40.歯車2

 岩壁に沿って延びる道は柵を越えた辺りから勾配がきつくなり、登り道となって続いていく。上へと進む分、道のすぐ傍らを流れる水路の水面が徐々に遠ざかっていった。
 どうやら柵を境目に水深も深くなっているようで、水面を覗き込むとつい先ほどまではっきりと見えていた水底の岩肌がすっかり見えなくなっていた。どれほどの深さがあるのか、まったく窺い知ることはできない。
 洞窟内を奥へ進んでいくと、一度は遠ざかった水の降り注ぐ音が再びイコの耳朶を打ち始める。それも、外の激しい風雨とは比べ物にならないくらいの轟音だ。よほど大量の水が勢い良く流れ落ちているのだろう。奥へと進む歩みとともに耳を打つ大音量は激しさを増し、周囲の空気はじっとりと湿った重みをもってイコに纏わりついた。
 崖道も同然の登り坂は途中で右に折れていた。そのまま道なりに進んで行くと右に曲がった先はすぐに行き止まりとなり、同時に、先ほどまでとは比べ物にならない広大な空間がイコの前に現れた。
 そこは、大地の代わりに水面が煌き、空の代わりに岩肌の天井に覆われた大空洞だった。
 真っ先に目に付いたのは、上空から注ぐ白糸、と呼ぶには荒々しい、かと言って滝と呼ぶには細い、何本もの水の奔流だった。
 白い水の奔流を辿って視線を上げていくが、岩壁も天井も判然としないほどに遠い。それほど広大な空間を埋めるのは、巨大な仕掛けの数々だった。
 水の降り注ぐ――奔流が叩きつけられる轟音に紛れ気付かなかったが、今やイコの耳は、水車が、そして巨大な歯車たちが動く規則的な音を捉えていた。
 ――そうか、ここは……。
 色褪せるには早すぎる、いまだ鮮烈な記憶が揺さぶられ、イコはこの辿り着いた場所がどこなのかを思い出した。思い出せる、イコの知っている場所だったのだ。
 思い出した記憶に連鎖して、いくつもの光景が少年の脳裏に浮かび上がる。
 初めて目にした、部屋の中を流れ落ちていく滝。
 その後、辿り着いた水路が横切る中庭。いまだに思い返しても赤面してしまう、一度水路に落ちて流されてしまったことだとか、水門を閉じ、水路の水を堰き止めたこと。
 そして再び滝の流れていた部屋に戻ると、水の流れを止められたことで滝は消え、滝の裏側に隠されていた新たな道を見つけたこと。
 その道が通じていた場所こそ、今、少年の眼前に広がる広大な洞窟内だった。ここは霧のお城を巡る水路の流れ着く先であり、勢い良く流れ落ちる水流によって水車が、歯車が回り続ける、霧のお城の動力源ともいえる空間であった。
 激しい勢いで流れ落ちる幾筋もの水流は、あるものは水車を回し、あるものは水面へと注がれていた。中には、水面から顔を覗かせる岩へ図ったように流れ落ちる水流もあった。固い岩肌を削る勢いで水が叩きつけられ、飛び散った水しぶきが周囲を白く覆っていく。
 かつて、この洞窟内に辿り着いた時はこの光景を見下ろしていた。下から見上げるとずっと遠くに霞んで見えるが、知っているからこそ、遥か上空に見えるのは木で造られた通路だと分かる。逆に、朧に霞んでいた水車や歯車は以前見た時より、よほどはっきりとその姿を見ることができた。
 周囲をまんべんなく見回していたイコだったが、手の平にちくりと刺す痛みを感じて視線を落とした。そこにあったのは、イコ自身、気が付かない内に爪が食い込むほど固く握り締められていた小さな子どもの手。
 ――それは、いつも優しい温もりを掴んできた左手。
 思い出される記憶の連鎖は、やがて温もりをも想い起こさせ、温もりは空っぽの手を――叫び出したいほどの心細さと焦燥を否応なく突きつけてくる。
 イコは湧き上がる弱さを振り払うように一度大きく頭を振ると、しっかりと目の前の光景を見据えた。
 兎に角も、まずは進むための道を見つけなければ、その一心で上げられた視線はそのまま頭上へと移っていく。少なくとも、そこには確実に道と呼べるものがあるのだが、
