、かつても見た広大な広間だった。左右の壁一面に並ぶたくさんのカプセル。たった一つだけ――かつてイコが入れられていたカプセルだけが、壁から落ち、床に倒れている。
しかし、今のイコにはそんなものは何ひとつ見えていなかった。
愕然と見開かれた瞳が写すのは部屋の最奥にあるただ一点、祭壇だけだった。
「……ぁ」
掠れた声が零れる。
「な……に……?」
ちらほらと揺れて見える青い光。
誘われるように、イコの足が向けられる。
揺れているのは青だけではなかった。祭壇の上でゆらゆらと揺らめき躍るのは黒い影。その影は部屋を覆う薄闇よりも、僅かに灯された明かりが届かぬ場所の陰よりも、その光が落とす影よりもなお暗い、漆黒の色をしている。
それは正しく『影』だった。己自身で動く影。けれど祭壇で楽しそうに踊る影は、これまで見たどんな影より色濃く、とても小さい。
その姿はまるで、小さな子ども。
ただひとつ、これまで現れてきた影と変わらず、瞳の部分を青く輝かせ、とても楽しそうに――
「――――!」
――踊る、影たちの隙間から見えたものに、喉の奥が凍りつく。
目一杯開かれた目は、その光景を確かに捉えているはずなのに、イコはどうしてもそれを理解できない――したく、なかった。
影たちは躍る。
それの周りを、楽しそうに、愉快そうに。
影たちは触れる、離れる、回り続ける。
光を無くし、色をなくした――少女の石像の周りを。
――違う。
違う、とイコは分かる。
石像なんかじゃない。
あれは、あの人は。
俯いた少女の視線はずっと何かを追い続け、引き戻されない手は失くしてしまった何かを惜しむようで。
それは、最後に離れてしまった時のまま、時を止めてしまった少女の姿だった。
瞬間、イコの目の前が一色に染まった。
それは白だったろうか。赤かったろうか。それとも黒だろうか。
もしかしたら一色ではなかったかもしれない。
ただ、周囲の景色が何ひとつ目に入らない、視界がまったく違う色で塗りつぶされていく。
見えるのは、想うのは、
「――ヨルダァッ!」
ただひとりの少女の名を叫び、少年は駆け出した。
イコの喉から迸る、悲鳴とも怒号ともつかない叫び。
しかしそれはそよ風ほどの力もなく、影たちは延々と物言わぬ、動かぬ少女の周りで踊り続けている。
頭が沸騰するような、灼熱の怒りと。
心臓の変わりに氷でも埋めまれたかのような、底冷えする恐怖と。
相反する、けれど根底は同じふたつの感情に押されるまま、広間を走り抜けたイコは祭壇への階段を駆け上った。
「わあああああっ!」
――ヴゥンッ!
駆ける勢いのまま、横薙ぎに払われた剣は、光の軌跡を描いて無防備に踊る影へと吸い込まれていく。
――ヴア゛ア゛ッ!
手ごたえは感じなかった。
空気を、空間すら切り裂くような一撃が触れた瞬間、影は音を立てて消滅したのだ。一瞬、影がそのまま霧になったような漆黒の煙が立ち上がり、それはすぐに空気に溶けて薄れ消えていく。
消えた影に驚いたのか、それともイコが持つ剣を畏れたのか、踊っていた影たちの足並みが崩れた。
イコの――ヨルダの周りから、ある影は飛び退り、ある影は文字通り天井へと飛び上がる。
しかし、影たちはすぐにイコやヨルダに近付いた。
楽しそうに飛び跳ねるような動きも、躊躇なく近付き触れようとする動きも、まるで遊び仲間を見つけた子どものようだ。
振るわれた剣から大きく跳び退る姿は、剣を恐れるというより、驚いて離れた――鬼ごっこの鬼から逃げる子どものような無邪気さを感じる。
いや、事実、子どもなのではないか。
影たちの背格好はイコと変わらない。天井まで飛び上がっていた影が、突然イコの目の前に下りてきた時、間近に見えた頭の部分からは角のように伸びる影があった。どこかで――よく、目にしていたものに似たその姿。
強い日差しの下で、揺らめく炎の前で、いつでもイコとともにあった形。
イコと同じ姿をした影。
けれどイコは何も考えずに剣を振るった。
否、考えられなかっただけだろう。
この時、少年の身体を満たしていたのはただひとりの少女のことだけだったのだから。
「……ッ、ヨルダ! ヨルダ!」
次々と群がってくる影たちを払いながら、まるで石のようになって動かない少女に呼びかける。
しかし少女からは何も返らない。
当たり前だ、とも思う。
イコにはわかっていた――わかっている。
石のようになって、ではないのだ。
ヨルダは本当に、現実に、絶対の事実として、石像と化してしまっているのだから。
それでもイコは、ヨルダ、とそればかりを繰り返した。
ただ、理由も分からず影たちがヨルダに触れるのが嫌だった。そうすることでヨルダから光が奪われてしまったかのように思えてならなかったのだ。だから、これ以上ヨルダから光を奪わせてはいけない、とヨルダに触れようと近づいてくる影たちに、片っ端から剣を振るった。
無防備に近付いてきた影に振り下ろした刀身が叩きつけられる。
――ヴア゛ア゛ッ!
