42.昇降機
足を止めたイコがじっと見据える先に、巨大な柱――と言うより、塔の中に建てられたもうひとつの塔――が聳えていた。否、イコはそれがただの柱ではないことを知っている。
塔内部の中央に聳え立つのは昇降機の通路だ。そしてこの天高く続く通路は祭壇の部屋に通じている。
イコにとって終わりの地であり、また始まりの地でもある、壁一面にたくさんのカプセルが並べられた、その場所へと通じる道。
イコは天を衝く柱を見上げた。しかし見上げた視線が幾許も行かぬ内に、天に向かって聳える柱は暗闇に飲まれてまったく見えなくなってしまう。どれだけ目を凝らしても行き着く先を窺い知ることはできない。それでも、その先の至る場所に思いを馳せ、イコは微かに目を細める。
だが、見えない、先がわからない、と言うことは同時に不安も呼び起こす。
――確かに通ってきた道だけれど、この道は本当に祭壇の部屋に通じているのだろうか。
そんな不安が首をもたげてきて、イコはすぐにその不安を振り払った。
通じているに決まっているのだ。天へと向けられた通路は祭壇に至るための通路。生贄を運ぶための通路。イコにとっては、イコという少年のすべてが終わる終着地点への最後の道。
だからきっと、それは本当は不安ではなく僅かな願望だった。イコが見上げる場所からでは通じている先が見えないのを良いことに、昇降機の行き着く先が終わる場所でなければ良いのに、と。
ほんの一瞬でも、そう思ってしまった。
そんな不安も想いもすべて振り払うように、イコは強く頭を振った。
祭壇の部屋を思い浮かべていると連鎖してヨルダと初めて出会った時のことが鮮明に思い出され――イコは唐突に閃いた。
ヨルダはきっと女王に連れ戻されてしまったのだろう。だとしたら、再びあの大きな檻に閉じ込められてしまっているのではないだろうか。
最初にヨルダが閉じ込められていた檻はイコが壊してしまったけれど、直したか、新たな檻が用意されたということも充分考えられる。
そう考えると余計に居ても立ってもいられなくなり、すぐにでも飛び降りて昇降機で昇らなくてはと逸る気持ちを必死に抑える。今イコが立っているパイプの上が簡単に飛び降りられる高さではないことは、ほんの少し視線を下に向けるだけで明らかなことだったからだ。
洞窟を抜けて出てきた先は、塔の内部のかなり高い位置にあった。高いといっても、それはあくまでイコにとっては、の高さだ。地面は見下ろすことができるが、天井の果ては窺い知れない。そのことを鑑みれば、塔からしてみればパイプが通る洞窟は、塔のかなり低い位置にあるのだろう。
二本の大きなパイプが連なって延びる足場は、洞窟を抜けた後は塔の真ん中にそそり立つ柱に向かって中空を真っ直ぐ進んでいた。しかし中央の柱へ至る道程の途中で、パイプの道は柱を避けるように延びる方向を上へと転じ、道ではなく壁としてイコの前に立ち塞がっている。行き止まりであることを強調しているのか、足場が壁と転じる直前、二本のパイプを連ねて固定している接続部分――それだけでもイコが楽に横になれるくらいの大きさがある――の上には、おざなりな柵が立てられていた。
パイプから下を覗き込んで見るが、思わず血の気が引くような高さに居ることを痛感するだけだ。パイプの足場には、その高さを下りる梯子も、伝って行けそうな細いパイプもない。ただ、柵が立てられた接続部分の脇、向かって左手側の端から鎖が吊るされていた。しかし、その鎖も地面まで下りるには長さがまったく足りず、何もない空間に静かに佇むばかりだった。
中央の柱は、改めてよく見るとかなり凹凸のある形をしていた。
