41.パイプ

 洞窟を抜けた先は断崖絶壁だった。
 ほんの一時、洞窟を抜けるまで隔絶されていた外の世界が再びイコの前に現われる。それはイコが目覚めた時と変わらず、けれど記憶に刻まれた形とはあまりにも様相を変えていた。
 薄暗く、灰色に彩られた世界の中でイコは立ち竦んでいた。目覚めた時に目にしてわかっていたはずだというのに、どうしても目の前の光景が現実とは思えなかったのだ。
 あんなにも鮮やかだった世界はどこにいってしまったのか、と。
 呆然と立ち竦む少年の身体に冷たい水滴が叩きつけられる。容赦なく降り注ぐ雨は、この灰色の世界で目覚めた時より、よりいっそう激しさを増しているように感じられた。
 ふと、足元に目を向けると、切り立った岩壁に僅かに張り出したふちが崖道となって長く続いていた。出入り口からしばらく左に進んだ後、すぐに下り、一段下がった道が右――岩壁と向かい合う形になれば左側――に向かって延びていた。
 とても道とは呼べないような、けれど、それは確かに道だった。
 道がある。
 そのことに気付いたイコの身体は考えるより先に動いていた。
 ――行かなきゃ。
 その道の先にあるものを取り戻しに。
 その道の先にいるひとに、もう一度逢うために。
 少年が、少年の世界が失くしてしまったものをもう一度手にするために。
 ――手にして、今度こそ、決して離してしまわないように。
 この道が望む先に至る道だと誰かに言われたわけでもなく、もちろん知っているわけでもない。それでもイコは確信していた。だからこそ、迷わず一歩を踏み出し続ける。
 崖道は狭く、僅かでも態勢を崩せば足を踏み外して荒れ狂う海へと落ちてしまいそうだ。加えて一向に勢いの衰えない風雨が無防備に晒されたイコを襲った。濡れた岩壁や崖道はとても滑りやすく、強く吹きつける風と水滴に打ちつけられて思うように目を開けることもできない。
 イコは壁に這うようにして手を付き、細長く続く崖道を慎重に伝って行った。
 今進んでいる道が途切れれば、下のふちに降り、あるいは上のふちに掴まって進んだ。
 道が崩れている所があれば、風雨をものともせずに、遥か下方の海へ開けた空間を跳び越えた。
 そうして、どれくらい進んだ頃だろうか。
 イコの行く手にぼんやりと浮かび上がってくるものがあった。
 空中に横たわるそれは、イコが伝っている崖と隣の島を繋いでいる。
「……橋?」
 思わず見たままの感想が零れるが、イコは口にした言葉に違和感を感じた。橋と呼ぶには、何かがおかしい気がしたのだ。
 おかしいと感じた理由もわからぬまま、イコは崖道を進んだ。それは当然、橋のようなものに近付くことにもなる。近付くにつれて、崖と島を繋ぐものの姿がはっきりとしてくると、イコは自分が感じた違和感が何だったのかを知った。
 それは橋ではなかったのだ。
 橋と思しきものは、大人ひとり分の幅はあろうかという巨大な鉄のパイプだった。その巨大なパイプが、二本を並べて接合した状態で崖と島の間を走っている。隙間なく並べられた二本のパイプが、遠目には橋に見えていたのだった。
 崖道はパイプの上に至った所で終わった。これ以上、伝って行けるようなふちは見当たらない。
 そうなれば、次に進む道は決まっている。
 イコはパイプの上に飛び降り、パイプの先にある島を見据えた。島といっても、イコの立つ場所からでは背後にあるものと同じ断崖の岩肌と、そこに穿たれぽっかりと開いた穴しか見えない。パイプは岩肌に開いた洞穴を通って島の内部へと通じているようだ。
 イコが歩を進める度に、パイプとパイプの間に溜まった水がぱしゃりと跳ねる。パイプの上に掴める手掛かりになるものはなく、足元は濡れて滑りやすい。更に丸みを帯びているために歩き辛かったが、幅がある分、先ほどまで伝ってきた崖道より遥かにましな道だ。
 風に煽られ何度か態勢を崩しながらも、イコはパイプの上を駆け抜けた。
 パイプが通るだけの洞穴は、枝分かれする隋道もない一本道で、途中で大きく右に折れている。洞穴に入ると、パイプは下半分が地面に埋められた状態で奥へと続いていた。上半分を覗かせたパイプの道を通って、イコは更に奥へと進んだ。
 道なりに沿って進み、右に曲がり――
「…………あ……」
 パイプの道の終わり、洞穴を抜けた先の光景を前に少年の足が止まった。
 息を呑む少年の目は大きく見開かれていた。
 どくん、と、ひと際大きく感じる鼓動。
 その顔に浮かぶのは、驚愕と――揺り起こされ、沈んでいた胸の奥深くから湧き上がってくる、畏れ。
 知っている場所だ。
 忘れられるはずもない場所だ。
 それなのに、初めて足を踏み入れた時が、ひどく昔のことのように思える。



 ――そこは、すべての始まりの入り口。
 祭壇へ続く昇降機がある、塔の中だった。




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