43.船着場

 道を塞ぐ石像を前にイコは途方に暮れていた。進むためには石像を動かさなければならないが、イコにその力はない。これまで道を開き続けてきてくれた少女の姿はなく、行く手を照らしてくれた光は失われてしまったままだ。
 けれど、失われてしまったから、失くしてしまった光を、温もりを、あの優しい少女を取り戻したかった。何より、共に居たいと、いきたいと想った。だからこそイコはひとりになっても道を探し進み続けてきたというのに、今、イコの目の前にはどうしたって越えることができない障害――石像が、文字通り立ち塞がって道を閉ざしている。
 もちろん、無駄な足掻きなら散々した。そう、無駄とわかっていてもせずにはいられなかった。
 体当たりする勢いで思い切り押してみた。少しでも掴みやすい所を持って力いっぱい引いてみた。もしも木の棒や剣を持っていたら、得物が壊れるまで叩き続けていただろう。
 それでも石像は何ひとつ変わらず、壁のように立ち塞がり続けている。光を纏う少女とは違う、比べることすらおこがましい角の生えた身を思い知らせるように傲然とその場にあり続ける。
 ――進めない。
 目の前にある、角の生えた子どもの石像。それは崩しようのない現実であり事実だった。
 石像を目前に、少年の身体は硬直したように動かない。
 否、何も思いつかない、どうしたらいいかわからないから、動けない。
 だからと言って動けないままでいいわけがない。動きたいからどうすればいいか必死になって考える――けれど。
 からから、からから。
 身体の内から聞こえてくるのは、ありもしない音だった。進むのだという強い想いは、ただ空回りを続けるばかりで身体を動かす動力とはなりえない。
 その時、じわり、染みだすように聞こえてきたのは誘いの言葉だった。
“諦めてしまえ”
 その言葉は外に零れることなく、少年の身の内で反響し続ける。空回りする思考が、反響し続ける言葉の糸に絡まれていく。
 ――諦めなければいけない? ……もう、諦めてしまえばよい? だって、どうしたって自身ではどうにもできなくて、たくさんがんばったけれどこれ以上はどうしようもなくて、だから――
 進もうとする意思は今にも止まってしまいそうで、進もうとする意志は今にも挫かれてしまいそうだ。
 それでも、止まり、挫けて折れてしまう寸前で、
 ――そんなの、いやだ!
 イコは眩暈を起こすほどに首を振り、精一杯の拒絶を返す。そうして首をもたげてくる絶望を振り払う。
 そう、それは絶望。イコにとってこのまま少女と逢えなくなることは、きっと絶望でしかない。
 ――あきらめるもんか。あきらめるもんか。
 その言葉を繰り返しながら、再び石像を見据える眼差しはどこまでも強かった。弱さなど微塵も感じられない、想いで動かすことができるなら石像はとっくに動いていただろう、その位の想いが込めた視線を向ける。
 絡まった糸を解き、振り払い、断ち切って、例え空回りでも考え続ける。
 その時、ふと霧のお城にやって来た最初の頃が思い起こされた。
 かつて、この石像の先はイコにとって終着地点への道でしかなかった。すべてが絶たれる場所への入り口――だからこそ神官たちが光り輝く剣で石像を動かした時も、石像が動く仕掛けに驚きはしたがそれだけだった。何の感慨も湧かない……ように、していた。もうずっと前からわかっていたことだったから、泣き喚いたりしないように――そうして、誰も困らせたりしないように――と。
 ――あ、れ?
 次々と浮かび上がってきた記憶の中に引っ掛かりを覚え、しかし何に引っ掛かったのか判然としないまま、食いしばるように固く閉ざされていた少年の口が本人の意図せぬままに僅かに緩んだ。
 そして、するり、と零れ落ちた言葉。
「……光る……剣……?」
 呟きと同時に鮮明に思い出した光景に、イコは背後の出入り口を振り返った。
 そうだ。
 光り輝く剣は、村から持ってきたものではなかったはずだ。
 あの時、船着場に着いた時、神官長の指示を受けて神官のひとりがどこか――船着場の洞窟の奥へ行っていた。そこにある、何かを取りに行っていたのだ。
 そこで取ってきた何かを持って、その神官はイコたちより遅れてこの石像の前に来たのではなかったか。
 神官が手にしていた何か、とは、すなわち光る剣。
 それはつまり――
「……ここに、ある?」
 閃くと同時に、イコは船着場に向かって駆け出していた。