柱の一番下の部分を土台とすると、その上に建てられている柱は土台よりひと回り小さく見える。もちろん、それでも充分巨大な柱であることに変わりはない。柱はパイプの通路の高さに至る直前になって、再び太さを変えていた。土台を一段目として、そこから伸びる柱が二段目の土台となり、更にひと回り小さくなった柱が天に向かって聳え立つ。離れた場所から見ると、ちょうど段の境目が柱を巡る通路のようになっていた。
塔内部の壁沿いにも何本か足場が伸びており、外周の通路の内の一本は柱の二段目の通路と同じ高さにあった。段の境目の通路からは、柱の外に向かって足場が延びている場所がある。柱から外に向かって延びる通路のほとんどは崩れ落ちて道としての機能を失っていたが、中には途中で崩れることなく、柱を巡る通路と外周の通路を繋ぐ橋の役目を果たしている通路も残っていた。
また、柱が巨大であるため、パイプの壁と柱の陰になってよく見えない場所にも、柱と外周の壁を繋ぐ通路が延びているかもしれない――ひょっとしたら、見えない柱の裏側や、柱の陰になってよく見えない外周の壁には梯子が掛けられていたり、それこそ下まで続く鎖や伝えるパイプが隠されているのかもしれない。
つまり、中央の柱からだったら下まで行くことができるかもしれない、ということだ。
確かめてみるまで推論の域を出ない可能性の話だが、何にしろパイプから直接下に行くことができないことだけは確かだった。
どうすれば下りることができるのか頭を悩ませつつ、イコの視線は柱と足元のパイプの間を何度となく行き交う。やがてふと息を詰めたイコは、聳える柱をじっと見つめだした。
パイプの足場から中央の柱まで、距離的にはそれほどのものではない。思い切り助走をつけて跳ぶことができれば届きそうに見える。問題があるとすれば、イコの眼前に立ち塞がる柵と、足場から壁へと変わったパイプだ。これらの障害物を跳び越えていくことは不可能だし、かといって避けて跳ぼうと向きを転じればそこには虚空しかない。どこか、障害物が無く、柱まで真っ直ぐに向かって跳べるような場所があれば――
「――そうだ! 鎖!」
何で気が付かなかったんだ、そんな思いが口を衝いて出た。
パイプの足場の脇に吊るされた鎖なら、360度周囲が開けている。当然、柱に向かって飛んだところで障害物は何もない。そしてイコはこれまで何度も、鎖を揺らして勢いをつけ遠くに飛び移る、という動作を行っている。見た限りでは地面まで下りるにはまったく足りない鎖の長さも、揺らして勢いをつけるには充分すぎる長さに思えた。
イコは鎖を伝うと、まずは鎖の端ぎりぎりまで下りた。次に、鎖に掴まりながら身体の位置を変え、柱を正面から見据えられるようにする。
鎖に絡めていた足を解き、身体全体を使って少しずつ鎖を揺らしていく。初めのうちは小さく小刻みだった鎖の揺れも、すぐに大きなものへと変わっていった。ガシャン……ガシャン……と長い間隔をあけて鎖は大きな音を鳴り響かせる。
――ガシャンッ。
見る見るうちに柱が近付き。
――ガシャン。
あっという間に遠ざかる。
それを何度か繰り返し、イコは確信する。
――これなら、だいじょうぶ。
最後に一際大きく鎖を揺らすと、イコの身体は中を舞った。だんっ、と大きな音を響かせ、柱を巡る足場に着地する。
振り返れば、未だゆれの余韻を残す鎖があった。つい先刻まで掴まっていた鎖は、踏みしめていたパイプの道は、すでに手の届かない遠い場所となっている。
イコは鎖が一筋の線のように静止するのを待たず、到達したばかりの柱に向き直る。
様子を見るため、イコは柱の周囲を歩き見て回った。残念ながら下りるための階段や梯子などは見つからず、足場から覗き込んで見える下の段の通路まではかなりの距離があるので、飛び降りることは難しそうだ。柱の陰に隠れていた側の通路の一部では、肝心の足場が崩れ落ちて跡形もなくなっていた。とは言っても、柱の周囲を巡る足場の大半は無事で、塔の内壁――外周に沿って延びる通路と柱を繋ぐ道もある。