「……うー……」
 どうしても突きつけられる現実に、思わず不機嫌な唸りが上がる。
 霞んで見える通路はあまりに遠く、以前に通った道は使えないことを思い知らされるばかりだった。先へ進むには新たな道を見つけなければいけない。
 イコが立っているのは、洞窟の出入り口から延びていた道の終着地点だ。通路と水路を背の高い塀と水門が塞いでいる。水車や歯車の仕掛けがあるのは、塀や水門の向こう側になる。何にせよ、まずは水門なり塀なりを越えなければこれ以上先には進めない。
 塀を登るのは難しいだろう。塀の高さはイコが跳び越えられるようなものではなく、頭上は開けているが、イコにとっては壁が聳えているも同然だった。それならば、塀を越えるより、水門を開いて水路から泳いで進む方が良さそうに思える。
 水門を開く仕掛けがないかと周囲を見遣るイコの目に飛び込んできたものが二つあった。ひとつは霧のお城を通って来る中、今やすっかり見慣れた木箱だ。行き止まりとなった通路の奥の角、塀の傍に寄せて、取っ手の付いた木箱が置かれていたのだ。ただし、木箱の置かれた塀の一角は、地面が途中で鉄床になり、岩肌と鉄床の境目に僅かなりとも段差ができていた。そのため木箱を動かしても境目で引っ掛かってしまう。これでは木箱を奥の一角から外へは動かせない。
 イコが次に考えたのは、木箱を足場にして塀を越えられないかということだった。しかし、木箱ひとつ分程度の高さでは、木箱を足場にしても高い塀は越えるどころか、塀の縁に触れることさえできなかった。
 目に付いたもうひとつは、床に設けられたレバーだった。レバーの設置されている場所も水門に近く、これが水門を動かす仕掛けに違いない、と確信してイコはレバーに駆け寄り、勢い込んで突き出た棒を掴むと、思い切り動かした。
 しかし傍らの水門は沈黙したままで、代わりにジャラジャラと鎖の鳴る音が遠くに聞こえた。塀の隙間から音の聞こえた方、水門の奥へ視線を向けると、高い位置にある足場から鎖が下ろされていく所だった。しかし鎖は水面に届く前に止まってしまい、近くを流れ落ちる水流の水しぶきが鎖を濡らしていった。
「…………あれ?」
 いくら待ってみても、諦め悪くレバーを動かしてみても、水門はまったく動く気配がない。
 ――えっと、これが水門のしかけじゃないとすると……。
 イコは困惑の表情を浮かべながら、ぐるりと辺りを見渡す。何度か首をめぐらせている内に、薄暗くて見落としがちだったが、水路を挟んだ対岸にもレバーがあることに気がついた。更に良く見れば、両岸とも水路へ降りる梯子が掛けられている。梯子を登れば楽に上へ登れそうだった。
 早速、対岸へ行くため、水路に飛び込みこもうとしたイコは、ふと思いついて木箱を振り返った。
 今度こそレバーが水門を開く仕掛けだったとして、しばらくは深さの分からない――少なくとも足が水底に着くことないだろう深さの――水の中を泳いで行かないといけない。木箱がその重さに関らず水に浮くことは知っていたので、木箱を水路に落とせば浮き輪代わりになるのではないかと考えたのだ。
「――よし」
 少なくとも地上に木箱を必要とする仕掛けは見当たらなかったので、イコは取っ手を引いて木箱を水路へと動かし始めた。幸い道の水路側には木箱が引っ掛かるような障害はなかったので、簡単に木箱を水路へと落とすことができた。
 木箱は、バシャンッ、と大きな水音と水しぶきを上げると、一瞬だけ水に沈んだ後すぐに浮き上がってきた。木箱は緩やかな流れに流されることなく、落とされた付近で静かにたゆたっている。
 木箱が無事に着水したことを確認したイコは、追うように水面へとその身を躍らせた。木箱を落とした時以上に大きな音としぶきが上がる。水は想像以上に深く、水中に潜ったイコにも水底は見えなかった。そのまま浮かび上がるに任せて水面から顔を覗かせ、木箱の元へと水を掻き分けて泳いでいった。取っ手を掴み、いっそうの力を籠めて水を掻きながら同時に水中を蹴り上げると、思っていたより容易く木箱が動く。イコはそのまま木箱を引っ張りながら、対岸に見えた梯子に向かって泳いだ。
