38.門
「……うわぁ……」
その光景を前にしてイコの口から零れたのは溜息にも似た感嘆の呟きだった。霧のお城ではこれまで何度も驚くばかりの光景や仕掛けに出遭ってきたこともあり大抵のことには馴れたつもりだったが、目の前の存在はそんな些細な馴れなど簡単に吹き飛ばしてしまった。
少年の視線の先に厳然と聳えているのは、ほんのつい数刻前には見下ろしていた霧のお城の巨大な正門だ。崖上の回廊で目にした通り、正門の広大な一面が陽の光を凝縮したような黄金色に彩られ燦然と輝いている。その一度は遠目に見ていたはずの光り輝く正門はいざ目の前にすると視界いっぱいに広がり、門と言うよりむしろ光の壁と言った方が相応しい様相である。
「……あれ?」
しばらく呆けた様子で聳える正門を見上げていたイコは、正門の輝きも間近で見るとずいぶん変わった輝き方をしていることに気が付いた。
立ち並ぶ燭台に灯る炎より眩い輝きを放つ正門の光は何の熱も感じられず、空気を揺らめかせることもなく、ただ無音のまま輝き続けている。
イコが遠くから眺めた時は正門の一面全体が光っているのかと思っていたが、近付いてよく見れば無数の小さな光の球が一面の中に散っていた。更に目を凝らして光の動きを追うと光の球は常に一定の方向へと流れ動いていた。光の経路はまるでそこに複雑な迷路でも配置されているかのように何度も折れ曲がり、正門の中を縦横無尽に走っている。もっともその経路も正門の一面を隙間なく埋め尽くすには至らないようで、光の通る道筋から外れた部分は当然輝きを放つことなく、そのため門には微妙な明暗が生まれていた。
絶え間なく流れ続ける光はまるで身体を巡る生命の流れにも似て――そう思った瞬間、ごくり、とイコの喉が鳴った。
生命が巡り、閉ざされていたものが開かれるということは。
――お城が、目を覚ます……?
ふと脳裏を過ぎった考えに、なぜだか無性に身体が震えた。
輝く正門を前に、もう少しだ――そう確信する思いと共に、どうしようもなく不安が首をもたげてくる。この門が開けば、本当にきっとあと一息で帰る事ができるはずなのに、耳元でずっと警鐘が鳴らされているような漠然とした違和感。
本当に、それでよいのか、と。
それが何なのかイコにはわからず、立ち止まり続けることも――ましてや戻ることなどできなかった。前へ進むことしかできないからこそ、イコは顔を上げ、前を見据え、そして一歩踏み出した。
纏わり続ける恐れも――畏れすらも振り払い。
よいのか、と。
鳴り続ける警鐘は止まないまま。
正門の間近まで近付くとヨルダが確固たる足取りでイコの前に出た。ほんの一瞬だけ垣間見えた決意の色を滲ませた双眸に、イコの唇が無意識に動き――しかし掛ける言葉も見つからず口惜し気に固く引き結ばれた。
ヨルダは祈りを捧げるように手を胸の前で組むと、そっと瞳を伏せ――
刹那、目の前が――否、世界が真白に染まった。
「……ヨ」
――ルダ!?
続けられるはずだった言葉は、喉を出て、しかし音になる前に掻き消された。ヨルダから放たれる青白い稲妻がすぐ傍らに居たイコを容赦なく弾き飛ばしたのだ。まったくの予想外の出来事に、無防備だった少年の身体は簡単に宙を舞い石畳の上に投げ出された。ほとんどが雑草に覆われた石畳といっても、そこにろくな受身も取れず身体を打ちつける羽目になればかなり痛い。
眩んでいた視界が徐々に鮮明になっていくのを感じながら身を起こしたイコは、その目に飛び込んできた光景に目を瞠り息を呑んだ。
これまで何度も目にしてきたヨルダから放たれる閃光――目の前で眩く輝くその光は常に無く強く大きな輝きとなって華奢な身体から迸っている。それでも巨大な正門を前にしては門へ向かって放たれているというより、光が門へ吸い込まれているように見えてしまう。あるいはヨルダから放たれた光にも関わらず、門が――城がヨルダを逃すまいと伸ばした光の鎖が少女を捕らえているようにも。
そして、激しく輝く白光の向こうに新たな光が現れた。それは巨大な門を二つに割る光だ。辺りに重々しい音が轟渡り大地が震動する中、巨大な門がゆっくりと開いていく。一度は正門によって閉ざされ隔てられてしまった世界が、再びその姿を露わにする。
その間もヨルダから光は止まることなく溢れ続ける。
――それはすでに意識して放たれた光ではなかったのかもしれない。
ヨルダはただ、すべてを吸い出そうとする光の奔流に耐えていた。限界が近いのか苦しそうに身体が揺れて傾ぎ――それでも倒れず立ち続ける。
そして。
不意に。
唐突に。
溢れ出していた光の奔流が止まった。