イコは道が延びるまま、足を外周の通路へと向けた。
広大な塔の内壁に沿っているということは、外周の通路は塔の円周とほぼ等しい距離を持つということだ。足を速めて進んでも容易く一周できない距離がある。
外周の通路にも所々で崩落の跡があったが、崩れている範囲が狭いところは途切れた通路の上を軽く跳び越えて進んだ。
外周の通路を半分も過ぎると、そこには内壁から中央の柱に向かって延びる道があった。壁から突き出た橋のようにも見える通路は、イコの目線よりもやや高い位置にある。塔の内壁沿いに延びる足場と柱とを結ぶ道ではなく、足場に立つイコの頭くらいの位置の壁から突き出ている通路なのだ。そのため、イコからは壁から突き出た通路の上の様子はよく分からない。
壁から延びる通路は柱に届いてはいるものの柱にくっついているため、柱そのものが橋の終着地点――行き止まりの壁になってしまっている。
頭上から延びる橋の両側には柵が設けられており、柵の隙間から何か台車らしきものが見て取れる。何かが置かれている辺りの橋の真下では鎖が揺れていた。
頭上に延びる壁と柱を結ぶ橋に上ることは簡単だった。橋の両側に立ち並ぶ柵は、塔の内壁に近い辺りには立てられていなかったからだ。イコは柵のないところから、橋の上に簡単に上ることができた。
両側に柵を設けた橋の幅は狭く、辛うじてふたり並ぶことができるだろう広さしかない。橋の上にはレールが引かれ、台車が置かれている。台車はレールの一番外端――柱側に置かれていた。レールの間が空いているため、台車の真下に設けられた鉤爪はレールの隙間を通って通路の下に飛び出し、鉤爪の先には鎖が吊るされていた。
鎖を目にしたイコが真っ先に考えたのは、この鎖を使って柱の下の段の足場に飛び移れないかということだったが、ここでも鎖の長さが足りなかった。そもそも、鎖が吊るされている場所は外周の通路からは遠く、外周の通路から鎖に飛びつくことはできそうにない。また、レールの走る橋から直接鎖へと下りることもできない。
鎖をもっと手前に持ってくることはできないだろうかと、イコは鎖を吊るしている台車を引いてみた。
動けばいいのに、くらいの軽い気持ちで――しかし同時にこれまで動きそうにない、けれど動かすことができた櫓や台車を思い出し、きっと動くという確信を持って、
「……あ。うごく?」
イコが力を籠めた一瞬、台車の動く手ごたえを感じた。そのまま更に力を籠めて台車を引くと、レールがほとんど錆付いていなかったためだろう、台車は予想以上に容易く動き出した。台車が動けば当然それに併せて吊るされている鎖も移動する。
台車を塔の内壁近くまで引き寄せると、ようやく鎖が跳びつける位置にまで近付いた。
イコは早速鎖に飛びついたが、飛びついてから気が付き唸り声を零す。
「……遠い……」
先ほどまで、鎖を揺らした勢いで跳べば届きそうな位置にあった柱が、ひどく遠い。考えてみればそれも当然のことで、台車を動かし鎖を塔の内壁に近付けたということは、逆に言えば柱から遠ざけたということでもある。このままでは鎖から柱に向かって跳ぶなどできそうにない。
このままの体勢から中央の柱に跳ぶことを諦め、イコは一度、元の通路に戻ろうかと視線を柱から外周の通路に向けた。
向けた視線の先で、先ほどまで居た通路の下を走る通路に気が付く。
イコが掴まっている鎖が外周の通路に近いのだから、下に見える通路も充分近い。これならそれほど勢いを付けなくとも下の通路に移ることは容易いだろう。