 梯子の真下まで泳ぎ着き、ひと休みとばかりに木箱に上半身だけ乗り上げた格好でひと息吐く。少年の身体とは言え、バランス悪くひとり分の重さが掛かっても沈む気配のない木箱に安堵しつつ、イコはすぐ間近の梯子を見上げた。
 その眉間にしわが刻まれる。
 これまでもお城で何度も見かけていたことだが、ここも老朽化していたのだろう、梯子は水面に届く前に不意に途切れていた。水面からでは、たとえどれだけ手を伸ばしても梯子の先に触れることすらできない。せめて、水面と同じ高さの地面に立って、跳ぶことができたなら――そこまで考えて、イコはすぐ手元の固い感触に目を向けた。そこにあるのは、偏った体重の掛け方をしているにも関らず、沈むどころか引っくり返る様子さえない木箱だ。
 イコは更に身を乗り上げ、木箱の上によじ登った。危なげなく、水面から出た一面に登り、立つことができる。もっとも、浮かんでいるだけあって足元の多少の不安定さは否定できないが、足場としては申し分ない。
 ――これなら、だいじょうぶ。
 なんどか軽く跳んでみて――濡れた部分に足を取られて水に落ちる一幕もあったが――踏みしめた足元の確かさを認めた後、イコは木箱を足場に梯子へと跳んだ。勢い余って壁に激突しかけたが、両手はしっかりと梯子を握り少年の身体を支えた。イコは水で滑ることに気をつけ、梯子を登って無事に壁の上へと辿り着く。
 ようやく、もうひとつのレバーの前に立ち、躊躇うことなくレバーを動かした。すると、重々しい音を立てて、今度はイコの期待通りに水門が上がっていった。水門が開放され、一瞬、水路の流れが増したようにも見えたが、すぐに緩やかな流れを取り戻す。木箱もほとんど流されることなく、梯子の傍で揺れていた。
 文字通り、ひとつ目の関門を突破したイコは再び水中へと身を躍らせると、浮き輪代わり、そして急場の足場代わりの木箱を引っ張りながら水門の奥へと泳ぎ出した。
 先へ――霧の城の奥へ向かうことだけは決まっていたが、具体的にどこを通っていけば良いか、目先の目標としてどこを目指せば良いかは、まったくわからない。そんな中、イコが真っ先に向かったのは、ひとつ目のレバーを動かして出てきた鎖の下だった。
 仕掛けとして出てきたからには、この鎖――あるいは鎖の先にはきっと何か意味があるはず、それは霧のお城を通ってきた経験から導き出された標だった。
 鎖の垂れ下がっている付近は、奔流となって降り注ぐ水流が水面を激しく波立たせ、ひどく泳ぎにくい。イコは木箱を連れたまま、苦労しながらも鎖の真下まで泳ぎ着くと、木箱に掴まってひと休みしつつ頭上を見上げた。鎖の先は、遠目に目測し予想していた以上に高い位置にある。しかし、高いといっても先ほどの梯子と大差ない距離だ。水面が波立つ分、木箱も揺れていたが、木箱の上によじ登ったイコは不安定な足場をものともせず鎖に向かって跳び上がった。そして、水流が上げる水しぶきにしとどに濡れた鎖を掴む。手を滑らせることに注意しながら、イコは順調に鎖を登って行った。
 無事に鎖を登り切った先は、巨大な水車や歯車の設けられた柱に挟まれた、板張りの足場になっていた。足場に登って右手側では、心棒が突き出た巨大な水車が回っている。心棒の先には、水車に比べれば遥かに小さい歯車が付いており、小さな歯車は水車の回転に合わせて回っている。半面、左手側には巨大な歯車があったが、こちらは動く気配もなく沈黙している。沈黙したままの巨大な歯車からも、小さな歯車をつけた心棒が中途半端に飛び出していた。
 しかし、左右の巨大な仕掛けよりも真っ先に目に付いたものがあった。
 板張りの床に設けられたレールと、変わった形の台車だ。