群がる影たちを払おうと無茶苦茶に振り回した剣が、跳び退り損ねた影をかすった。
――ヴア゛ア゛ッ!
大きく横に凪いだ剣先が勢い余ってイコの身体の後ろに流れ、ちょうど背後に近付いてきた影に触れた。
――ヴア゛ア゛ッ!
ほんの少しかすっただけでも、影たちは音を立てて次々と消えていく。
次々と消えていくのに、次々と現われてくるから、イコは剣を振るい続けた。
動悸が激しさを増して、呼吸をするのが精一杯で少女の名を呼ぶことさえままならなくなっても、両腕が自分のものだと感じられなくなるくらい重くなっても剣を振るうことだけは止めず――そうして、現れる影たちの波が一段楽する頃になってようやく、イコはおかしいと感じ始めていた。
すでに最初に祭壇でみかけた時以上の影たちを消している。それにもかかわらず、未だに影たちは次から次へと姿を見せる。ある影は黒い足跡をつけながら――その足跡もすぐに塵となって消えてしまうが――階段を上り、ある影は天井伝いに飛んでやってくる。
今も、次々と現われる波は落ち着いたものの、イコの目は広間を通って祭壇を目指す影たちの姿を捕らえている。
――いったい、どこから……?
不審に思って、視界を広げたイコは、そこにあった光景に息を呑んだ。
いつの間にか、壁に並べられたカプセルがいくつも光を放ちだしていたのだ。
それだけではない。
いまだ光らぬカプセルから……あれは……
「――――ッ!」
喉の奥が鳴る。声どころか音にすらならず、凍る喉の奥でくぐもった叫びが零れる。
煙が立つように……カプセルから現われたのは、子どもの姿をした影。
イコと同じ、角を生やした子どもの影が、壁に並べられたカプセルから、いくつもいくつも這い出てくる。
カプセルは、きっとこれまで、何人、何十人ものイケニエを閉じ込めていた器。イコと同じ、角の生えた子どもたちの終焉の場所。
ならば、そこから出てくるものは――
かつて、イコは思った。カプセルに入れられたイケニエたちはどうしたのだろう、と。
それが。
その答えが、これだというのか。
遊びをねだるように、ふざけている様に、イコたちに迫る影たちは。
まさか。
――ああ、やはり、と心の奥底でそれに納得している。
本当に。
――目の前に突きつけられて、嘘も本当もないだろうけれど。
同じだと。
――なにが。だれが。なにと。だれと。
愕然と動き止めたイコの目の前に、黒い影が音もなく下りてくる。
「ぅ……ああぁっ!」
とっさに振るった剣は、触れる先から影を消していく。
無我夢中だった。
恐ろしいのか、悲しいのか。
自分でもわからぬまま、イコはただひたすらに剣を振るった。
どれくらい剣を振るっただろうか。
影たちは塵ひとつ残さず消えてゆくから、どれだけたくさん消してもその痕跡は残らない。
――否、違う。
痕跡はあった。
影がひとつ消えるたび、広間に灯る光が増える。
そしてすべての影が消え去った後には、部屋中の――たったひとつを除いたすべてのカプセルが輝きだしていた。
それが何を意味しているのか、そのことに思いつく前に、異変が起こった。
突如として鳴り響く轟音と振動。それはイコの背後――祭壇の奥から聞こえてくる。
イコは石像のままのヨルダを庇うように、背後を振り返った。
「――――!」
祭壇の更に奥には階段が現われ、階段を上った先には新たな扉が見えた。
まるで、少年を誘うように姿を見せた扉。
「……ヨルダ」
石と化した少女は応えない。膝を付き、寂しげな表情で俯いた姿は最後に別れた時の――少年の網膜に焼き付いた一枚絵そのままだ。動くことなく止められたその姿のままに、彼女の時も止められたままなのだとしたら、ヨルダは今でも自分を助けようとしてくれているのだろうか。
――ぼくはヨルダを助けられる?
伸ばした手の平から伝わるのは、温まることのない冷たさ。
ヨルダをこのままにして、イコひとりで霧のお城から出て行くという選択肢だけはなかった。
剣を握り直し、新たな道を見据える。
この道を行けばヨルダを助けられるのか、それはわからない。けれど誘われているというのであれば進もう、そう思う。
「……ヨルダ、行ってくるね」
色を無くした少女からは返る言葉も頷きもないけれど、これまで何度もそうしてきたように、待たせる少女に声を掛ける。
――ただいま。むかえにきたよ。
必ず、その言葉を伝えるのだ、と心に決めて。