 潮の香りがとても近い。
 薄暗い洞窟の中は、申し訳程度の桟橋がなければとても船着場とは思えない。
「あ……」
 桟橋に目を向けていたイコは、そこにあったものに目を瞬かせた。それだけでは飽き足らず、手の甲で強く目元をこする。
 それでも消えない。
 つまり、それは幻でも何でもなく――
「舟――!」
 桟橋近くの剥き出しの岩肌の地面の上に、一艘の舟が乗り上げていたのだ。
 駆け寄って恐る恐る触れてみると、しっかりとした感触が手に残った。ざっと見たところ、どこかが腐っている風も、穴が空いている様子もない。ロープでどこかに繋がれているわけでもないので、後ろから舟を押せば、すぐ間際の水面に落とすことができるだろう。
「よかった、舟があれば――」
 共に帰ること――行くことができる。
 安堵のあまりか、声にならなかった言葉を胸の内で反芻する。
 大丈夫。まだ、道はある。ここにも、あった。
 どうやら漕ぐための櫂もないようだが、いざとなれば自分が泳ぎながらでも舟を先導すれば良い。
 そしてこの道を進むため、一刻も早く取り戻しに――迎えに行かなければ。
「――そうだ、剣は……」
 当初の目的を思い出し、イコは神官が剣を取りに行った時のことを思い出そうと洞窟内を見渡した。確か細い崖道を通って行ったはず、と洞窟の壁に目を向ける。すると、向かって左手側の壁沿いに、一見すると洞窟の外へ続いている崖道を見つけた。
 イコは見つけた道を、足を踏み外して水面に落ちないよう崖壁に沿って進んだ。洞窟の半ばくらいまで来ただろうか、洞窟の外に至る前に細く続く道は終わり、目の前に目的のものが現われる。
 四段ほど続く階段の先に、小さな祭壇が設けられていた。
「…………っ」
 イコは、はっと息を呑んで、そこにある光を見つめた。
 小さな祭壇に安置されているのは、懐かしい輝きを放つ一振りの剣だった。幅広の刀身の上を青白い稲光が走っている。
 イコは剣に向かって真っ直ぐ手を伸ばした。
 まったく逡巡しなかったわけではない。この剣は神官たちが手にしていた剣。イコが――角の生えた子どもが触れて良いものではないかもしれない。そう思うと、身についた畏怖の念に縛られて息苦しさを覚えるほどだ。
 ――それでも。
 あの光を、温もりを、この手から失くしてしまう恐れに比べたら、そんな畏れなどどれほどのものだというのか。
 それに剣の放つ光は、ずっとずっと、霧のお城に来てからいつも隣にあった、行く手を照らしてくれた光と同じもの。
 だから、この光はきっと道を照らしてくれる。この光があれば、迷わず行ける。
 ――だから、この剣は畏れるものでもなんでもない。
 少年の手が柄を握る。子どもの手には余るくらい立派な柄を両手で持ち上げると、柄に付けられた鎖が、シャラン、と音を立てた。
 剣を手にイコは振り返り、その先にあるものを見据える。
 少年の瞳が捉えているのは、むき出しの岩壁が続く洞窟内ではない。静かに行く手を遮る角の生えた子どもの石像でもなかった。
 その目が映すのは、いつだって真白い光だ。
 イコは洞窟から昇降機の前まで戻ると、かつて神官がしていたように剣を石像の前に掲げた。
 刀身を覆う光がいっそう強く輝きを増し、凝縮された光が掲げた剣の前に白い光球となって現われた。一瞬の後、目も眩むほどの青白い稲光が石像に向かって放たれる。そして、光を受けた石像は重々しい地響きを立てて左右に動き出した。
 それは何度も目にしてきた光景。温もりをなくしてからもう二度と――もう一度あの温もりを取り戻すまでありえないと思っていた光景が、今、正に目の前で再現されている。
 光が収まる頃にはすでに道を塞ぐものはなく、昇降機の入り口が露わになっていた。
「――っ」
 ごくり、と喉が鳴る。
 ――近い。
 きっと、今、とても近い。そう、確信じみた予感に身体を震わせ、イコは居ても立っても居られないというように昇降機へと駆け込んだ。思い返す必要もなく、すぐ目に付く場所にあったレバーを動かし、昇降機を上昇させる。
 ――きっとこの先に――!
 上へ着くまでの時間がもどかしい。天井を見上げ、早く、速く、とそればかりを繰り返し念じる。
 剣を握る手は、いつの間にか汗でじっとりと濡れていた。それに気付いたイコは、服の端で手を拭い、剣の柄をしっかりと握り直した。
 やがて、昇降機の振動が止まった。上――あの、壁一面にカプセルが並ぶ部屋に着いたのだ。
 しかし昇降機は止まったというのに出入り口は塞がれたままだった。それはつまり、着いた先に出入り口を塞ぐ何か――あの石像があるということ。
 そうだとしても、今の少年の手には道を開くすべが、少女と同じ光がある。
 イコは塞がれた出入り口の前に立ち、
「……もうすぐ、いくから」
 ――だから待っていて。そして一緒に帰ろう。一緒に行こう。
 それはまるで祈りのように。
 それはまるで願いのように。
「――ヨルダ」
 囁く声で呟いたのは少女の名。



 掲げた剣から、暗闇を裂く光が迸った。




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