 レールは、登ってきたばかりのイコから見れば足場を縦断するように、中央に設けられている。レールの上にある台車は、小さな櫓のようにも見え、てっぺんには小さな――と言っても、それは左右の巨大な仕掛けと比例してのことだが――歯車を付けた棒が横に差し込まれている。
 ――どうしよう……。
 目の前の見慣れぬ仕掛けに、イコは熟考するように沈黙していた。しかし、このまま何もしなければこれ以上の身動きが取れないことだけは確かだ。
 ――とりあえず、うごかしてみようかなぁ……。
 何かしらの根拠も確信もなかったけれど、とにかく目に付いた仕掛けは片っ端から動かしてみよう、とイコは歯車を付けた台車に手を掛けた。歯車を付けた櫓の台車は、視覚的にも相当な重量を訴えてくる。その視覚で感じた通り、台車を押す手ごたえは重く、浅い踏み込みでは濡れた足を滑らせるだけの羽目になりそうだ。もっとも、不幸中の幸いか、これだけ水気の覆い場所にあってレールと車輪にはひどい錆はなかったらしい。一度動いてしまえば、台車は途中で引っ掛かることなくレールの一番奥まで押し運ぶことができた。
 台車をレールの一番奥まで押していくと、ガチリ、と何かが填まる固い音が聞こえた――かと思った瞬間、巨大な歯車のたてる音が増える。
 反射的にイコが顔を向けた左側、そこでは先ほどまで沈黙していた歯車が、重々しい音とともにゆっくりと回転を始めていた。
 突然回りだした歯車から視線を戻す途中で、イコはその理由に行き着く。
 台車に差し込まれた棒と、棒の先に取り付けられた歯車が左右の小さな歯車を繋いでいた。最初に聞こえた、ガチリ、と何かが填まる音は、台車の歯車が双方の心棒と噛み合った音だったのだ。右手側の水車が回ることで心棒の先にある歯車を回し、その回転は今や一本となった心棒によって足場を挟んだ左隣の歯車に伝わる。そして、その回転が次々と新たな回転を呼び起こす。
 しばらく、呆然とした面持ちで巨大な仕掛けを間近に見つめていたイコだったが、はっと我に返ると、その顔には一転して困惑の表情が浮かんだ。
 動いていなかった歯車を回転させたのは良いが、これからどうすれば城の奥へと進めるかが分からない。
 ――……でも、ここ、来たばっかりだし。まだ見てないところがたくさんあるし。
 イコはそうひとりごちて、足場から遠い水面に目を向けた。
 空洞内すべてをあまねく照らすには心許ない灯りと、絶えることない水しぶきのせいで朧に見える水面は、一見するとどこまでも果てしないように思えてしまう。
 しかし、果てを――自分が辿り着く先を、少年は知っているから。
 こぼれそうになるため息を、ぐっと飲み込んだ。



 空洞内はすべてが水面に覆われているわけではなかった。水につかっていない、岩肌の地面もあり、歯車の仕掛けなどの建造物は、地面の上に造られているものもある。
 泳いで行ける範囲には、岩肌の地面以外に進める場所はなかった。
 次に地面に上ったイコは、歩き回るうちに、円の縁にいくつも横棒を付けた巨大な歯車に気が付いた。見上げるとその棒付き歯車を動かしているのは、先ほど回り始めたばかりの、台車左隣の歯車のようだ。
 横棒付きの歯車はすぐ隣の崖の上から延びる鉄の梁が支えている。鉄の梁は幅も広く、むしろ鉄橋と呼んだ方が相応しいだろう。しかし、そこへ至るための梯子も階段も見当たらない。
 イコは音を立ててゆっくりと回る歯車を改めて見上げた。傍らの歯車に付けられた横棒は当然ながら歯車とともに円を描きながら上り、梁の上を通過して再び下へと巡って来る。
 横棒に掴まって一緒に上まで上がって行けば、少なくとも梁の上の様子を窺うことができるはずだ。
「……よし」
 イコは小さく気合を入れると、横棒が最も下に来る場所、歯車の真下に立った。順々に頭上を通過していく横棒をじっと見つめ、タイミングを計り始めた。やがて、イコの頭上に近付いた横棒のひとつに跳び上がって掴まると、そのまま歯車が回るのに任せて上へと運ばれていく。