イコはすぐに決断し、鎖を揺らし始めた。鎖の揺れがさほど大きくならないうちに少年の身体が宙を舞う。それでも勢いが付きすぎていたのか、あっという間に迫ってきた壁に叩きつけられたのは、とっさに顔面を庇った両手だ。ばしんっ、と思いがけず大きな音が上がり、すぐに両手をじんとした痺れと燃え出すような熱さが覆った。
イコは両の手の平に息を吹きかけて熱を冷ましながら、ぐるりと周囲を見渡した。
外周を巡る通路の様子は、上の通路と大差ない。壁に向かって右手側に延びる通路は少し進んむとすぐに崩落の跡にぶつかり、行き止まりとなっている。一方、左手側に延びる通路は柱の向こう側まで続いていそうだった。視線を下にずらすと地面はだいぶ近付いていたが、それでも飛び降りるには遠すぎる。
鎖から飛び移った通路のすぐ近くに下に続く梯子が掛かっていたが、梯子を下りた先に左右に延びる道はなく、柱に向かって橋状の通路が延びていたものの、そのほとんどが崩れ落ちてしまっているため、そこはかつて存在していた道の痕跡を残すのみとなっていた。これでは梯子を下りた先は事実上の行き止まりである。
ならば、今進めるのは向かって左に延びる一本の道のみ。イコは唯一の進行方向へ向き直ると、右手を壁について外周の通路を進み始めた。
途中、一部崩落した跡を跳び越えつつ、外周の通路半周分ほど進むと、新たに梯子の掛けられている部分があった。その梯子はどうやら鎖から飛び移ってきた場所にあったものと同じくかつてはすぐ下の足場から架かっていたようだが、梯子もずいぶん朽ちて下の足場に届く前に途中で途切れていた。
梯子から見下ろせる場所に、柱と外周を結ぶ――しかし塔の内壁に辿り着く半ばで崩れ落ちてしまっている――通路がある。その通路は柱の一段目、土台部分から延びていた。もっとも、一段目といっても未だ地面に飛び降りることは躊躇される高さだが、何度も外周の通路を通っている間に、イコは柱の一段目の通路から下に架かっている梯子に気付いていた。梯子を伝って下りるなら何の問題もない、つまり地面まであともう一息なのだ。
そうなれば、後は柱の一段目に辿り着くことができれば良い。塔の内壁に架けられた梯子から通路までの距離も、梯子の途切れてしまった端から柱に向かって思い切り跳べばぎりぎり届きそうだ。
「――せーのっ」
小さな掛け声とともに、梯子を蹴ったイコの身体は放物線を描き、見事に突き出た通路の上に着地した。ここまでくれば後は早い。
イコは梯子を下りると地面に足を着け、ほっと安堵の息を吐く。おもむろに天を見上げれば、あんな高い所から下りてきたのかと、今更ながらに背筋が凍った。
例えば、今から上れといわれたら上れるだろうか。
……できれば上りたくない。
そんなことを考えながら見上げていた視線を降ろしていくと、すぐ隣には柱から内壁までを結ぶ壁が延びていた。壁といっても、思い切り跳べば手が届くくらいの高さだ。壁の上によじ登るとそこは昇降機への入り口と塔の出入り口を繋ぐ通路だった。二つの入り口が地面より高い位置にあった、あるいは地面がいっそう低い位置にあったため、二つの入り口を結ぶ通路は、地面から見れば壁のようになっていたのだ。
通路の上に立ち、ようやくいつかの時と同じ目線で眺めることができた光景は、確かに見覚えのある記憶のままの光景だった。
しかし――
「あ……」
あまりにもイコの記憶の通り、最初の頃と寸分違わぬ光景に、落胆の色を滲ませた吐息が零れる。イコの表情は固く、眉間には深く皺が刻まれていた。
やはり、神官たちは霧のお城を後にする際、すべてを元に戻して行ったのだろう。
開かれていたはずの昇降機への入り口は、角の生えた子どもの石像によって固く閉ざされていた。