同時に、少女の身体が力を失い糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「――ヨルダ!」
ようやく絞り出せた呼び掛けは叫びとなって迸り、イコは弾かれたようにヨルダの元へと駆けた。
「――だいじょうぶ?」
ヨルダの傍らへと膝をついたイコは少女の姿に言葉を失った。
光を受けて輝く銀糸も、限りなく白に近くともその内に秘めた温もりを表した肌色も消え失せ、そこにあったのは色と言う色がすべて奪われた後に残された真白だった。
――どう、して。
風に吹かれ、空気に溶けて、そのまま消えてしまいそうな白を、イコは縋りつくようにして手に取った。
手に伝わる温もりだけは変わらず、そこに少女が居るのだと、幻ではないのだと確かに教えてくれる。
――どうして。
何の力も持たないイコは、力無く倒れたヨルダに手を差し伸べることしかできない。無力な己に涙が零れそうになり、目頭が熱くなるのを必死に堪えた。
その間も、轟音と震動は止むことなく門に遮られていた視界は広がり続けている。
それだけではなかった。
城から、そしてずっと向こうに見える対岸から一本の長い道が延びてきたのだ。両岸から延びていく石の道はやがて出会い、城と世界の間に横たわる海を渡る一本の長い石の橋が架けられた。
そうして、世界が繋がった。
今や正門も完全に開き切り、開放された視界の先には世界へ帰る細長い道が延びている。
呆然とすることばかりだった。
あれほど望んでいた世界が、帰りたいと想い続けていた場所が、本当に手の届く所に現れたのだ。きっとあともう少し――これまで辿ってきた道のりを思えば、残された最後の距離などあっという間に駆け抜けてしまえるだろう。
しかしイコは躊躇い、動くことができなかった。せめて少しでもヨルダを休ませたくて、休ませるのに丁度よい場所はないか視線を彷徨わせる。ヨルダを抱えていくことができればよかったが、イコの――小さな子どもの身体では身長に差がありすぎて背負うことも難しい。
彷徨っていたイコの視線が、正門の壁の片隅にひっそりと置かれたソファに留まった時、ゆっくりと身を起こしたヨルダの唇が震えた。
「UMOTYSX」
それはとても小さく消え入りそうな声だったが、吹きつける潮風に消されることなくはっきりとイコの耳に届いた。
はっとしてイコがヨルダに目を向けると、ヨルダは真っ直ぐイコを見つめ返した。ヨルダの言葉がわからないイコには、
囁かれた言葉が何を意味するのか知り得るはずもない。しかし、今にも崩れ落ちてしまいそうなのに、迷いのない強い眼差しが何より雄弁に語りかけていた。
――行きましょう、と。
力を使い果たした、そう見えるのに、ヨルダはこれまで見てきた中で一番の強さを感じさせる――そんな瞳で少年を促す。
そこにあるのはイコに向けられたどこまでも真摯な想いだ。
だからこそ、なのだろうか。
「……ヨルダ?」
――少年の胸に、不安ばかりが膨らんでいった。
ヨルダの手を引いたイコは、少しずつ、ゆっくりと石の道を渡っていった。本当は立つだけでもやっとだろうにヨルダは自ら止まろうとしないから、背負えなくともせめて杖代わりでもいいからヨルダを支えたくて、イコはヨルダの歩調に合わせてゆっくりと歩を進める。
この道を渡り切り、渡り切った先に広がる世界の大地に足をつけるまでここはきっと城の中にしか過ぎない。そう考えると自然と歩調が上がりかけるが、逸る気持ちを抑えて一歩一歩ゆっくりと歩いていった。
終わりはすぐそこなのに終わりが見えない、そんな道程を半ばほど過ぎた時、ふたりを異変が襲った。
突然、手にしていた温もりが後ろに引かれて奪われたのだ。
「――!」
驚き、慌てて振り向いたイコの目に映ったのは、城から放たれた光の鎖に捕らわれたヨルダの姿だった。
「――な!?」
――放しはしない、と。
光は――霧のお城は抗ってきたふたりを嘲笑うかのように、容易くふたりを引き離す。
ヨルダを捕らえた光はすぐに消え失せ、少女の華奢な肢体が力なくその場に倒れ伏した。ヨルダとイコ、ふたりの間にほんの数歩ほどの距離が生まれる。
しかしイコにヨルダの元へと駆け寄る暇を許さず、間断なく第二の異変が起こった。
それは足元を襲う激しい揺れだった――否、それだけではない。
霧のお城と対岸、両方から延びていた石の端が再び元あった場所へと戻され始めたのだ。
繋がっていたはずの道に切れ目が入り、ふたりの間を断ち切ってしまう。ヨルダが光の鎖に捕らえられた時、奇しくもふたりの位置が境目を挟んでしまっていたのだ。