 無事に横棒を掴めたことに安堵している間にも、イコの視点はどんどん上がっていった。高くなっていく視界がやがて梁を越え、横棒が歯車の頂点に差し掛かった時、イコは咄嗟に手を離した。ガタン、と音を立てて鉄板の上に降り立つ。
 そこは最初の印象通り、一見すると鉄橋のようだった。鉄で造られた道を進むと、すぐに岩壁に直面することになる。岩壁にはパイプが取り付けられ、イコから向かって右へと延びていた。
 パイプを辿って視線を動かすと、パイプの先にも別の足場や太い柱が見える。
 ――とにかく、行けるところまで行く。
 そう、腹を括って、イコは岩壁に付けられたパイプへと手を伸ばした。
 これまで何度も渡ってきた要領でパイプを横に伝っていく。途中でパイプが途切れていたが、そのすぐ下に更に右奥へと続くパイプがあったので、下のパイプへと飛び移ると更に奥へと進んで行った。
 ようやくもうひとつの足場に辿り着くとイコは、ふ、と息を吐いてから次なる関門に目を向けた。
 ちょうど、跳び越えられるかどうかぎりぎりの距離の先に、塔のようにも巨大な柱のようにも見える建造物がある。その柱に付けられた足場と、イコが立つ足場を、少年ひとり分の幅がある太いパイプが繋いでいる。
 イコは柱に向かって踏み出した。無理にこの距離を跳ぼうとするより、横にしたパイプでも、これだけの幅があれば壁から張り出した縁を渡るよりずっと容易く渡れるだろうと思ってのことだったが、イコの予想に反して踏み出した先の地面が動いた。それは太いパイプが、片側に力が掛かり回ってしまったためだった。ぐらり、と自身の意思に反して身体が傾ぐ。
「うご――っ!?」
 突然のことに奇妙な絶叫を上げながら、イコは反射的に前に向かって跳んでいた。一歩踏み出して距離を縮めていた分、飛距離的には問題なく柱側の足場へと着地できる。しかし、思い切り跳んだ勢いは殺せず、たたらを踏んで柱にぶつかった。打ち付けてしまった額をさすってから、いまだに早鐘を打つ胸に手を当てる。
 太いパイプ――渡ろうとしていた道がまさか動くとは思いもよらず、ただひたすら前へ進もうとする意思がなかったら、あのまま落ちていただろう。
「……うわぁ」
 岩肌の地面を見下ろし、さすがにこの距離は落ちたくない、と思う。
 数度深呼吸して気持ちを落ち着かせると、イコは柱に向き直った。
 柱を囲むように細いパイプが付けられているのを見たイコは、躊躇うことなく細いパイプに掴まった。再びパイプ伝いに柱を半周すると、太いパイプを通すための接続口らしき部分が足場代わりになっていた。その下には金網が床のように広がっている。細いパイプを伝い終わったイコは金網の上に降りてみたが、金網の地面からどこかへ通じていそうな道はない。
 パイプを伝ってきた柱もこれ以上は梯子も何もないし、とイコが柱を見上げたところで、横に伝うパイプが終わった先に今度は縦に伸びる細いパイプが付けられているのを見つけた。横のパイプを伝い終わってすぐの時は、下の金網に注意を引かれ気付かなかったのだ。
 縦――上へと延びるパイプを見上げていくと、遥か頭上に鎖が吊るされていることにも気が付いた。
 そうなれば話は早い。
 イコは早速、縦のパイプをよじ登った。位置的に、パイプを伝うイコの背後に吊るされた鎖の先端を見下ろせる位置まで登る。鎖までの距離もあるが、それ以上に登った場所は高い。もしも飛び移り損ねたら―― 一瞬、脳裏をよぎった光景に頭を振る。それはあくまでも勝手な空想が生み出した幻像なのだから、と、反対に無事に鎖を掴めた自分の姿を思い浮かべた。
 大きく息を吸い――
「――やあっ!」
 掛け声とともにパイプから手を離し、鎖に飛び移る。
 ガシャン、と飛んできた少年の身体を受け止めた鎖が揺れる。イコは振り落とされないように鎖をしっかりと掴むと、揺れが収まるのを待ってから身体の向きを変えた。先ほどまで登っていた柱に付けられたパイプを右手側にして、前方を見据える。そこにも鎖が吊るされていた。更に、前方の鎖の向こうには、巨大な歯車を支える柱から張り出した足場が見えた。
 イコは掴まっている鎖を登って、前方の鎖に飛び移り易い高さまで移動した。鎖に絡めていた足を外し、前後へ大きく身体を揺らす。つられて、鎖が大きく揺れ始めると、前方の鎖に飛び移った。同じ要領で、そこから更に張り出した足場へ飛び移る。
 木造の骨組みで組み上げられた柱に取り付けられた歯車は、ついさっき渡って来たものと同じ、横棒を付けた巨大な歯車だった。イコが立っている足場の上にも通路があるようだが、上がるための梯子も階段も見当たらないので、ひとつ目の時と同じく歯車に付いた横棒に掴まって上に上がる。
 そこは一本に延びる通路になっていた。通路の先にあるのは、横に回るこれまた見たこともないくらい巨大な歯車だ。寝かされた巨大な二つの歯車が噛み合い、回転している。横に回る二つの歯車の先には縦に回る歯車があり、更にその先にこの空洞の奥へと続く通路があった。
 ――あそこまで行けば。
 それを見た瞬間、どくん、と胸が高鳴った。
 温もりをなくし、寂しいと訴える手を固く握り締める。
「――よし!」
 気合の声を上げ、回り続ける歯車と向き合う。
 これだけ巨大なものになれば、横に寝かされた状態の歯車は回転する床と表現しても支障がない。とがった歯の部分に気を付けて、イコは通路から歯車へと跳び移った。
 狙いを過たず歯のない部分にしがみ付くことはできたが、歯車は相も変わらず止まることなく回り続け、しがみ付いた身体は回転に合わせて横へ横へと流されていく。イコは勝手に回り続ける景色に眩暈を覚えそうになるのを堪えつつ、何とか歯車の上によじ登った。
 当然のことだったが、歯車の上に立ち上がった後も周囲の景色は流れ続けている。あまり長いこと回されていると目を回してしまいそうだ。
 イコは地面が回り続けることで方向を上手く掴めないながらも、歯車が噛み合う地点から二つ目の歯車に移り、更に縦に回転する歯車を渡っていった。縦に回転する歯車は歯の部分の幅が広いため、でこぼこした太いパイプの上を渡るようなものだった。もちろん、この歯車も動いている分、回転に合わせて動き続けなければすぐにバランスを崩してしまう。けれど、木造の通路へはそれほど距離があるわけでもない。数歩でも踏み出せていれば余裕を持って飛び移ることができる。渡る途中、完全にバランスを崩して落ちてしまう前にイコは通路へと跳んだ。
 無事に通路へと着地したイコは、動かない足元にほっと胸を撫で下ろした。ほんの僅かの間とはいえ、動き続ける地面を、時には地面の動きと逆送して渡るという行動はよほど堪えたのか、まだ少し足元がふらつく気がした。
 まさかここまで辿り着いておきながら、足を踏み外して落ちるわけには行かない。イコはふらつく足元が落ち着くのを待つ間、前を延びる道に目をやっていた。
 縦に回転する歯車を渡り終えた後、通路は左右に延びていた。もっとも右手側にはすぐ傍らに回転する巨大な歯車がある。左側の道は数歩も進まないうちに再び右に折れ、岩壁沿いに奥へと続いている。
 そこまで確認した頃には、足元はだいぶ落ち着いていた。
 ふたつに分かれた道は、行き止まりと奥へと続く道。イコは迷わず通路を奥へと進んで行った。
 しばらく進むと木造の通路が終わり、道はむき出しの岩肌へと変わっていく。岩を刳り貫いただけのような隧道は、水車と歯車の空洞内へと通じていた洞窟の入り口とよく似ていた。違うのは、地面を削り流れる水路がないことくらいか。
 円く切り取られた出口を目指し進んで行くと、背後から響く水音と歯車の音が徐々に小さくなり、代わって、行く手から聞こえてきたのは激しい雷雨の音だった。




ICO room