大地へと戻される石の上にはイコが。
霧のお城へと戻される石の上にはヨルダが。
突然の激しい振動にイコは体勢を崩し、踏み止まることができず端から転げ落ちてしまった。
危うい所で端を掴み海へと落ちることは避けたが、その間にもふたりを分かつ溝は大きくなっていく。
「――ヨルダ!」
揺れ続ける石橋に掴まり身体を持ち上げながらヨルダを呼んだ。ようやく石橋の上に戻った時、予想以上に遠ざかる少女の姿に愕然とした。
ヨルダは動かない。けれど城が取り戻そうと少女を引き寄せる。
ヨルダは動けない。それなのに遠ざかっていく。
「――ヨルダ!」
イコは咄嗟にヨルダを呼び、必死に手を伸ばした。
普段のヨルダだったら飛べたかもしれない距離。少なくとも飛んできたその手を自分は必ず掴み決して離さないことをイコは知っていた。
しかし、今のヨルダは飛ぶどころか突然の揺れに倒れ伏した身体を起こすことさえままならない。そうしている内にもふたりの距離は開き続けている。
イコは迷わず、近付く世界に背を向けると霧のお城へ――力なく両手をつき、今にも倒れ伏しそうな少女に向かって石橋を蹴った。
しかし、その判断は少し遅かったのか、あともう少しで届きそうな所で石橋の端は更に遠ざかり、指先が端を掴む前に飛んだ身体は失速してしまった。
――落ちる――
伸ばした手が端に届かず石橋の断面である壁に叩きつけられた時、温かい手がイコの腕を掴んだ。
ヨルダだった。
精一杯身を乗り出し両手でイコの腕を掴み、それだけでも辛いだろうに、重力に引かれ落ちていこうとするイコを必死に支える。これまでとはまったく逆の光景だった。
キィン、と響き高く澄んだ音は、飛んだ時に取り落としてしまった剣が、どこか固い所にぶつかりながら落ちていく音だ。これまで身を守り、ヨルダを守る力となり、そして文字通り道を切り開いてくれた剣が固い音を響かせながら海へと吸い込まれていく。
イコは何とか橋の上に登ろうと壁のような断面に必死になって爪を立て登ろうとあがくが、ヨルダの腕以外掴まる所がないとなかなか上手く行かない。
それでも引き上げようとするヨルダの助力もあり、石橋の縁まであとわずかで指が届く――そこまで上がってきた時だった。
掴まれた腕からヨルダの緊張が伝わってきた。
どうしたのかとちらりと顔を上げたイコは絶句した。
――灰色に覆われていく、ヨルダのその姿に。
緑色に光る縁が通っていった先から、ヨルダの白が灰色の石に変わっていったのだ。
緑色の縁は暗く沈んだ闇と世界との境界線だった。霧のお城へ戻りつつある石橋は勝手に境界内へと踏み込んでいく。当然石橋の上にいるヨルダも、ヨルダに支えられているイコも、意図せずとも境界内へ取り込まれざるを得ない。
このままではいけない、と、いっそう慌てたイコは眼前の石橋の断面を蹴り上げ、その反動で登ろうとするがやはり上手くいかない。
緑に輝く境界線がヨルダの胸元を過ぎ、腕を伝い、ヨルダを完全に灰色に染めながらとうとう掴まれたイコの手の先に掛かろうとして――
温もりが、消えた。
一瞬の浮遊感の後、ヨルダの姿が急速に遠のいていく。
ただ、落ちていくという感覚と、耳元で唸る風を切る音だけにすべてが支配されていく。
少女の顔はどこまでも悲しげで――小さくなっていく少女の姿の中で、唇の動きがやけに目に付いた。
紡がれたのは本来なら風に吹き消されるほどの小さな囁きだったのだろう。しかしその囁きは風に吹き消されることなく鮮明にイコの耳朶に触れた。
「NN…………
――ノノ…………
…………MR」
――…………モリ
――ノノモリ。
言葉の意味は判らない。けれどその言葉に籠められた想いと、泣きそうな、悲しそうな、けれど決意と確信を秘めた瞳の奥に、温もりが離れた理由だけはわかった気がした。
守るために繋いでいた手は、守るために離されたのだと。
遠くなる姿に届かないと分かっていても手を伸ばした。せめてもの抵抗と言うように、近付くどころか離れ続ける少女から視線を放すまいと顔を見上げ――その視線の先、ヨルダの背後に。
ちらり、と覗いたものは、影たちよりいっそうくらいどこまでも深い闇の色。
それは一度だけ目にして鮮烈に焼きついた、女王が纏う漆黒だった。
表情などわからないはずなのに、恐ろしいほどに美しい白い面は満足気に微笑んでいるように見えた。
しかし、イコが見続けることができたのはそこまでだった。
いつまでも落ち続けながら、イコの視界は少しずつ狭まっていき暗くなっていく。
そして、その身が海に叩きつけられる前に。
――何もわからなくなった。